第3章 

第1話 飛鳥川の氾濫

 厩戸が亡くなって、2年が過ぎた。

 大郎も16歳となり、髪を結うようになった。

 飛鳥の男にしては背が高く、体格もがっしりとしている。

 目鼻立ちのはっきりした顔は子供の時と変わらない。しかし、男らしい顔つきになっていた。


 この頃、蘇我の権力はますます大きくなっていた。朝廷の中で馬子に逆らえる者はいなかった。

 しかし、馬子も76歳。飛鳥の長寿を極めていた。


 梅雨の長雨が続く。

 生温い空気が、じっとりとまとわりつく。

 大郎は縁側に座り、止み間なく降る雨を見ていた。


「なんだか、うっとおしい気候だ。きららの毛も、濡れているんじゃないか」

大郎は白虎の背中を撫でた。

「じい様も、体調を崩す事が多くなってきたしなぁ。

 もう、お年なんだから、少しは自覚すればいいのに。

 痛っ!」

大郎は頭に衝撃を感じた。

振り返ると、毛人が汗を拭きながら立っていた。毛人が拳で大郎の頭をたたいたのだ。

「お前がもっと、仕事をすればいいのだ。そうすれば父上はもっと休める」

「ええっ? こんなに仕事をしているではないですか。

 人使いが荒いなぁ」

大郎は頭をさすりながら言った。


そこへ、ドタドタと慌ただしい音が聞こえてきた。

「毛人様、大変です!

大臣様が」

隣の馬子の屋敷からの知らせだった。


馬子が倒れた。


大郎と毛人は大急ぎで、嶋の邸宅に駆けつけた。

しかし、すでに馬子は息絶えていた。


馬子付きの舎人が毛人に経緯を話していた。

「つい、さっきです。

どすんと大きな音がしたので、音のした所に駆けつけたのです。

そうしましたら、この様に、大臣様が倒れておられたのです」

「他には、誰にも知らせていないだろうな」

「はい。毛人様の所だけでございます」

舎人は大汗をかいていた。

「わかった。

いいか。この事は、まだ知られない様にするのだ。

家で倒れたのは、幸いだ」

毛人は馬子の遺体を部屋に運ばせた。

それから、自宅に戻り、朝参する準備を始めた。

「父上、これから朝参されるのですか」

「そうだ。いつもと同じように過ごさなくてはならない。

 父上は少し具合が悪いだけだ。

 いいな。亡くなったことは、まだ誰にも知られてはならない」

「じい様が亡くなったばかりなのに。

 父上は悲しくないのですか」

「大郎。お前も16であろう。人の死に、泣いてばかりはいられないのだ。

 私が円滑に次の大臣になるためには、もう少し、手回しが必要だ。

 次の大王の選出にも、影響が出るのだ。

 父上とて、蘇我の繁栄を願っておられた。そのためにも、準備をしなくてはならない。

 ほら。お前も早く、支度をしろ」

蘇我の家は、ばたばたと慌ただしく動いた。


 大郎は部屋に帰り、出勤の準備を始めた。

「きらら。俺は子供なのか。だけど、じい様が亡くなったんだ。悲しくても当たり前だよな」

大郎は白虎に顔をうずめ、むせび泣いた。


 馬子の死から、3日。飛鳥は大臣蘇我毛人を迎えた。

 激動の時代の幕開けだった。


 梅雨の長雨が続いた。馬子の死から止むことのない雨。すでに、1週間がたとうとしていた。

 今日の降り方は、一層激しかった。

 大郎は毛人に頼まれた文書を持って、部屋を訪ねた。 

 しかし毛人には先客があった。部屋の中から話し声が聞こえる。

(後にしようか)

そう思って、ひきかえそうとした矢先「山背」という言葉が、中から聞こえた。大郎は思わず部屋の前で立ち止まってしまった。

 毛人の部屋の中にいたのは刀自古だった。

「…… いませんでしが、山背は大王になりたいと、そう望んでいます」

(山背が、大王に?)

