第3話 仕組まれた雨乞い
雨はなかなか降ってはくれなかった。
村では食べる事にも不自由をするようになった。餓死する者も出てきた。そしてその数は増える一方だった。
飛鳥は飢饉に見舞われた。
「雨乞いが必要だな」
毛人が晴天の空を見上げながらつぶやいた。
そして、自宅の庭を見渡す。庭の木は元気がなく、花は枯れていた。
隣で大郎も天を仰いだ。まだ、朝も早い時間であるが、太陽はすでにジリジリと地上を照らしていた。
毛人が呟いた、雨乞い。
降雨を願って、大王が祈りを捧げる儀式である。
国が危機に瀕した時には、大王が神に祈りを捧げる事になっている。
「そうですね。早急に準備します」
大郎が返事をした。
「しかし、舒明様はまた、寝込んでおられるらしい」
「またですか。どうしましょう。
治ったらまた、すぐに湯治に行くのではないですか」
「うーむ」
「毛人様!」
舎人がバタバタと廊を走って来た。
「なんだ、騒々しい」
毛人がこめかみを押しながら言った。
「大王がお隠れになりました」
「何だと!」
毛人も大郎も、その場に呆然と、立ち尽くした。
舒明の突然の死去は、朝廷を震撼させた。
病弱ではあったが、このように急に亡くなるとは、誰も考えていなかった。
政は大臣である毛人と、大郎で執り行っているようなもので、それほどの問題はなかった。
しかし、次の大王を指名するという、重要な仕事はなされないままだった。候補の名前すら挙げていなかったのだ。
「争いにならなければいいのだが」
大郎は憂えた。
早速、朝儀が開かれた。
舒明の皇后、宝皇女も列席していた。
蘇我毛人は古人皇子を推挙した。
しかし、山背は次こそは、自分がなるべきと主張した。
そこへ、宝皇子が口をはさんできた。
「今、大王の問題と共に、大きな問題がある。
日照り、水不足、そして飢饉。これらは人民の生命にかかわる、大きな問題である。
天は神の子である大王の声を聞き取って下さるはず。
したがって、雨乞いを成功させた者が、次の大王になるべきじゃ」
議場が一斉にどよめいた。
「何を、突然言い出す!」
毛人の声は、小さいながらも、議場に響いた。
大郎も宝皇女を睨んだ。
(この様な事、皇后が考えつくはずはない。
裏に誰かいる。誰か……。 まさか)
大郎が反論する前に、蘇我石川麻呂が大声をあげた。彼は大郎のいとこにあたる。
「そ、それは、よい案です。
あ、雨の問題も、大王の問題も、一気に解決します。はい」
石川麻呂は、顔を真っ赤にして、汗を大量にかきながら言った。
場内に拍手と喝采があがる。
「待て。そのような方法で大王が決められた事はない」
毛人が反論したが、その言葉は宝皇女に止められた。
「我は天照の血を引く子であるぞ。私の言葉が聞けぬというか」
大王の血筋である宝皇女に逆らう事はできなかった。所詮、毛人は大臣にしか過ぎなかった。
翌日から、雨乞いの儀式が始まった。
儀式は飛鳥川のほとりで行われた。
最初は山背。2日間に及ぶ雨乞いでも、雨は降らなかった。
次に行ったのは、古人だった。しかし、古人も雨を降らせる事はできなかった。
まだ晴天は続いている。
3人目に雨乞いを行ったのは、宝皇子であった。
「自分が大王になるつもりだったのか」
宝皇女が雨乞いをすると言い出した時、大郎と毛人は彼女の策略にはまったと気が付いた。
「何かを仕掛けるつもりだ」
しかし、部外者は見守るしかなかった。
猛暑の中、大勢の聴衆が集まった。
雨が降ってほしいという切実な願いもあったが、皇后の雨乞いという前代未聞の儀式に興味を持った者も大勢いた。
大郎は群衆の一番後方で、儀式を見張っていた。
何か起きる、大郎はそんな予感がしてならなかった。始終、精神を集中させていた。
(四神の気配!)
