第5話 朱雀の炎

朱雀を従えているのは、物部雄君。

まだ34歳だが、全く活気がない。年に合わぬ年老いた顔貌で、すでに深いしわが刻み込まれている。頬はこけ、いつも疲れた表情をしている。隠居した様な生活をしており、人前に出てくる事も少ない。

大郎が話しかけようとしても、嫌悪に満ちた目で睨まれ、話しをする事すらできなかった。


彗星が空を渡ってから、数ヶ月。

大郎は初めて、雄君と関わる時がきた。

それは偶然だった。


畝傍山からの帰り道、大郎は飛鳥の山々が赤や黄に染まっている景色を楽しみながら歩いていた。そして、この日は何気なしに亀石の近くを通った。

亀石とその後ろにある亀当番小屋が見えてきた。大郎は懐かしそうに眺めた。亀当番は成人すると、その役につく事はないのだ。


小屋から正面に視線を移した。

遠くに、朱雀が見えた。

「雄君様!」

鼓動が激しくなる。雄君が大郎の方に向かって歩いているのだ。

「なんという好機。

周りに人もいない。やっと、話す機会がやってきた」

声をかけようとしたが、思い直し、亀石の影に隠れた。

(俺の姿を見ると、雄君様は逃げてしまう)

亀石の影から、こっそりと雄君を伺った。

(! きらら。お前、石からはみ出しているじゃないか。もっとこっちに来い)

大郎は白虎を手招きした。白虎はくるっと方向を変えて大郎にを向いた。そうしたら今度はしっぽが丸見えだ。

 ざっざっと、雄君の足音が聞こえるまでになった。

(そうじゃない。早く、こっちに)

大郎は焦った。

 亀石の陰でどたばたとしているうち、雄君の足音が、駆け足の音に変わった。

 大郎は亀石から飛び出し、雄君の姿を確認する。雄君は元来た道を戻り、駆けて行った。

「きらら。ほら、みろ。見つかってしまったじゃないか」

大郎は亀石から飛び出し、雄君を追いかけた。


 体力と運動能力に勝る大郎。あっという間に雄君に追いついた。

「雄君様、待ってください」

大郎は雄君の前に立ちはだかった。

 雄君は走るのをやめ、立ち止まった。しかし息がきれ、ゼイゼイと音がしている。


大郎は初めて、真正面から雄君の顔を見た。

(守屋様に似ている)

大郎は過去の世界で見てきた守屋の事を思い出した。


「どけ」

大郎を睨みつけ、怒気をぶつけた。

「雄君様。追いかけたりして、申し訳ありません。

 しかし、お話を。少しでいいのです。お話をさせてください」

「私はない。お前と話すことなど、何もない」

雄君は大郎の脇を抜けて行こうとした。

「お願いします。

 雄君様は、朱雀の存在をどう思っておられるのか」

雄君は小馬鹿にしたような笑いを浮かべた。


「そんな事が聞きたいのか。

この鳥など、ここにいるだけだ」

雄君は冷たい目で朱雀を見た。

「もう、いいか」

そう言って、雄君はそう言って、歩き始めた。

「雄君様。お待ちください」

しかし雄君は歩みを止めなかった。

 亀石の前まで戻った時、大郎は雄君の腕をつかんで、引き止めた。

「申し訳ありません。でも、もう少しお願いします。

四神は飛鳥を守るために、ここにいるのです。

その主として神から選ばれた私達も、飛鳥を守らなくてはならないと思います。

 飛鳥に何か起きた時、飛鳥を救うために、私たちにお力を貸して下さい」

大郎は深々と頭をさげた。

「飛鳥を守る?