大郎はその場から動けなくなってしまった。

「私はあれがそう望むのであれば、叶えてあげたいと思っています。

 お父様にはこの事、伝えてあったのです。考えておくと、前向きなお返事をいただいています」

「ああ、以前に父上から聞いていた」

毛人の不機嫌そうな声。毛人は、長く続く雨のせいか、持病の頭痛が治らず、イライラしていた。

「それならば。今度はお兄様のお力で、ぜひ」

「いや、父上も山背はまだ若いと、それに……」

毛人は言葉を濁した。


 大郎は心の中で白虎に話しかけた。

(刀自古の叔母上も、じい様が亡くなったばかりなのに、次の大王とか、そういう事を考えるんだ)

大郎は廊下に座り込み、目を伏せた。

 刀自古の必死な懇願が続く。

「今すぐではありません。推古様はまだお元気ですし」

「年の話だけではない。確かに厩戸様は功績を残されているが、山背には実績もない。

 それにだ、はっきり言おう。彼は性格にも問題がある。短気であるし、自分の話を押し通す。

 大王の適性と考えると、それはどうかと思うのだ」

「大丈夫です。

あと数年もあれば、山背もそれ相応の年になりますし、心根も鍛錬されるでしょう。

用明の大王の血筋でもありますし、蘇我の血もひいております。何の問題もないでしょう」

(叔母上、必死なんだ)

