第2話 大郎と垂目
推古36年。
飛鳥は田植えの季節を迎えていた。
その日、いつもの通りに夜が明け、いつも通りに太陽は東の空に昇った。今日は天気が良い。仕事がはかどると、農民たちは喜んだ。
大郎は蘇我の領地に出かけた。田植えの準備と、作付けについて指示を出した。
「大郎様は、まだ嫁様をもらわないのですか」
気さくな大郎に、領民は屈託なく話しかけてくる。
「お前たちまで、父上の様な事を言うな」
皆が一斉に大笑いをする。
「ん?」
大郎はあたりが暗くなった様に思った。ほんのわずかの変化。
空を見上げた。雲一つない紺碧の空が広がっているだけ。太陽を遮るものは何もない。
「気のせいか」
大郎は作業を続けた。
そのうち、ザワザワと声をあげる者が出て来た。
「暗くなってきたぞ」
作業をする手が止まった。
空は転がり落ちるように、一気に薄暗くなってきた。まるで夕暮れ時のようだ。風がひんやりとしてきた。空気が冷えてきているのだ。
皆、空を見上げた。いつもは眩しくて見る事もできない昼間の太陽の光を見る事ができる。
「太陽が、弱まっている」
「まさか、このまま太陽が消えるんじゃないか」
「あああ、この世の終わりじゃ」
あたりは大混乱となった。無意味に動き回る者、奇妙な声をあげる者、天を拝む者。女や子供は泣き出した。
大郎も少なからず混乱していた。しかし領主の息子であるという自覚が、かろうじて冷静を保たせていた。
「落ち着け。落ち着くのだ。俺達には何の影響もない。心配するな」
しかし、大郎自身混乱している。大郎の声は皆には届かなかった。
大郎にもこんな経験はない。何が起きているのか、必死に頭を巡らせた。
大郎はすがるように白虎に目を向けた。
『落ち着け。単なる自然現象だ。すぐに元に戻る』
大郎に白虎の声は聞こえないが、どっしりと落ち着いている白虎の姿を見て大郎は安心した。
大郎は領民に向き直り、声を張り上げた。
「皆。落ち着け。何事も起こらぬ。すぐに元に戻る」
大郎の大きくて、はっきりとした声はようやく領民に届いた。
「でも、大郎様。ますます暗くなっていきます」
「心配するな。暗くなっても、俺達には何の影響もない。
真っ暗になったら、あとは明るくなるだけだ。静かに待っていろ」
きっぱりと言い切った領主の息子の言葉に、混乱は少し治まった。
太陽が沈み、まるで夕闇の世界になった。
大郎は皆から少し離れた所に移動した。そして白虎の目を見つめ、白い光を得た。
「きらら。どうしてこんな事になってるんだ。
お前にはわかっているのだろう。俺に教えてくれ」
きららは上を向いた。大郎もそれにつられて天を仰ぐ。
「太陽が見える。これ、きららの目なのか? きららの見ているものが見えているのか」
大郎は興奮した。
「ああ。お天道様がかけている。三日月のようだ。
あっ。太陽の前に、なにか大きな球体がはだかっている。あれが、太陽を隠しているのだ。
あれは、そうだ。月か? そうだ、月が太陽を隠しているんだ」
白虎は大きくうなずいた。
『この地はくるくると回り、月は地球を回り、地は太陽を回る。
そしてそれらが、重なりあった時に起きる現象だ』
白虎の声が聞こえない大郎。もちろん日食という言葉も知らない。それでも、今、見えている太陽を見ながら必死に考えた。
「なぜ昼間に月が存在しているのだろう。月と太陽は交互に現れるものはないか。
今日の月は、隠れるのを忘れたのか。
うーむ。自然とは不思議なものだ。
我らの知らない事は、まだまだたくさんあるのだな」
大郎は自然現象として、この奇怪な現象を受け入れた。
暗くなってから、随分時間が経った。空気が冷やされ、肌寒くなってきた。
大郎は白虎を見つめ、首を撫でた。
「ありがとう。きらら」
大郎が笑って話かけると、大郎の目はいつもの黒い瞳に戻った。
白虎の力を利用したため、大郎は体の力が抜け、その場にしりもちをついた。気温の低下が、体温も奪ったようだ。がくがくと震えがきた。
世界には、少しずつ明かりが戻ってきていた。
離れたところから歓声が聞こえてきた。
「太陽が戻ってきて、みな喜んでいるのだろう」
大郎は大きなため息をつき、目を閉じた。
急に大郎の周りがにぎやかになった。
「大郎様のおっしゃった通りです」
「ありがとうございます」
民は大騒ぎをして、大郎を迎えに来たのだ。
びっくりとして目を開けた。大勢に囲まれていることに、ようやく気が付いた。
「待て。俺は何もしていないぞ」
大郎は力が入らず、囁くような声しか出ない。
「大郎様が太陽を戻してくれた」
「はっ? 何を言っている。そんな事、俺ができるわけなかろう」
大郎はいつの間にか、超人的な人間になっていた。