 ふん。そういえば、厩戸も同じような事を言っていたな。お前はあいつに洗脳されたのか。

 飛鳥を守った所で何がある。

 第一、俺は厩戸も、お前たち蘇我も大嫌いなのだ。話すだけでイライラする。

 もう俺の前に現れるな。殺されたくなかったらな」

雄君の殺意に満ちた瞳は、その言葉が本気であることを示している。


「丁未の戦の恨みですか?」

過去の世界で、白虎が言った言葉を思い出した。


『朱雀は守屋の怨みを、玄武は勝海の後悔を抱えて飛鳥に戻った』


(朱雀は守屋様の恨みを抱えたまま、雄君様の元にやって来たのかもしれない。

 そして、その恨みが、雄君様の心に影響しているのか)

大郎が常々考えていた事だ。

「丁未の戦など、俺が産まれるずっと昔の話。俺の知る所ではない。

 確かに物部は蘇我と上宮に負け、すっかり衰退している。それによって、俺はしいたげられた生活を余儀なくされている。

 しかし、だからと言って、お前を恨むほど、俺は愚かではない。

 お前らを憎むこの気持ちに、理由などない。厩戸や馬子を見た時から、気に食わないだけだ」

雄君の顔が紅潮してきた。目は充血し、頬がピクピクと痙攣した。

(雄君様自身は、恨みの根本がわからないのだ。

 これを雄君様に伝えたところで、彼の心に安らぎが来るわけではないし、余計に混乱させるだけかもしれない)

大郎が考え込んだ、ほんの数秒で、雄君は踵を返してその場から離れた。大郎は慌てて追いかけた。

「しつこい!」

雄君は大郎の肩を突いた。しかしがっしりとした大郎は、ピクとも動かなかった。逆に雄君が跳ね返され、よろけて膝をついた。

 雄君の怒りが爆発した。


 その時、亀当番の小屋から人が出て来た。騒ぎを聞きつけたのだろうか。

(まずい。こんな時に!)

大郎は小屋に目を向けた。そこにいたのは、亀当番をしていた、垂目であった。

 雄君は全く気が付かなかった。


「お前を、朱雀の炎で焼いてやりたいよ!」

雄君は自分では制御できない感情に支配された。

 雄君は朱雀に目を向けた。

 その時、意図せず、朱雀と雄君の視線がぴたりと合った。

 雄君の瞳が赤色に変わった。


 垂目は誰か喧嘩をしているようだと、思わず外に出て来たのだった。

 しかし、そこには四神を従えた二人がいたのだ。

 垂目は朱雀をこんなに間近に見たのは初めてだった。まばゆいほどの、赤い光を放っている。

(綺麗だ)

