第4話 天を渡る彗星

 大郎24歳。

 大郎は家のために結婚はした。

 何人かの妻との間には、子供には恵まれなかった。妻の所に足を運ばぬ夫と、周囲から言われていた。

 何年たっても、大郎は加夜以外の女性を愛することができなかった。


 秋、8月。この年は雨不足であった。


 旻の私塾は評判がよく、規模が大きくなっていた。この塾には大人から子供、平民から豪族、役人の家の者まで、様々な人々が集まっていた。

 神祇伯の子供である、中臣鎌足もその一人だ。相変わらず優秀であるが、愛想がなく、いつも一人で勉強していた。

 そして、大郎に誘われた古人皇子もここに通っていた。自由な風潮の塾であるが、大王の子となると、話は別である。皇子が平民と机を並べるなど、考えられないことであった。

 古人は大郎の遠縁の蘇我古彦と名乗らせ、皇子であることは伏せていた。


「旻師は私の事に、気が付いていますよね」

古人はある日の授業の帰り道、大郎に話しかけた。

「そうだな。旻師は鋭いお方だから。俺の安易なごまかしなど、見破っておいでかもしれない。

 しかし師が何もおっしゃらないのだから、気にしなくてよいだろう」

「はい。

 でも、中臣鎌足様も、何かしら気が付いているかもしれません。

 いつも私の事を睨んでいます」

大郎はふふっと微笑んだ。

「それは違う。彼は俺が嫌いなのだ。あれは古人を睨んでいるのではない。俺を睨みつけているのだ。

 古人はいつも俺と一緒だからな。自分が睨まれているようにみえるだろう」

「そうなのですか。でも、やはり私は鎌足様は苦手です」

「俺もだ。ははは」

大郎は屈託なく笑った。


「ところで、古人は、身元がばれてしまったら、ここを辞めるのか?」

「いいえ。辞めたくはありません。

 ここでの勉学は、私の身になります。唐や百済の言葉も随分わかるようになりました」

古人の真剣な眼差しに、大郎はうれしそうにうなずいた。


 大郎と古人はそれぞれに用があり、二人は一緒に岡本宮に向かっていた。

 宮の前まで来た時、大郎は門の前にいる山背に気が付いた。

「山背」

大郎は純粋にうれしく思い、山背に駆け寄った。しかし山背はくるっと大郎に背を向け、歩き始めた。

「待ってくれ。山背」

大郎は山背の肩に手をかけた。山背は、バシッと大郎の手を払った。

 大郎は払われた手を呆然と見つめた。

 それでも大郎は、今度は山背の前方に回った。山背は非難めいた目で大郎を見た。

(やはり山背は俺と会いたくないのだ)

わかってはいても、大郎は山背との会話を、諦めたくなかった。


「古人と組んだのだな」

山背は大郎を睨んだ。

「なんのことだ」

「しらばっくれるな。

 だから蘇我は、田村を大王にしたのだな。そして次はお前と仲の良い古人か?

 大郎。お前は俺の願いを知っていたはずだ。

 俺は、少しは期待していたのだ。お前が毛人殿に進言してくれるものと」

山背は人目もはばからず怒鳴りちらした。

 岡本宮の門前に人だかりができる。朝廷の役人もいる。

「山背。ここでそんな事を言うな」

「うるさい!