この騒ぎの4日前に、推古が倒れていた。
76歳という長寿。これまで、病一つもしない健康な彼女の病は、宮を騒がせた。
しかし、自分を支えていた、厩戸も馬子も亡くなり、年と共に気力も萎えていた。最近では政を執り行うことも、面倒くさいと思うようになってしまっていた。
「私は、このまま、死ぬのでしょうね」
推古は病床で考えていた。
「私が大王になったのは、竹田が成長するのを待つためだった。泊瀬部が死んだとき、まだ竹田は幼かったから、そのつなぎと、あの厩戸と馬子に担ぎだされて。
でも結局、竹田は幼くして死んでしまうし、政は厩戸と蘇我の言うなり。私はお飾りに過ぎなかったよね。
ああ、もう、どうでもよくなったわ。
誰が大王になっても、私には関係ない。毛人には田村を指名しろって言われたけど、そのまま話すのも、面白くないし」
推古はパチッと目を開けると、大切な話があるから皆を呼ぶように命令した。
次の大王の指名があると、一気にうわさが流れた。
大王の候補であった田村と山背を枕元に呼んだ。二人は緊張した面持ちで推古の脇に座った。
しかし推古は二人に教訓を与えただけだった。
そしてそれきり、目を開かず、口も開かなかった。
(次の大王の座を争って、もめればいい)
2日後、推古崩御。
そして、推古の思惑通り、飛鳥は動乱の時を迎える。
数日前に太陽が消えかけた事は、皆の記憶に残っていた。
「太陽が消えたからだ。太陽神、天照大神様がお怒りになったのだ。
飛鳥が呪われる」
あちこちで不吉な噂話が流れた。
天命ではあったが、日食と大王の死を考え合わせる民は大勢いた。
大王には、毛人の一言で、田村皇子に決まった。山背はまだ22歳。まだ若いというのが、その理由だった。
初夏。
大郎は畝傍山に来ていた。
お気に入りの場所で、空を見上げた。
「ここで、きららに乗って、空の散歩とか言っていたよな。
しかし、今、考えると、なんて危険な事をしていたのだろう。どこで人に見られるかもわからないのに。
そういえば、山背に見られた事があったよな。あれは、焦った」
大郎は思い出し笑いをした。
「山背か……。 もう、随分、話をしていないな。飛鳥に来ても、俺に会いに来ることはなくなったからな。
あの頃は楽しかった。山背とかけっこしたり、話をしたり」
大郎は目を伏せ、白虎を撫でた。
「ああ、もう一度、空の散歩をしたいよ。きらら。
お前と空を飛んでいると、嫌な事はすべて忘れられた」
白虎は警戒するように、後ずさりした。
「ははは。大丈夫だ。背中に乗せろなんて、もう言わないから」
「……、大郎、様」
とぎれとぎれに大郎を呼ぶ声が、聞こえてきた。大郎は周囲を見渡した。
山道に玄武の蛇の姿が見えてきた。
「垂目か」
大郎は玄武に向かって歩き出した。
中臣垂目。8歳になっていたが、年の割に背は低く、極端にやせている。体も弱く、外に出ることも少なかった。
垂目は大郎が見えると嬉しそうに駆け寄って来たが、突然咳き込み、その場にかがみ込んでしまった。こんこんと、咳がいつまでも止まらなかった。
大郎は垂目を抱きあげた。背中を優しくさする。そして、陽の当たる場所に連れて行くと、そっと地面に座らせた。
垂目はゼイゼイと息を切らせていたが、しばらくすると咳も落ち着いた。
「ご迷惑をおかけしました」
垂目はくりっとした丸い大きな目で大郎を見た。
「よかった。
しかし、どうした。今日は鎌足は一緒ではないのか」
中臣鎌足は垂目の兄。いつも垂目を監視するようにそばにいる。
「はい。兄上は今日は河内に行っています。今日はちょうど良いと思いまして、大郎様を探していたのです。そしたら、大郎様は畝傍に行ったと聞きまして、やってきました。
私は、大郎様にお聞きしたい事がたくさんあるのです」
「垂目はいくつになった?」
「8歳です」
「俺も、厩戸様から話を聞いたは、垂目くらいの年だったな。
しかし、垂目にはいつも鎌足が目を光らせている。垂目と話そうとすると、すぐに引き離すからな。俺は、鎌足に嫌われているらしい」
「いいえ。そうではありません。
たぶん、兄上は、何か感づいているのだと思います。私と大郎様には何か秘密があると。
兄上はするどいお方ですから。私たちが二人でいると、何か起きるとでも思っているようなのです」
「垂目は賢いなぁ。まだ子供なのに、色々考えている」
大郎は垂目の頭をくしゃくしゃと撫でた。
大郎は垂目の隣にいる蛇をじっと見つめた。
「玄武が降りてきて、もう8年も経つのか。
あの時、俺は厩戸様と耳成山まで行って、玄武が山からやって来るところを見たんだ。
玄武が降臨し、主であるお前が無事産まれたことを知って、ほっとしたこと思い出すよ」