垂目は見とれた。

 思わず、大郎と雄君の所へ、駆け出した。


「垂目! 来るな!」

大郎が叫んだ、その瞬間。


 朱雀は激しく羽をばたつかせ、その羽から火の塊が発射された。

炎は大郎を襲った。

 火は瞬く間に大郎の服に燃え移った。

「うわぁぁぁ」

大郎は地面に転げ回った。

 主の命令なしには何もできない白虎は、そばでうろつくだけだった。


 雄君は魂を向かれたように、呆然となった。

 そして、その場に崩れ落ちた。

 朱雀は羽ばたきを止め、雄君の隣にすまして立った。


「大郎様!」

垂目は錯乱状態に陥った。

 垂目はあわてふためいて、火だるまの大郎の元に駆け寄った。手でバタバタと叩くが、何の役にも立たなかった。

「ゲン! 火を消してよ! 大郎様を助けてぇ」

垂目はそばにいる玄武に、救いを求めた。

 垂目と玄武の目が合った瞬間。

 垂目の目が黒く光り、玄武の体も黒く光った。

 そして、その光は亀石までも包んでいった。


 亀石がずずっと音をたて、右に回転し始めた。

 ついに亀石の顔が西を向いたところで、回転は止まった。

 すると徐々に、亀石の黒い光が、楕円形に形作られていく。

 黒い光の塊は、やがて亀となった。亀は垂目の元にやって来た。そして、蛇は亀に巻き付いた。一体化した蛇と亀は、さらに漆黒の光に包まれた。


 突然、玄武から大量の水が放出されてきた。水は滝のように落ちて来る。辺り一面が水没する勢いだった。

 大郎を襲っていた炎は、あっという間に消された。

 しかし、水は止まる事がなかった。大郎は息がつけなかった。

「垂目。やめろ。やめるんだぁ」

しかし垂目にその叫びは聞こえなかった。真黒な瞳を見開き、瞬きもせずに玄武と目を合わせている。意識があるのかもわからない。

 大郎は咳き込みながら、垂目の元に這って向かう。火傷が地面にこすれ、激痛が走る。体が思うように動かない。

 水の攻撃と体中に痛みに耐えながら、必死で垂目に触れる事ができた。しかし垂目は大郎を見る事はなかった。


 大郎は亀石が西を向いている事に気が付いた。

『亀石が西を向くと、大和が水没する』

昔からの言い伝えが頭をよぎった。

「亀石を、戻せばいいのか」

大郎はなんの根拠もないまま、亀石にしがみつき、元の位置に戻そうとした。しかし巨大な石は、びくともしなかった。


「きらら。亀石を戻してくれ!」

大郎は白虎の目を見て、叫んだ。

 白い光が大郎を白虎を包む。地面が揺れた。その振動で亀石が動き出した。ずずっと、左に回転し始めた。ゆっくりと、亀石は元の位置に戻った。


 その瞬間、垂目がパチパチと瞬きをした。そして、きょろきょろとあたりを見渡したが、ばたっとその場に倒れてしまった。

 水はピタッと止まった。

 

「おおおお!」

雄君が狂気的な声をあげて、立ち上がった。足元はふらつき、よろよろと倒れそうになった。しかし、目だけは精気をみなぎらせていた。

「なんと。この様な使い方があったとは。朱雀よ」

雄君はケラケラと笑いながら、歩き出した。

「待って、待ってください」

大郎は倒れたまま、手を雄君に伸ばした。

「四神は、四神の、力は、あ、飛鳥のため、守るため……」

必死に声を振り絞った。

 雄君は1回立ち止まり、振り返った。しかし膝がガクッとおれ、その場にしりもちをついた。いつもの青い顔はさらに青くなっている。ゼイゼイと息も切れていた。

 それでも大郎を睨みつけた。

「お前は、阿呆か。そんなになってまで、飛鳥を守るなどと言っているのか。

 飛鳥を、守って何になる。

 この朱雀は、俺のものだ」

そう言い放つと、ゆっくりと立ち上がり、よろけながらその場を去っていった。

 雄君に伸ばした大郎の手は、力なく地面に落ちた。

『大郎の心からの願いにも、朱雀の主には届かぬのか……』


 垂目は我に返った。隣の玄武に目を向けると、亀と蛇が一緒にいる。

(玄武は、亀と蛇。これが、本当の姿なのかな)

垂目はまだ、頭に霧がかかった様にぼんやりとしていた。しかも体がだるくて、首を動かすもの億劫に感じる。息も切れ、息をするのも苦しかった。

 あたり一面水浸しになっている惨状を見ても、驚く気力すら残っていなかった。

 

 しかし、亀石のそばで倒れている大郎を見て、意識が戻って来た。

「た、大郎様……」

垂目は這って大郎に近づいた。

 大郎の意識はもうろうとしていた。

 全身の火傷が痛々しかった。胸と腹、上肢が焼けただれ、表皮がはがれている。顔にも火傷の跡があり、髪も一部縮れていた。

「大郎様。大郎様」

垂目は小さな声で名を呼び、頬をさすった。しかし大郎は目を開けなかった。

「ど、どうしよう……」


 垂目は助けを呼びに行こうと考えた。

「きらら。大郎様を頼むよ」

そう言って、ゆっくりと立ち上がった。ゴホゴホと咳き込み、膝をついた。しかしもう一度立ち上がって、歩き出そうとした。

 しかし、体は思うように動いてはくれなかった。


 そこに、人の声が聞こえた。

「なんだ! なぜ、ここだけこのように水浸しに」

通りがかりの人が、驚いているようだった。

 垂目はその声に聞き覚えがあった。

「兄上……」

垂目は兄、鎌足に助けを求めた。

 鎌足は亀石の所で座り込んでいる弟に気が付いた。

「垂目! なんだ、これは!

 んっ? どうした、人が倒れているではないか?