大郎は振り返った。
「垂目!」
垂目は飛鳥川の河原を上流に向かって歩いていた。
久しぶりに見る垂目と玄武。そして、鎌足が垂目を引っ張るようにして歩いていた。垂目は青白い顔をして、ひどくやつれていた。幼い頃から変わらぬ大きな丸い目は、精気を失っている。
大郎は垂目を追いかけた。しかし隣には鎌足がいる。声をかける事はできなかった。
垂目の苦しそうな咳が聞こえてきた。
(垂目。大丈夫なのか)
大郎は白虎を撫でる手に、思わす力が入ってしまった。
血のつながりのない兄弟である。
弟は完全に兄に支配されている。
二人は河原沿いの丘に登り、木々の生い茂った所で立ち止まった。
眼下にはちょうど、雨乞いをする宝皇女が見える。
鎌足はその様子をちらっと見ると、垂目を乱暴に引き寄せた。
「始めろ」
そういって、垂目を突き飛ばした。
(まさか。垂目は玄武の力を使うつもりなのか)
大郎は木の陰から飛び出した。
しかし、遅かった。垂目は玄武の瞳を見て、水を出すように命令してしまった。
玄武から水が噴き出した。大量の水である。
吹き出た水は、周囲に降り注いだ。そして、その水は、下で雨乞いをしている宝皇女の所まで届いた。雨乞いを見守る聴衆にも、水は降り注いだ。
まるで雨が降ったように。
眼下から歓声があがった。
上から落ちてきた玄武の水を、誰もが雨と信じて疑わなかった。
雨乞いは成功した事になってしまった。
「垂目」
突然、飛び出してきた大郎に、鎌足と垂目は飛び上がらんばかりに驚いた。
垂目はしりもちをついた。その瞬間、垂目の目の黒い光は消え、噴き出していた水も止まった。
「た、大郎様」
垂目が震える声で、名を呼んだ。今にも泣きそうな、そして悔しそうな顔をした。力が抜けたように、地面に座り込んだままだ。
鎌足も動転した顔をしていたが、すぐに平静を装った。
「これは、蘇我大郎様」
皮肉っぽい顔をした。
「大臣の嫡男であるあなたが、雨乞いの儀式の最中に、こんな所にいてもいいのですか」
「大臣がいれば、問題はない」
鎌足の問いに答えを返したが、鎌足の顔は全く見ていない。鎌足の隣で震えている垂目だけを見つめていた。
(垂目。やはりお前は鎌足に、玄武の力を知られたのか)
大郎は心の中で、垂目に語りかける。
鎌足は無視をされたように感じ、一瞬、面白くなさそうな顔をした。しかし、すぐに、ニヤッと笑った。
「では、私たちはこれで失礼します」
そう言って、座り込んでいる垂目の腕を乱暴に引っ張り上げた。
「待て。垂目と話をさせてくれ」
大郎は鎌足の腕をつかんだ。鎌足は握られた腕に灼熱感を感じた。そして、大郎の瞳にも圧倒された。
鎌足はイライラして、大郎の手を払いのけた。
そして大郎を睨みつけたが、その後、思い直したように笑ってみせた。
「はい。垂目が話をしたいというならば、私が拒否する筋合いもありませんね。
垂目。どうするのだ」
垂目は蛇に睨まれたカエルの様に、縮こまっていた。
「垂目」
大郎は垂目の肩に手をかけた。大郎の瞳は穏やかだった。
垂目は震えが治まった事に気が付いた。垂目はゆっくりと、立ち上がり、鎌足とまっすぐ向き合った。
「わ、私は大郎様と、お話をしていきます。
どうぞ、お先に帰って下さい」
垂目のはっきりとした返事に、鎌足が一瞬戸惑った
しかしすぐに笑顔を作り、頭をさげてその場を去っていった。
垂目は大きな目を見開いて、大郎を見つめた。突然その場に膝をつき、頭をさげた。涙がボトボトと地面に落ちた。
「すみません。兄に、兄に知られてしまったのです」