 こうやって、蘇我は皇族に取り入って、朝廷を操るのだ。馬子殿や毛人殿と同じだ」

「山背!」

もはや大郎の声は、山背には届かなかった。

「お前の事は昔から気に入らなかったのだ。お前は父上に気に入られていた。そんなお前には、俺の孤独などわからぬ。

 大郎。お前とはもう話もしたくない」

山背は言葉を投げ捨てると、その場を走り去った。

 大郎はその場に立ち尽くした。追いかけることはできなかった。

「山背」

大郎の友を呼ぶ声は、虚しく空に消えた。


蘇我家と上宮家の決別。蘇我馬子と厩戸王が築いた関係は崩れ去ったと、あっという間に朝廷内の噂になってしまった。


 数日後。

 大郎は熱を出し、寝込んだ。

 古人が嶋の家を訪ねて来た。毛人が恭しく出迎えた。

「皇子様にご心配いただくようなものではありません。わざわざ出向いていただき、申し訳ございません」

「心配ないのならいいのですが、大郎殿が寝込むなど、これまで聞いた事がなかったもので。

 少し冷え込むようになりましたから。やはり風邪をひかれたのでしょうか」

「確かに丈夫が取り柄の男ですから。

 実は、大きな声では言えませんが、昨晩、庭で寝ていたのでございます。

 自業自得というものでございます」

「庭ですか……」

「父上。余計な事をしゃべらないで下さい」

部屋から大郎が出て来たが、真っ赤な顔をして、ゴホゴホと咳き込んだ。

「本当の事だろう」

毛人はしれっと言った。大郎はそれには言い返せずにいた。

 一つ咳ばらいをして、大郎は古人に視線を向けた。

「古人。わざわざすまない。しかしうつったら大変だ。気を使わなくてもいいのだぞ」

「いえ。私は大丈夫です。それより、私は大郎とお話がしたかったのです。

 こんな時に、申し訳ないとも思ったのですが」

「俺は大丈夫だ。まぁ、入れ」

二人の会話を聞きながら、毛人はほくそ笑んでいた。

「古人様。どうかごゆっくりしてください。

 後で、お茶でも運ばせます」

そう言って毛人は奥に下がった。


「あの、庭で寝ていたと……」

大郎の顔がさらに赤くなった。

「……。いや、昨日の晩、眠れなかったので、少し外に出たのだ。

 それより古人。お前は見たか?」

「はい? 何をですか?」

「星だよ。たぶんな。とてつもなく大きな星だ。昨日の夜、ものすごいものを見たのだ」

大郎は興奮しながら、昨晩の事を語り始めた。


 新月の夜。かすかな星灯りだけしか、見えない夜だった。

 大郎は庭に出て寝ころんだ。

「星が、落ちてきそうだな」

大郎は星をぼーっと眺めた。

「きらら。眠れぬ夜は、思い出したくないことばかりが、頭の中を巡るのだ。

 ……。 加夜にも、しばらく会っていない」

大郎は目を閉じ、加夜の顔を思い浮かべた。


 白虎は大郎が眠ったのかと思った。それくらい、ゆっくりと大郎は目を閉じていた。

 目を覚ましたように大郎が目を開けた。

 すると、今度は目をパチパと瞬かせた。

「あれは、なんだ!」

大郎は慌てて起き上がった。もう一度空を見上げ、凝視した。白虎も続けて上を見た。

 南の空が明るく光っている。

「何だ! あの巨大な星は!