「えっ。ありがとうございます。
私が産まれるのを、気にかけて下さったのですね」
大郎は幼い頃の自分と、垂目を重ね合わせた。
「俺も、垂目と話したいと思っていた」
「ありがとうございます。
以前、大郎様は四神は力の強い者の元にやって来るとおっしゃいました。
でも、私は兄上の方がふさわしいのではないかと思うのです。頭もいいですし、お体も強い、力もあります。それに比べて、私は病気ばかりしていますし、体も小さくてなんの役にも立ちません。
玄武が中臣の家にやって来るのであれば、兄の方がよかってのではないでしょうか」
(俺も、じい様の方が強いから、じい様の方が主にふさわしいと思った時があった)
「四神の主は体が強いとか、頭が良いとかで選ばれるのではない。
飛鳥の神は魂の強さや清らかさで選ぶのだ。それは人の世でいう強さとは違うのだ。
垂目。お前は主にふさわしいと、俺は思っている。自信を持て」
大郎は垂目の肩をつかみ、まっすぐに大きな瞳を見つめた。
「はい」
垂目は瞳に力を入れてうなずいた。
(垂目は、今、必死に四神の主になろうとしている。
厩戸様が俺に教えてくれている時は、俺もこんな目をしていたんだろうか。
この小さな玄武の主が、愛おしいと思う。垂目が立派に成長する所を、見守りたいよ)
大郎は穏やかな目で白虎を見つめた。白虎は大郎の思っている事がわかっているようだった。
「白虎はきれいですね。白い毛が、キラキラしています」
「そうだろう。
だから、俺はきららと名付けたのだ。
お前もきららと呼んでやってくれ」
「はい。きらら。よろしくね」
垂目は白虎の背中を、恐る恐る撫でた。
「でも、きららはきれいで羨ましいです。
玄武は蛇だから、表情もないですし、はっきり言って、怖いんです」
「そうだな。子供にとっては不気味だよな。
お前の父上の御食子様が、垂目は癇の強い子で困ると、口説いていたことを思い出した。
垂目は玄武が怖くて泣いていたんだろうな。
そうだ。お前も、玄武に名前を付けたらどうだ。名で呼べば、きっとかわいく思える。
玄武はお前と共に、飛鳥を守る友達なのだから」
「名前ですか」
垂目はぶつぶつと言いながら、玄武を見たり、天を見たりしている。必死に悩んでいる垂目の姿を見て、大郎の表情は和らいだ。
「ゲン。ゲンってどうでしょう」
いきなり垂目が大きな声を出した。
「おお。玄武のゲンか。かわいい名前だ。
ゲン。声をかけたら、返事をしてくれよな」
大郎は玄武に話しかけたが。玄武は全く表情を変えず、目を閉じたままだった。
「ゲン。お前はゲンだよ」
垂目は玄武の正面に移動し、蛇の顔をまっすぐに見つめた。
「あっ。玄武、いえ、ゲンの目が開いた」
垂目の嬉しそうな声。
「待て、玄武の目を見てはいけない」
垂目はまだ、玄武の力を使ったことがない。体力がないうえに、病気がちな垂目が、今、四神の力を使うのは危険だ。
大郎は静止したが、垂目はすでに玄武の瞳にとらわれていた。
しかし、何も起きなかった。垂目の目は黒い光を発しなかったし、玄武はいつの間にか、目を閉じていた。
(なぜ? なぜ光が出なかった。
……。もしかして、亀がいないからか。厩戸様もしきりに気にしておられた。亀と蛇が別々だって事に。
一体、玄武の亀はどこにいるんだろう)
「大郎様? なぜ、だめなのですか」
突然黙りこくった大郎を、垂目は不思議そうに見つめた。
「そうだな。まだお前には話していなかった。
四神にはそれぞれ持っている力があることは知っているだろう」
「はい。玄武は水です。青龍は植物、朱雀は火、き、きららの白虎は土です」
「正解だ。
その四神の力を引き出す時には、まず、四神の目を見なくてはならない。そうすると、主と四神の目が、その四神の色に光る。玄武なら黒だ。
しかし、四神が力を使うと、主の体力が奪われる。
だから、まだ体力のないお前は使ってはいけない」
「では、体が大きくなって、私が丈夫になればいいのですか」
「そうだな。
しかし、その力は飛鳥を守るために使うのだ。それ以外に使ってはいけない。そう、自分のために使ってはならない」
『お前がそれを人に教えるようになるとは。
我の背中に乗って遊んでいたお前がなぁ』
白虎の皮肉っぽい目に、大郎は気が付かなかった。
「それと、そうだ、人前でゲンに話しかけないように気を付けろよ。
独り言の大きい人と言われて、変人扱いをされるからな」
「大郎様の事ですか」
「はっきり言うでない」
大郎と垂目は一斉に笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます