第8話 斑鳩の冬
推古30年。
厩戸と馬子が手がけていた国記と天皇記は、ほぼ完成していた。
しかし、最後の仕上げが済まないうちに、厩戸が倒れてしまった。
厩戸は朝参する事もままならず、斑鳩で療養に入ってしまった。
二冊の書は、蘇我の家で保管する事になった。
寒い冬だった。2月に入ると、底冷えする寒さが続いた。
その日は夜中から雪が降っていた。
大郎は寒さで目覚めた。
(寒いなぁ。こんな時、布団から出たくないよ)
布団をかけ直し、もう一眠りしようとした。
その時、何気なく白虎に目を向けた。
白虎はいつもと違っていた。
「きらら。どうして、そんなに動いているんだよ」
慌ただしく動いている白虎に声をかけた。大郎の問いかけには、気が付かない様子。
突然、外に向かって吠える動作をした。
大郎はその動きに覚えがあった。
玄武の主、
そして、大郎は厩戸の言った言葉を思い起こした。
「四神は他の神獣が目覚める時、つまり主となる者が産まれる時に、歓迎の気持ちを表す。そして神の元に帰る時、つまり主が亡くなる時は、声をあげて弔いをする」
慌てて布団から起き出した。
「四神は今、4匹ともそろっている。迎える四神はいないんだ。
ということは。
まさか、きららは弔いをしているのか」
白虎の吠えている方向を確認した。白虎の向いている方は耳成山か天香久山と思われた。
「耳成山なら、垂目だけど、まだ幼い垂目が……。 でも、垂目は体が弱いと聞いている。
それとも、天香久山なのか。厩戸様が、いや。そんな事はない。絶対に違う」
「大郎。起きろ!」
突然に毛人が部屋に入って来た。
「はいっ。起きています」
大郎は飛び上がらんばかりに驚き、声が裏返った。
「なんと! お前がこのように早く起きているとは。一体、どうしたのだ」
毛人も驚いた。
「それより大郎。今、斑鳩から使いが来たのだ」
大郎の心臓が、強く収縮した。
「ま、まさか。厩戸様に、何かあったのですか?」
「厩戸様に、何かとは? いったい、何が言いたい」
「いえ。
あ、それより、斑鳩から、何が」
大郎は激しい動揺を隠すように努めた。
「ああ。厩戸様のご正室、
「えっ。后様ですか。厩戸様は、なんともないのですね」
大郎は全身の力が抜けたように、その場に座り込んだ。そして大きな深呼吸をした。
「厩戸様? 何を縁起でもない事を言っているのだ」
「はい。すみません」
「厩戸様の事は、何も言ってはおらぬ。
しかし、それにしても、この様に早朝の使いとは珍しい。
しかもだ、蘇我は刀自古を嫁がせてはいるが、膳大郎女様とは縁はない。早馬で知らせるほどの事ではないと思うのだが」
毛人は首を傾げた。
「それにだ、山背様がお前を呼んでいるというのだ」
「山背が?」
大郎は嬉しそうに聞き返した。この時ばかりは、一瞬、白虎の事も厩戸の心配も忘れた。
山背とはずいぶん久しく会っていない。たまに会えても、山背はすぐに帰ってしまう。避けられているのかと、寂しく思っていた。
「わかりました。では、すぐに斑鳩に出発します。
おーい。俺の馬を準備してくれ」
大郎は舎人に大声で命令した。
斑鳩には大郎と毛人も共に向かった。
雪の舞う中、大郎は必死に馬を走らせた。手はかじかみ、鼻水が垂れて来る。それでも、休むことなく、馬を走らせた。
大郎は毛人を置いてけぼりにして、一足先に斑鳩の宮に到着した。
門の前で馬を降り、大きな声で名を告げた。
早速、中から山背が出て来た。大郎は山背に駆け寄った。
「山背。俺に用があるって聞いた。
なにかあったのか。もしかして、厩戸様に、何か」
大郎の勢いに、山背はたじろいだ。
「いや。すまん。いや、そうだ。
えっと、お悔やみいたします」
大郎は慌てて、頭をさげた。祖父、馬子に教わった文言を、今更ながらに伝えた。山背は軽く頭をさげたが、何も言わなかった。
そこへようやく毛人が到着した。
毛人は息を切らせながら馬を降りた。山背に深々と頭をさげ、挨拶をかわした。毛人のあいさつには、山背は返事を返した。
毛人との挨拶が一通り済むと、山背は大郎に向き直った。
「大郎。父上が、お呼びだ」
山背はぶっきらぼうに言った。
「厩戸様が? よかった。厩戸様はお元気なのだな」
大郎の問いには、山背は答えなかった。山背は赤檮を呼ぶと、大郎を奥に案内させた。
「毛人様。毛人様にはご相談があります。私と一緒に来てくださいますか」
「あ、はい。
しかし、私は厩戸様の所へ行かなくてもいいのでしょうか」
「大郎だけだ。父上がお呼びになったのは!