垂目は土下座をして、何度も繰り返し謝った。大郎はしゃがみ込んで、垂目の腕をつかんだ。上半身を起こし、垂目と向かい合った。
「岡本宮の火事の時であろう」
大郎は落ち着いた声で尋ねた。垂目は何度も、首を縦に振った。
「俺が悪かったのだ。あの時、お前が救いを求めていたのはわかっていたのだ。しかし何もしてあげられなかった」
大郎が頭をさげた。
「そんな。大郎様が謝る事ではありません。
私が不注意だったのです。
あの日、宮からの帰り道、私は朱雀を見つけました。私は朱雀の主である雄君様とは面識がありませんでした。でも一度、ご挨拶をと思い、追いかけたのです。
しかし、雄君様は飛鳥丘に登り始めました。こんな夜更けに、丘に登るとはおかしなことをすると思い、黙って後を追いかけました。
すると雄君様は、朱雀を使って、宮を燃やしたのです。
私は混乱してしまって。兄に後をつけられていたことも気付かず、ゲンの力を使ってしまったのです」
垂目はゆっくりと話した。
垂目はグイッと涙を拭い、大郎の目をまっすぐに見つめた。
「しかし、私は四神の事は、決して、話しませんでした」
垂目は語気を強めた。
「兄は、私には雨を降らせる特別な力があると思ったようです。
ですから、今日の雨乞いの儀式に、私を呼んだのです。
宝皇女様の雨乞いに合わせて、雨を降らせろと命令されました。
雨乞いで大王を決めるという提案も、兄の考えたことです。
兄は、大郎様も何か秘密があると気が付いています。それを言葉の端々にちらつかせ、私を脅迫するのです。
わ、私は、逆らえませんでした」
垂目は一気に話すと、また苦しそうに咳込んだ。喉からは、呼吸をするたびにヒューヒューと音がした。
「わかった。垂目、もう話さなくていい」
大郎は垂目の背中を、優しくさすった。
垂目は苦しそうに、自分の服の胸元を握りしめた。何度か大きく深呼吸を繰り返し、息を整えようとした。
「大郎様」
垂目は少し間をおいた。
「兄は中大兄皇子様を大王にしようと考えています。
まだ若いので、母親である宝皇女様を繋ぎにして、彼が相応の年齢になるまで待つつもりなのです」
(推古様と同じだな)
大郎は推古が息子の竹田を大王にするために、即位したという話を思い出した。
「大郎様、気を付けて下さい。
中大兄皇子様は、兄に心酔しています。兄の言う事は、無条件で受け入れます。
それと、同じ蘇我の中にも、大臣や、大郎様を陥れようとする者がいます。
蘇我石川麻呂様も、そのお一人です」
大郎はうなずいた。
(確かに。
石川麻呂は、雨乞いに真っ先に賛成していた)
「兄は恐ろしい人です。
このままでは、飛鳥は兄の思うままに、操られてしまうかもしれません。
大郎様が邪魔と思えば、命さえ狙うかもしれません」
また、垂目はゼイゼイと咳込んだ。大郎は垂目の背中をさすった。
「俺の事は心配するな。俺のために、おまえが苦しまなくてもいいから。
垂目。お前は自分の事だけを考えろ」
「いいえ。これは報いです。
飛鳥のためでも、大王のためでもなく、個人の欲のために、ゲンを利用したのです。
ゲンに恨まれても、仕方ありません」
垂目の顔が、どんどん青白くなっていく。
「わかった。わかったから、もう喋るな」
垂目は力なく、ぐったりとした。大郎は垂目を抱きかかえた。
「垂目、垂目」
何度も名前を呼んだ。
大郎は垂目を地面に横たえた。しかし、余計にゼイゼイとする音が強くなり、苦しそうに身をよじった。
大郎は垂目の上半身を起こし、背中を支えた。
(まさか、このまま垂目は……)
大郎の頭の中に、不吉な予感がよぎった。