 星にしっぽが付いているぞ。でかい。でかいぞ。流れ星か。いや、それとも違う。

 まさか、天変地異の前触れか?」

大郎は夜中という事も忘れ、大きな声をあげた。


『落ち着け』

白虎の声が聞こえた気がした。大郎は隣にいる白虎が平然と空を眺めている姿を見て、すっかり安心した。

「よく見ると、とてもきれいだ。夕暮れの太陽の様だな。

 天には俺たちの知らない不思議な物が、まだまだたくさんあるんだな」

大郎は秋風が吹いてくる庭に、大の字で寝そべった。

「おお、空を独り占めしている気分。

 加夜も、この星を見ているだろうか」

愛しい人の顔を思い浮かべながら、大郎は天を渡る巨大な星を眺めていた。


「……。それでだ、その星を見ていたら、そのまま寝てしまったのだ。しかし今朝はだいぶ冷え込んでいて、それでこのざまだ」

大郎は苦しそうに咳き込んだ。

 古人はクスクスと笑った。

「確かに笑われても仕方ない、まぬけな話だ」

大郎は面白くなさそうに言った。

 しかしすぐに、目を輝かせて古人に語り掛けた。

「しかし、あれを見られなかったとは、お前は残念なことをしたな。

 本当に素晴らしい眺めだった。天を明るく照らす星など、見たことがないだろう」

大郎は興奮していた。

「し、しかし、そのような星の話など、聞いたことがありません。

 天に摩訶不思議な物が現れるなど、よからぬ事の前触れではないのですか?」

「それは、俺も一瞬考えたのだ。しかし、きらっ!」

たろうはきららと言いそうになり、慌てて言葉を止めた。はずみでまた、激しく咳き込んでしまった。

 古人が首を傾げた。

「あっ、いや。あのようにキラキラした綺麗な物が、凶兆のはずがない。それに、何も起きてはいないだろう」

「はい。……、しかし」

「そうだ、旻師はきっとご存知のはず。明日、師に尋ねてみよう」

「そうですね……」

そう言いながら、古人は顔を曇らせた。


「そういえば、古人」

大郎はその表情に気が付きながら、話を変えた。

「何か、俺に話があると言っていたな」

「あっ。はい……」

古人は口ごもった。

「何か、言いにくいことなのか?」

「はい。あ、いえっ。

 あの、先日の事ですが……」

「何だ?」

「いえ。違います。

 あの、私は旻師の塾を辞めようかと思いまして」

「なぜだ? あんなに熱心に勉強していたではないか。

 旻師の学問は素晴らしいと言っていたではないか」

大郎は詰め寄った。

「はい。それは、そうですが。

 私が身分を隠して通う事も、そろそろ限界かと思いますし。

 私は朝廷の講師に教えを請う事にしようかと思いまして」

大郎は古人の目をじっと見つめた。古人は戸惑い、瞳をきょろきょろとさせ、視線を下に向けた。

「それは、お前の本心ではないだろう。もっと、何かあるはずだ。

 正直に話してくれ」

大郎は古人の瞳を射抜くほどに、鋭く見つめた。


 古人は泣きそうな顔になり、鼻をすすりながら話し始めた。

「……。 だって、大郎は、私と一緒にいたことで、山背様と言い争いになったではないですか。

 山背様には妙な誤解を与えてしまいましたし。朝廷内では蘇我家と上宮家は決別したとまで言われています。

 私達は、表立って一緒にいてはいけなかったのです。

 どうか、山背様の誤解を解いてください」


 大郎は古人を、弟をかわいがる兄の様に優しく見つめた。

「悪かったな。あんなみっともない所を見せてしまって。

 お前が悩む事ではないのだ。

 山背は、感情が激しい人間なのだ。あの時は他に、なにかイライラすることがあったのかもしれない。それで、興奮してしまって、心にもないことまで言ってしまったのだろう。

 今頃は、どうやって謝まろうかと、一生懸命考えている事だろう」

大郎は遠い目をして言った。

「だから、気にしなくていい。

 俺とお前はいとこであり学友だ。誰に隠す事でもない」

「いえ。それだけではなく、私が大郎といると、大王の座を狙っているからだと、陰で言われます。それもつらい事です」

「そんな事は気にしなくていいではないか。

 逆に聞くが、古人は大王になりたくないのか?」

大郎は歯に衣着せぬ物言いで古人に尋ねた。


『大王即位は非常に繊細な問題だ。

 大王の座を狙っているなど、開け広げに言える事ではないだろう』

白虎の方は人の世のしがらみを理解している。


「わ、私は、大王にはなれないと思います。

 私と中大兄の母親では位が違います。彼の母親である宝皇女様は皇室の出ですし。それに、父上も中大兄をかわいがっております。おそらく義弟が大王の後を継ぐのではないかと思います」