私も、私も来るなと言われたのだ。二人で話がしたいそうだ!」
山背は顔を真っ赤にして怒鳴った。
(やれやれ、短気な皇子様だ)
毛人は山背に気づかれないようにため息をつき、深々と頭をさげた。
山背は毛人を屋敷の中に案内した。
「先ほどは、大きな声を出して、申し訳ありませんでした」
山背はバツが悪そうに頭をさげた。
「その。あの、父の具合も良くないのです」
「えっ?」
毛人は息を飲んだ。
「それで、具合が悪いとは、どのような……」
「はい。
実は父の方が膳大郎女様より、深刻な状態だったのです。
だから、まさか、膳大郎女様の方が。先にお亡くなりになるとは、考えてもいませんでした」
「まさか、厩戸様がそこまで具合がお悪いとは考えてもいませんでした……。 まさか、大郎の心配は当たっていたのか」
最後の言葉は、囁くほどに言ったが、山背は耳ざとく聞き取った。
「大郎が、何を?」
「あ、あの。実は、大郎は今朝、厩戸様のお体が心配だと、いきなり申しまして……」
「当家からの使いが行く前にですか」
「はい」
山背の顔が紅潮した。
(どうして大郎がわかったのだ。こんなに離れた土地にいるというのに。
大郎と父上は通じ合っているのか)
すっかり黙りこくってしまった山背に、毛人はどう対処してよいのかわからなかった。
「大郎。よく、来てくれた。
お前はわかっているよね」
厩戸の声は小さく消え入りそうだった。
青白い顔。紫色の唇。赤く充血した目。浮腫みが、人相すら変えている。息をするたびに、ゼイゼイと音がしていた。
いつもはすました様に厩戸の隣にいる青龍も、今日は落ち着かない様子。
「きららが、吠えていました。天香久山に向かって吠えていたみたいで。だから俺、心配で」
厩戸は唇の両端を、わずかに動かした。
その直後、厩戸の瞼が一瞬閉じ、頭がガクッと崩れた。
「厩戸様! あぁ、や、やまし」
大郎の腕に、厩戸の手が触れた。そして「待て」と、弱弱しい声が聞こえた。
「呼ぶな。誰も。
お前と、話したい。お前だけに……」
大郎は鼻の奥が、じーんと熱くなった。こぼれ落ちそうな涙を、必死にこらえた。
「私は、もうすぐ、逝く」
「そんな事、言わないで下さい」
大郎は激しく頭を左右に振った。
「仕方、ない事。
お前だって、わかっているだろう」
厩戸は視線だけを白虎に向けた。
「これが、人の、運命。この世に、産まれ、死す。
大郎。忘れるな。これ、が、人……。外れるな。人、の、道」
厩戸の顔が、みるみる灰色になっていく。
大郎は雪のように冷たい厩戸の手を、しっかりと握りしめた。
「はい。厩戸様……」
「だから、だめ、た、ろ。かや、な……。だ……。けし、て、と、つ……」
厩戸は必死で言葉を絞り出そうとしていた。しかし、そこまで言うと、厩戸の意識が途切れた。全身の力がなくなり、腕と首がだらっと、垂れた。
「厩戸様。厩戸様」
大郎は厩戸の肩を揺らした。しかし何の反応もなかった。
大郎の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「山背、山背ぉ! 来てくれ、厩戸様がぁ」
大郎の泣き叫ぶ声が、屋敷中に響いた。
バタバタと慌ただしく廊下を走る音。山背と毛人が、真っ先に駆け込んできた。
「父上!」
山背は大郎を押しのけた。泣きながら、厩戸を呼び続けた。