大郎は目を伏せたまま、白虎の背中を撫でた。


「大王を決めるのは、そう簡単なものではないのだ。

それに、候補は山背だけでない」

「田村の皇子様ですか」

「そうだな。彼は敏達の孫であるし、年も30歳位だったはず。大王に推挙しても、何の問題もない。

田村様には、蘇我から法提郎女ほていのいらつめが嫁いでおるしな」

「嫌です! 私、法提だけは嫌です」

「相変わらずだな。

母は違えど、法提郎女は、我らの妹ではないか」

「あんな女。妹でも、何でもありません。

私達の母上が、物部の出だというだけで、母にきつく当たり、私達を馬鹿にしていました。

田村様が大王になれば、あの女が大きな顔をするのは、目に見えています」

「好き嫌いで政治が行えるわけがなかろう!」

毛人の怒号。


その後、すぐに部屋から刀自古が飛び出して来た。涙が溢れていた。

大郎はバツの悪さで、思わず目を逸らせた。

刀自古は逃げるように走って行った。


「まったく。女は気楽なもんだ」

後ろに毛人が立っていた。顔をしかめ、こめかみをさすっている。

「じい様が亡くなって、間もないのに。

叔母上も大王とか、そういう事、考えるのですね」

「お前はまだ、そんな事を言っているのか。もう、いい加減にしないか」

毛人は必要以上に大きなため息をついてみせた。

「はい。すみません」

そう言って、大郎は頼まれていた書状を毛人に手渡した。


「あの。父上。

父上は、次の大王には田村様をお考えなのですか」

「そうだな。

彼は大人しい性格で、私のいう事も聞いてくれる。

大王として問題はないだろうが。

問題は妃だ。彼の正室は宝皇女たからのひめみこ様だ。彼女は性格がお強いばかりでなく、敏達様の家系でもある。

蘇我から嫁いでいる、法提郎女より上だ。

法提にはすでに、古人ふるひとという嫡男がいるが、宝皇女様も先日、男子を出産された。

中大兄なかのおおえ様だ。

田村様が大王になった場合、次の大王が中大兄様になる可能性もあるのだ」

「山背は昔から大王になりたいって言っていました。きっと立派な大王になると思います。

 それに、俺、山背が好きだし。山背に大王になってほしいって思っています」

「大王は好き嫌いで選ぶものではない」

「はい。すみません」


大郎は頭を下げてその場を去ろうとした。

「待て」

毛人が大郎の腕をつかんで引き留めた。

「そうだ。中大兄に蘇我の娘を嫁がせればいいのだ。

 ちょうど良い機会だ。大郎、早くお前も結婚しろ。もう16だ。

 そしてお前の娘を中大兄に嫁がせればいいのだ。

 そうすれば、田村様の即位になんの問題もない」

大郎の頭に、カッと血がのぼった。

「俺は、そんな結婚などしない!」

そう叫んで、その場を走り去った。

「まだ、まだ、子供で困る」

毛人は頭を抱えながら、また大きなため息をついた。


 大郎は感情の爆発のまま、庭に飛び出した。

 激しい雨が降っていた。あっという間に、びしょ濡れになった。

 しばらくの間、大郎は顔を空に向け、雨に当たった。怒りに燃え盛っていた気持ちも、徐々に冷えてきた。

「父上の考えも間違っていない。そうやって、どの豪族も自身の家を守ってきたのだ。

 それはいけない事ではない。

 わかっているが。

 加夜。俺は、加夜と一緒にいたいんだ」

大郎は加夜の顔を思い浮かべた。


 頭が十分に冷え、大郎は家の中に入ろうとした。そして白虎に目を向けた時、白虎のいつもと違う動作に気が付いた。

 白虎は天を睨んでいた。厳しい顔で、今まで見たこともないような表情だった。

「きらら。どうしたんだ。

 四神を迎えるのか? まさか青龍が来るのか?」

そういって、白虎の姿をじっと見つめた。

「いや、違う。あの時とは違う」

垂目が産まれる時、厩戸が逝った時の仕草とは、また別だった。

「きららのこんな怖い顔は初めて見るな。

 四神の降臨を歓迎するでもなく、見送りするような悲しい顔でもない。

 一体、どうしたんだ。

 空になにかあるのか?」

大郎は白虎と共に、空を見上げた。

 滝のように激しく降る雨。大郎はこんなに激しい雨を経験したことはなかった。


「大郎。水だ。水があふれそうだと、知らせがきた!」

毛人が叫んだ。

「飛鳥川が氾濫しそうだ」

大郎は飛鳥川という言葉に、びくっと反応した。

「加夜!」

飛鳥川のほとりに一人でいる加夜が、とっさに思い浮かんだ。

 

 大郎は慌てて駆け出した。

「待て! ここは高台だ。ここまでは水は来ない。

 動かない方がいい。どこに行く!」

毛人の静止も聞かず、大郎は飛鳥川に向かった。

「きらら。もしかしたら、お前はこのことを知らせてくれたのか。

 飛鳥の危機をお前は察知できるのか」


 家の脇をすぐに飛鳥川が流れている。

 大郎は加夜奈留美命神社のある、川上に向かって走った。

 飛鳥川の清らかで穏やかな流れは、茶色い濁流に、さらさらと響くせせらぎは、轟音へと変わっていた。

 川の水は河原を超えていた。

「このままでは、川下の方は水浸しだ」

大郎の脳裏に、溺れる人々の姿が浮かんだ。

「加夜……。

 加夜のいる所は坂の上。高い所にある。

 加夜は神だ。きっと、大丈夫。きっと」

大郎は足を止め、一度、加夜奈留美命神社の方を見つめた。

 そして踵を返すと、下流に向かって走り出した。


 道や田畑が水浸しになっている。

 大郎の膝まで水が迫って来た。

「だめだ。やっぱり、川下まではいけそうにない」

大郎は水のまだ来ていない所まで避難した。

 そこは小高い丘で、水はそこまではきそうになかった。数人が逃げてきていた。


 その時、水の中に立ち尽くしている女性の姿を見つけた。小さい子供を抱いている。

「早く。こっちに来るんだ。流されるぞ」

激しい雨の音に、大郎の声はかき消される。

 大郎は躊躇することなく、水の中に入って行った。その場にいた者達は、大郎を止めたが、大郎はその手を払った。

 激しい水圧に耐えながら、必死で前に進んだ。

 母親が大郎に気が付き、手を伸ばしてくる。大郎も手を伸ばし、その手をつかんだ。そして、子供を受け取り抱きかかえた。

 その瞬間、鉄砲水が襲って来た。

「決壊したぞぉ」

丘で成り行きを見守っていた者達が叫んだ。


 あっという間に大郎の腰まで水がきた。激しい水圧が大郎を襲う。それでも子供を抱え、顔だけは水の上に出した。女は大郎にしがみついていた。

『大郎! 我を見ろ。そして我に命ずるのだ』

大郎には聞こえるはずのない、白虎の声。しかし、大郎は反射的に白虎に瞳を見据えた。

「きらら。水を、水をせき止めろ!」

大郎が叫んだ。

 大郎の目と白虎の目が、白く光った。


 大地が揺れた。

 大郎の前の地面がせりあがって来た。

 川の流れをせき止める、壁が出来上がった。

 水の勢いが一気に弱まった。

 大郎は周囲を見る余裕ができた。

「木があるっ!」

大郎はとっさに手を伸ばした。

 大郎の手に枝が触れ、それをしっかとつかんだ。木が密集しており、大郎達は隣の木に体をぶつけた。

 女も必死に木につかまった。

 大郎は木の枝に子供を乗せた。

 その瞬間、大郎に大量の水しぶきがかかった。大郎は思わず目を閉じ、集中が途切れた。

 白虎の作った土の壁は水に破壊された。

 

『四神の力を使えば、主にその対償がくる』

大郎は体力を奪われ、水の圧力に逆らう事はできなかった。

 あっという間に、大郎は水に飲みこまれた


 大郎は水の中にいた。体を動かすこともできず、水に流された。

 意識が薄れる中で、加夜の顔が浮かんできた。


 キラキラと、水が煌めいた。

 その水は、大郎を包み込んだ。

 母体の中の羊水に浮かんでいるような安心感があった。

(加夜?)