大郎はハッとして、白虎を見た。白虎は心配そうに垂目をのぞき込んでいるが、いつもと変わりがなかった。
四神の主が天に帰る時、四神は慌ただしく動き、天に向かって咆哮する。
大郎は、垂目がこのまま死んでしまうのではないかと、不安に思っていた。しかし、落ち着いている白虎を見て、安心した。
「大丈夫だ。ゆっくりと、呼吸して」
大郎は自分に言い聞かせる様に言った。
大郎が背中をさすったり、汗を拭いたりしているうちに、垂目の苦しそうな呼吸は徐々に治まってきた。
大郎は垂目を背負って、中臣の家に送った。舎人に抱えられて家の中に入って行く垂目の小さな背中。
「きらら。垂目が消えてしまいそうに見える」
大郎は胸が締め付けられる思いだった。
その日は、寝苦しい夜だった。
宝皇女の雨乞いでは、結局、本物の雨は降ってこなかったのだ。夜になっても、むしむしと熱かった。
さらに、目を閉じると、大郎は苦しそうに呼吸をする垂目の顔が浮かび、なかなか寝付けなかった。
少し眠っていたらしい。ハット気が付き、外を見ると、まだ薄暗かった。
大郎は大きなあくびをしながら、起き上がった。
そしていつもの朝の様に、白虎を見つめ、挨拶をした。その時に、白虎の落ち着かない様子に気が付いた。
「きらら!」
大郎は布団から飛び出た。
「なぜ、なぜ、その様に、動きまわっているのだ!」
大郎は大きな声をあげた。
白虎のこの仕草は、四神の主が産まれるか、亡くなる時のもの。今、大郎には、思い当たる心配があった。
「垂目!」
昨日の垂目の様子が思い出された。
白虎は、外に向かって咆哮する動作を始めた。
白虎が向いている方向には、耳成山と天香久山がある。
「きらら。耳成山か、天香久山なのか。
そうだ、青龍の主が産まれるのかもしれぬ」
大郎は自分でそう言いながらも、皇族の中で、出産を控えている者に心当たりがなかった。
大郎は大急ぎで身支度を整え、家を飛び出した。
中臣の家に到着した時、まだ太陽は顔を出していなかった。
しかし、中臣の家は人の出入りが見られていた。その中の一人の男が、門に立っている大郎に気が付いた。大郎をいぶかしげに見て、近寄って来た。
大郎は息を切らせながら、慌ただしく頭をさげた。
「この様に朝早く、申し訳ない。
私は蘇我大郎鞍作。
中臣垂目殿に、お会いしたいのだ。こちらにご滞在中のはず」
大郎は大声で門の外から話しかけた。
飛鳥の大大臣の息子。名前は誰もが知っている。
男は驚いて頭をさげた。しかし、見るからに困惑した表情。
「どうか、お目通り願いたい」
「あ、あの。主人に聞いて参ります」
男は家の中に入っていった。
しばらくして鎌足が出てきた。
「これはこれは。蘇我大郎殿。昨日は垂目がお世話になりました。
それにしても、今日は朝参もないはず。この様に早く、何事でございましょう」
何かを隠しているような、わざとらしい挨拶をしてきた。
「それは、申し訳ありません。
失礼な事と、十分承知しております。しかし、しかし垂目様に、至急お目通り願いたいのです」
大郎は焦る気持ちを隠し、できるだけ冷静に、平静に話した。
しかし、大郎の鬼気迫る瞳は隠しきれなかった。鎌足は有無を言わせない程の大郎の視線に、一歩引いてしまった。二人の間に沈黙が流れた。
「垂目に、会わせることは、できません」
「なぜに? 頼む。合わせてくれ」
大郎は深々と頭をさげた。
「無理だと言っているのです」
しばらく押し問答が続いた。
白虎の慌ただしく動き始めた。片時もじっとしていなかった。
大郎は、その時が迫っていると確信した。
(俺が、普通の者でないと、ばれてもいい!)