 んんっ? まさか、蘇我大郎か!?」

 偶然通りかかった野口の地。どこも乾燥しているというのに、ここだけ水浸しで、足がぬかるむほどだった。

 そしてそこにはびしょ濡れになっている弟と、おなじくびしょ濡れで全身やけどを負っている、蘇我家の嫡男。

「いったい、なにが、どうなっているのだ」

鎌足は仁王立ちになり、大きな声で叫んだ。


「わかりません。私が、亀当番小屋にいましたら、声がしたので出てみました。

 外は雨が降っていて、そして大郎様がこの様なお姿に」

垂目はとっさに考えた嘘を、咳込みながら話した。

「助けて下さい。兄上」

確かに大郎は虫の息だった。早く処置をしないと危ないと鎌足は思った。

「垂目、お前は大丈夫なのか?」

「わ、私は大丈夫です。いつもの事です」

「わかった。私が助けを探して来る。この男、私だけでは運ぶこともできない。

 垂目、お前はここで待っていろ」

「はい。ありがとうございます」

垂目は涙目で礼を言った。


 鎌足は来た道を戻った。ここに来る道すがら、農作業をしている者を見ていた。その者達に手伝ってもらおうと、目安をつけていた。

(あの状況。ただ事ではない。

 おそらく垂目も知っているのだろう。奴らには、何か秘密がある。

 いつか、暴いてみせる)


 鎌足の手配で、大郎は蘇我の家に運ばれた。

 その時には意識はなく、息も絶え絶えとなっていた。


 大郎は生死の境を彷徨った。

 薬師は助からない可能性もあると、毛人に告げた。


 大郎は夢をみていた。

 加夜がそばにいる。加夜が心配そうに見つめている。

《大郎》

(加夜の声か?)

飛鳥川のせせらぎに似た声。心地よい声が、大郎を安らいだ気持ちにさせた。

(加夜の声が聞こえるって事は、もしかして、俺は死んだのか?)

大郎は自分の手のひらを見つめ、何回か手を握っては開くことを繰り返してみた。

(死んだという実感はないが、死ぬってのはこんなものかもしれない。

 でも、こうやって加夜の顔が見られて、話す事ができるなら、それでもいい)

《いいえ。死んではいない。死んではだめ。

 死んだら、大郎の魂は飛鳥を離れてしまう。私たちは二度と会えなくなってしまう。

 死なないで!》


 大郎はパチッと目を開いた。途端、全身の激痛に襲われた。

「うぅぅ」

声がもれた。

「大郎。気が付いたか。よかった。もう、大丈夫だ」

毛人の声が聞こえた。目は開けているが、まだぼんやりとしか景色は見えない。

 突然、朱雀の炎が目の前によみがえってきた。炎が鮮明に見えるのだ。

(うわぁぁぁ)

大郎はもうろうとした意識の中で叫ぼうとした。しかし声を出そうとしても出ない。さらに喉の焼けつくような痛みに襲われた。

 息が詰まりそうになった。大郎は呼吸のできない恐怖にも襲われた。

 充血した目を見開き、全身が痙攣しているようにガタガタと震えた。

「大郎。大丈夫だ。しっかりしろ」

毛人が大郎を抱き抱えた。薬師が呼ばれた。


 大郎は無意識に、瞳だけを横に向けた。視線の先には白虎がいた。心配そうに大郎を見つめている。

 白虎はゆっくりと大郎に近寄り、ペロッと頬をなめた。大郎は痛みに耐えながら、必死に腕を伸ばした。そして白虎の首筋を撫でた。穏やかに白虎に笑いかける。

 

 大郎が宙を撫で、誰もいないのに、笑っていると、大郎を囲んで心配していた者は驚いた。

 悪霊に取りつかれたのかもしれないと、祈祷師まで呼ばれた。

 薬師によって催眠作用のある薬が調合され、大郎は有無を言わさず飲まされた。薬にむせ込むと、再び激痛に襲われた。

 大郎は薬が効いたのか、意識が遠くなる。眠りに入る前、大郎はもう一度白虎をみた。白虎は穏やかな顔で大郎を見つめていた。

(ああ。俺は生きられる)

大郎は、深い眠りについた。



 



 

 


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