大郎は加夜を感じていた。


 水は突然、流れを変えた。

 不自然に横に流れる水は、大郎を岸まで運んだ。

 大郎は必死に体を動かし、水際までやって来た。

 小高くなっているところまで這い上がり、そこで倒れ込んだ。


 大郎は動けなかった。大の字になって、空を見上げた。

 倒れている大郎の顔にも、雨は容赦なく叩きつける。

 何度か雨にむせ返ったが、顔を横にすることすら億劫だった。


 徐々に、空が明るくなってきた。厚い雨雲が風に流れてゆく。

 雨粒が小さくなってゆく。

「もう、大丈夫か」

大郎はゆっくりと顔を動かす気力も戻り、横にいる白虎に目を向けた。

 白虎は穏やかな顔で大郎を見ていた。そして大郎に歩み寄ってきた。


「そうだ」

大郎は体を起こした。くらっと眩暈を感じた。手で体を支えた。

「加夜。加夜は大丈夫だろうか。

 行かなければ」

大郎はふらつきながらも立ち上がり、加夜の元に歩き始めた。


 道はぬかるんでいた。歩くだけで体力を奪われた。

 川の様に水が流れている所では、気を抜くと流されてしまいそうだった。

 それでも大郎は歩いた。

 息を切らせながら、重い足を動かし、限界を超えて、大郎は加夜の元に向かった。


 いつもは軽やかに登っている坂道も、這うようにして登った。

 ようやく加夜奈留美命神社に辿り着いた。

 社は雨に濡れただけで、変わりはなかった。

 社で大郎を待っていた加夜は、微笑みながら大郎の元に歩み寄って来た。

 加夜の顔を見た大郎は、その場に倒れ込んだ。


 大郎は死んだように眠った。疲労が限界を超えていた。

 きららと加夜は大郎の脇で、ずっと寝顔を見守った。


 大郎が目を覚ました時、目の前に加夜の顔があった。

「加夜。俺を助けてくれただろう」

大郎はそう思っていた。

 加夜は微笑むだけだった。大郎もその笑顔につられ、静かにほほ笑んだ。


 時間をかけて、大郎は起き上がった。あぐらをかいて座ると、その隣に加夜が腰掛けた。

「加夜。じい様が死んだのだ」

大郎はぼそっと語り始めた。

「それなのに、みんな、次の大臣の事とか、大王の事とか、そんな話ばかりしているんだ。

 俺がじい様の事、考えて泣いていると、いつまでも子供だと言われた。

 大人だって、人が亡くなれば悲しいに決まっている。でも、その気持ちを隠すのが大人というのだろうか。

 そのうえ、俺に嫁を取れというのだ。そして皇族に嫁がせる子供を作れと言われた。

 俺は愛してもいない女と結婚しなければならない。蘇我の家のために」

大郎はいつものように、取り留めない話をしていた。

 加夜は穏やかに大郎を見つめていた。

「そうか。俺は愛する人とは結婚できないのだ。なぜなら、俺が愛するのは、加夜だけなんだから。

 ならば、誰と結婚しても同じだ。しなければならない結婚ならば」

投げやりに言った。


 大郎は加夜に手を伸ばし、背中に手を回した。大郎の作った腕の輪の中に、加夜がすっぽりと入った。加夜の顔がそばにある。抱きしめられない加夜を、腕の輪の中に閉じ込めた。

 決して触れる事はできないと思うにつれ、愛おしさがつのった。


 飛鳥川からの帰り道、大郎は桃原墓ももはらのはかと呼ばれる、馬子の墓を訪れた。馬子が生前から準備していた墓である。巨大な墓で、皇族以外の人物のものとしては規格外だった。