大郎は吹っ切った。
「はっきり言おう。垂目殿は、命の危険にさらされているのであろう」
鎌足の驚いた形相を見て、大郎はさらに強く確信を得た。
「頼む。垂目に、垂目に会わせてくれ。頼む。
ここで会えなかったら、俺は、一生後悔する」
大郎はなりふり構わず、その場に土下座をした。
鎌足は断る言葉がみつからなかった。
「……。 わかりました。では、急いでください」
「ありがとうございます」
大郎はガバッと立ち上がり、屋敷に駆け込んだ。鎌足は大郎を追いかけ、それから部屋を案内した。
廊下を歩くと、垂目の苦しむ声がもれてきた。大郎がどの部屋にいるのか、すぐにわかるほどだった。
大郎は礼節などお構いなしに、勢いよく戸を開けた。
部屋には布団の中に横たわる垂目。そのわきに座っている、年をとった薬師がいるだけだった。
薬師は突然現れた大郎に驚いていた。
「急に、すみません。垂目殿はいかがなのでしょう」
薬師は垂目の知り合いだと知り、ホッとした顔をした。しかし、すぐに厳しい表情になり、絶望的だと言わんばかりに、首をゆっくりと左右に振った。
大郎は垂目に駆け寄った。
顔は真っ青で、唇は紫色になっている。息を吸い込むたび、喉が詰まっている音がする。
垂目は苦しさのあまり、自分の手で、自分の首を掻きむしった。首と胸には何本もひっかき傷がみられ、血が流れていた。
空気を求めて、必死に息を吸い込んでいる。
玄武は静かに、垂目の脇に控えていた。いつもより近くに、すり寄るほどの距離で、玄武は垂目を見ていた。
「垂目! 垂目、俺だ。大郎だ!」
大郎は垂目に駆け寄り、垂目の体を抱きしめた。垂目は返事をすることもできなかった。しかし、うっすらと開けた目から、涙がこぼれ落ちてきた。
「わかるか。垂目」
大郎は垂目の頬に手を当てた。垂目は大郎の腕にしがみついた。大郎は大きくうなずいた。
「垂目。ゲンはお前を、恨んではいない!
お前がゲンを愛おしいと思うように、ゲンもお前を思っている。
悲しむな。恨むな。
ゲンとの楽しかった事だけを、思ってくれ!」
大郎の声は、瀕死の垂目に届いた。
垂目はゆっくりと、少しだけ目を開け、玄武に視線を向けた。その瞳は穏やかだった。
玄武の瞳が、開いた。垂目は玄武と目が合った。垂目は幸せそうに微笑んだ。
大郎は垂目を強く抱きしめた。全身が震えた。顔を垂目の肩口にうずめ、声をあげずに泣いた。
突然、垂目の力が抜けた。首が後ろに倒れ、腕も足も力なく垂れた。
大郎は抱きしめていた垂目の体を、布団に横たえた。
垂目は半分だけ目を開け、口をパクパクとさせていた。
垂目の顔からは、精気が失われていた。
それからほどなく、玄武が黒い光を発した。光は耳成山に向かって真っすぐに伸びた。
玄武は黒い光の道に乗り、ゆっくりと移動した。
垂目が産まれた時、耳成山からやって来た時と同じく、玄武は静かに動いた。
しかし、その時と違い、亀に蛇はしっかりと絡み着いていた。本来の姿で、耳成山に戻って行くことができたのだ。
白虎は玄武を追いかけるように、咆哮した。
大郎は玄武が見えなくなるまで、その姿を見送った。
中臣垂目、死す。まだ、22歳だった。
「垂目」
大郎は横たわる垂目に、優しく声をかけた。
そっと垂目の顔に触れ、頬に残る涙をぬぐった。まだ、垂目の温もりが残っていた。
薬師が垂目に近寄った。入り口に立ち尽くしていた鎌足も、垂目の脇に座った。
薬師は垂目の顔に、耳を近づけた。そして手首に触れ、脈をとった。鎌足の顔を見ると、目を伏せ、頭をさげた。
大郎は頭をさげて立ち上がった。
大郎が廊下に出ると、赤ん坊を抱いた若い女性とすれ違った。
慌てて部屋に入り、垂目の遺体に駆け寄った。