「父親や母親は関係ないであろう。

 お前がなりたいかどうか聞いているのだ」

大郎の表情が厳しくなった。古人は怒られているのかと思った。

 しかし大郎は古人の本心を聞こうとしているだけだった。それに気が付いた古人は、決心を決めて話し始めた。

「以前の私は、そのような事を考えないようにしてきました。

 しかし旻師の所で学ぶようになり、例えば唐や三国の事、大和の役割、儒教の教えだけでなく、皇帝学、指導者とはどうあるべきかを学びました。

 今、私は、大王になった際には、どのような国にしようか、考える事もあるのです」

古人は唇をきゅっと引き締めた。

 大郎は満足そうにうなずいた。


 翌日、大郎と古人は授業の始まる前に、旻師の元を訪ねた。

 大郎は旻に、自分の見た、巨大な星について話をした。

「流星の様にも見えましたが、なにしろ、大きいのです。

 旻師はご覧になりましたか?」

「もちろんです。

 私は周易を学んでおります。毎晩、星を読み解いております。

 あの日は南から彗星がやってきていました」

「彗星?」

大郎と古人の声が重なった。

「はい。古代より世界中で確認されている星です。遥か遠くの天空を、まわっていると考えられています。

 彗星が現れると、災いが起こるとも言われています」

「やはり」

古人は大郎の肩をたたいた。自分の言っていた通りではないかと、言わんばかりだ。

「それは、単なる言い伝えだろう。あの星は違う」

「おや。大郎は言い切るのですね。言い伝えの類は信じないのですか?

 それとも、そうではないと、言い切れる確信があるのですか」

旻は穏やかだが、はっきりとした答えを求めた。

(うーむ。きららが平然としていたから。というのが、俺にとっては、立派な根拠なのだが。

 それを説明する術がない)

大郎は腕を組んで考えを巡らせた。

「いえ。すべてを信じていないわけではありません。

 師からも教わった通り、太陽、月、星は人の運命と大きく関わっています。

 また、昔からの口伝には真実も含まれています。それらの真偽を見極める事が、重要だと思っています。

 だた、あの星に限って言えば、そういった類のものではないと思っただけです。

 流れ星の一種ではないかと思っています」


「しかし、大郎」

古人が話しに割って入った。

「以前、雲もないのに、陽が陰った時があったではないですか。あれも天の異変でした。

 大郎はなんともないと言いましたが、推古様はその数日後にお隠れになりました。

 さらにその年は大飢饉に見舞われ、多くの人々が亡くなりました。

天の異変は、何かのお告げなのです」

「それは、違うぞ。

推古様は、その前から体調を崩しておられただろう。御年76歳。大きな声では言えぬが、あれは大往生と言うのだ。

飢饉とて、あの年に限った事ではあるまい。今年も雨が少ない。注意しなくてはならないだろう。

それにだ。あの昼間に暗くなったというあれは、太陽が月に隠れただけの話」

「大郎! あなたは日食を知っていたのですか?」

「えっ? にっしょく、ですか?

いえ、知りませんが」

「では、なぜ月に太陽が隠れた事まで、知っているのですか」

「あぁ、あの」

まさか、白虎の眼を借りて、隠れた太陽を見たとは言えぬ。大郎はすっかり、言い淀んだ。

「あの、あれは、日食という現象なのですね」

旻は自分の質問に回答しない大郎を、意外そうに見つめた。それでも、それ以上は追求しなかった。


旻は紙と筆を取り出し、絵を描きながら説明を始めた。

「月、太陽、星は天を規則的に回っています。月は空の一番低い所を回り、太陽はその外側です。

月と太陽の位置が重なると、この様に、大地からは、太陽が隠れてしまいます。

そうすると、太陽の光が月に遮られて、大地は暗く、寒くなるのです」

「ほぉ」

大郎は身を乗り出して、旻の説明に聞き入った。


 その日の授業が始まった。

「まず、試験の結果を発表します。

 今回も蘇我大郎が最も優秀でした」

旻の言葉に盛大な拍手が起きた。大郎は立ち上がり、一礼した。

 顔を上げた瞬間、意図はしなかったが、鎌足と目が合ってしまった。その時の鎌足の目は、恐ろしいほどに、憎しみに満ちていた。大郎は気づかない艇を装ったが、鎌足の視線はしばらく痛かった。


「次は中臣鎌足。

鎌足は外国語が素晴らしい。特に百済語は見事でした」

バチバチとまばらな拍手。鎌足は面白くなさそうに、そっぽを向いていた。

「大郎様の次というのが気に入らないんだ」

コソコソと話す声が聞こえてきた。鎌足はキッと、その二人を睨みつけた。


鎌足は大郎に、悪意とも思える感情をぶつけてくる。

なぜそこまで嫌われるのか、思い当たる事がない。口を聞いてもくれない鎌足に、それを尋ねる事もできなかった。


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