赤檮が薬師を連れて、部屋に入って来た。年取った薬師は厩戸の顔を覗き込んだ。手首に触れ、脈をとった。深いため息をつくと、絶望的な顔を山背に向けた。
刀自古が部屋に駆け込んできた。すでに涙で顔が濡れている。
次々に側室や子供たちが駆けつけて来た。
大郎は部屋の隅に追いやられ、腰を抜かしたように動けなくなっていた。毛人に引きずられ、部屋の外に出た。
「なんてみっともない恰好をしているのだ。
蘇我の跡取りなのだぞ。このような無様な姿を、人前にさらすでない」
大郎には、毛人の言葉は聞こえていなかった。
大郎と毛人は軒先から庭に出た。庭の隅に植えてある大きな木の根元に腰掛けた。
陽は高くなっていた。雪は止んでいたが、空気はしんと冷えていた。毛人は腕をさすった。
大郎は木に触れ、目を閉じた
丁未の戦の事を、ふと、思い出した。
(厩戸様は、あの時、見た事は忘れる様にって言っていたけど。やっぱり、忘れる事なんてできなかった。今でも、はっきりと覚えてしまっている)
大郎は頬に残る涙を、手の甲でぬぐった。
「ようやく泣き止んだか」
毛人は腕を組んで、後ろから大郎を見ていた。
「もっと、感情を制御できるようにならなくてはならない。
たとえ、親の臨終でも、冷静に対応しなくてはならないのだ」
「はい」
大郎は無表情のまま、返事だけを返した。
「それで、厩戸様とは話ができたのか」
「はい」
「何を話したのだ」
大郎は口をつぐんだ。
(厩戸様は最後に、『かやな、けして、と、つ』とおっしゃた。
加夜、奈留美って、おっしゃりたかったんだろう。決して、会うなって。
やっぱり加夜と、会ってはいけないって、最期にもそう言われるのか。
でも、俺、加夜に会わないなんて、そんな事はできない。
厩戸様の、たとえ最期のお言葉だとしてもそれだけは)
「大郎?」
突然、黙りこくった大郎に答えを促した。
「聞こえませんでした。
厩戸様のお声が小さくて」
大郎は抑揚のない声で返事をした。
その後、二人は何も話さなかった。
どれ位、時間が過ぎたか。
大郎は頬にひやっとした寒冷を感じた。
雪が降ってきていた。細かい雪が、ふわふわと舞いおり、大郎の頬に降りてきた。
大郎は手のひらに雪を乗せた。雪はあっという間に水滴になった。
白虎の動きが大郎の視界に入ってきた。
青龍と厩戸のいる母屋をじっと見ていたが、徐々に動きが活発になった。
突然、ピタッと動きを止めた。そして空に向かって大きく咆哮した。
屋敷から飛鳥に向かって、青い光が伸びた。
そして、青龍が屋敷の屋根から現れた。体が青く光る。体をくねらせ、大きな口を開いた。
青龍は青い光の道と共に、天を翔けて行った。
「厩戸様……。 厩戸様」
大郎は青龍を見送りながら、尊敬する人の名を呼んだ。
「どうした?」
毛人が声をかけた。
「厩戸様が、飛鳥に戻られました」
「なに? 突然どうした。いったい何のことだ」
大郎は目を伏せた。
「おい、まさか、厩戸様が亡くなったというのか」
大郎は小さくうなずいた。
「何を言う。ここでわかるわけもないだろう」
大郎は小さく何回も首を左右に振った。
そして顔を上げ、青龍の去っていった空を、じっと見つめていた。
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