「垂目様」
女性は泣き崩れた。
大郎は始めて垂目の妻と、子供を見た。赤ん坊はまだ何もわからない。垂目によく似た大きな丸い目を、ぱっちりと開け、きゃっきゃと、声をあげていた。
大郎は廊下から、この光景を見ていた。
ポンと肩を叩かれた。振り返ると、薬師が立っていた。
「ありがとうございました」
年取った薬師は、そう言って、大郎に向かって頭をさげた。
「いえ。とんでもありません。
垂目の最後を看取っていただき、本当にありがとうございました」
大郎は慌てて、頭をさげた。
「いえ、私は何もできませんでした。
しかし、あなた様が来て下さったおかげで、垂目様は穏やかに旅立つことができたのです。
見てください。あのお顔を」
大郎は廊下から、垂目の顔を見た。
断末魔の苦悶は、その顔から消えていた。いつもの、穏やかに笑う、垂目の顔だった。
大郎の目から、再び涙がこぼれ落ちた。
薬師は大郎の肩に手をかけた。
「あなたの言葉が、垂目様を救ったのです。
ありがとうございました」
(垂目は穏やかに逝けたのか。
四神は主の最後の気持ちを引き継ぐ。垂目が後悔の気持ちを抱えたまま逝ってしまえば、ゲンがその後悔を引き継ぐ。そしてそれを、次の主が引き継ぐのだ。
垂目のためにも、玄武のためにも、次の主のためにも、それは避けたかった)
大郎は涙を流しながら、薬師に語り出した。
「わ、私は、垂目のためだけを思っていたのでは、ないかもしれません。
四……、いえ、他の人の事も考えていました。
垂目は最期だったというのに、俺は、俺は」
最後は、言葉にならなかった。
「大丈夫です。垂目様はあなたに感謝こそすれ、恨むなど、絶対にありません。
垂目様のお顔は、菩薩様の様に、穏やかです。恨み一つ、抱えては逝かなかったと、私は思います」
大郎は人目もはばからず、号泣した。
薬師は大郎の後ろで立っている鎌足に気が付いた。ゆっくりと歩み寄り、鎌足に頭をさげた。一言二言、言葉を交わした。
薬師は大郎にも頭をさげ、その場を後にした。
大郎は涙を拭ってから、鎌足の歩み寄った。
「本来であれば、家族で過ごすべき時間を、申し訳なかった」
大郎は深々と頭をさげた。
「いえ。どうか、お気になさらず」
鎌足は、垂目の死を悲しんでいる様には見えなかった。鎌足は大郎の事を、穴が開くほどに執拗に見つめた。
(しきりに叫んでいた、ゲンとはなんだ。人の名か。
それになぜ、垂目が危篤と知っていた。
蘇我大郎鞍作。やはり、垂目と同じく、なにか不思議な力を持っているに違いない。
こやつ、きっと、邪魔になる。私の叶えるべき望みの前には、邪魔な存在だ)
大郎は久ぶりに加夜の元を訪れた。
立派な青年に成長した大郎と、いつまでも変わらない、少女の様な加夜。
二人の間に流れる時間と空気は、変わる事はなかった。
大郎は触れる事ができない加夜に、そっと手をかざした。それだけで、加夜を感じる事ができた。
「加夜」
大郎は飛鳥川を見つめながら話した。
「垂目が逝ってしまったのだ。
俺よりも後に生まれたのに、俺より先に死んでしまった。俺は玄武がやって来るのも、帰って行くのも見てしまった。
俺は加夜に見守られて死にたい。それで幸せだと思っていた。
しかし、加夜は、加夜はどうなんだ。
今の俺と同じように、寂しいと思ってくれるか?」
加夜の顔に悲哀がにじんできた。
「加夜。ごめん。そんな顔をさせるつもりはなかった。いつものように、笑ってくれ」
加夜はそっと、微笑んだ。大郎と加夜はお互い笑顔で、見つめあった。
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