 大郎は自分の頭をはるかに超える墓を見上げた。

「なぁ、きらら。死んだ人が眠るのに、こんな大きな墓が必要なのかな。これを作るために、大勢の奴婢ぬひがかりだされたって聞いた。それに、大勢の人が亡くなったと聞く」

白虎は大郎の顔を見上げた。

『下々の事もしっかり考えられる。そこらの傲慢な豪族たちとは違うな』

大郎と白虎の目が合った。

「こんな事言ったけど、俺、じい様の事、好きだったんだよ。本当だ」

白虎に言い訳をした。


「大郎殿!」

悲鳴に近い声で名を呼ばれた。大郎は驚いて振り返った。

「おお、古人」

古人皇子。父、毛人の異母妹、法堤郎女の子で、大郎のいとこにあたる。大郎より5歳年下である。同年代の子の中では背が高い。しかしやせていて、ひょろとしている。顔は青白く病気かと思われることがよくあった。

「本当に久しぶりだな。随分と背が伸びたなぁ」

大郎は無邪気に笑いかけた。

「そんな事より、生きておいでだったのですね」

「何っ?」

思いもかけない言葉に、大郎の声が裏返った。

「大郎殿は、3日前の水に流されて、行方知れずと聞いています。今日も捜索が行われています」

(そうだった。加夜の所では、時間の流れが違うんだった)

しまったという顔を白虎に向けた。それから古人に向き直って礼を言った。

「おかげさまで、なんともなかった。

 ところで、教えてくれてありがとう。さっそく皆の所に帰るとするよ」


 家に向かおうと振り返ったその時、はたと気が付いたように、古人に向き直った。

「そうだ。古人、お前も、じい様に会いに来てくれたのか」

「えっ? あ、はい」

古人はこくっとうなずいた。古人も馬子の孫である。

「それはうれしいな。俺、じい様が亡くなったのに、誰も悲しんでくれないのかと、寂しく思っていたんだ」

大郎は古人の目を見て、にこっと笑いかけた。

 古人は戸惑った表情をした。

「なんだ。意外そうな顔をして。

 もしかして、お前、まだ法堤の叔母上に、蘇我本家とは付き合うなとか言われているのか」

古人は大郎から目を逸らせた。

「そうなのだな。叔母上は俺たちの事を、鬼のように言っているらしいな。

 しかし母や父の仲たがいなんて、俺達には関係ないと思わないか」

大郎の屈託ない笑顔に、古人の表情も和らいだ。

「はい。確かに。

 正直に言うと、実は、母上に蘇我本家の人間はまともではないのだから、付き合ってはいけないと言われていました。

 会うこともなかったので、大郎殿と話すことも、実は怖くて、避けていました。

 あっ、さっきは驚きすぎて、思わず声をかけてしまいましたが」

古人はくすっと笑った。

「あ、でも、大郎殿がこんなに優しい方とは知りませんでした」

「叔母上は俺たちの事を、鬼とでも言っているのか。

 まぁ、いい。とにかく、こうやって誤解も取れたのだ。これからは友としても付き合っていこうではないか。

 そうだ、俺の事は大郎と呼んでくれ。そして、遠慮なく、なんでも話しをしような」

古人は顔を紅潮させてうなずいた。

「はい。

 では、あの。早速ですけど、大郎ど……。 いえ、あの大郎の独り言は、本当に大きいのですね。

 噂には聞いていましたが、びっくりしました。誰かに話しているかと思いましたよ」

大郎の顔が、パッと真顔に戻った。

(そんな噂がたっているのか)

大郎は複雑な気持ちで白虎を見つめた。


 大郎は走って自宅へ帰った。皆、驚きはしたが、歓喜の声をあげて迎えてくれた。

 知らせを聞きつけ、毛人は慌てて帰宅してきた。

 毛人の目の下にはくっきりとクマができ、頬はこけていた。そして、大郎の姿を確認すると、いきなり頭をたたいた。

「お前は、自分が何者かわかっているのか。蘇我の家の長男だ。跡取りなのだぞ。

 部眠べみんを助けようとして、お前が流されてどうする。こんな事でお前が命を落としたらどうするのだ。

 いいか、今後、こんなバカな真似はするでない」

馬子に負けないくらいの雷だった。

 大郎は毛人の言葉に、素直にうなずく事はできなかった。

(人の命が流されそうになったのだ。助けられるのであれば、助けるのが、人として当たり前の事だろう。

 こんな事としてかたずけられるものではない。

 しかし、父上を心配させたのは事実だ。こんなにやつれさせてしまったのだし)

大郎は反論は口にしなかったが、毛人の言葉に返事もしなかった。

 

 その後、大郎は捜索をしてくれた人の元を訪れ、礼を言って回った。

 蘇我大郎鞍作の奇跡の生還と評判が立った。


 

 



 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る