第6話 河内の戦

 大郎は一瞬、意識を失ったように感じた。気が付いた時には、宙に浮いていた。

 大郎は白虎にしがみついていた。必死に白虎によじ登り、背中にまたがった。


 大郎は眼下の見慣れぬ景色を目にしていた。

 黄土色の土がむき出しになっている荒れ地。木々は所々に群生して、小さな林を形成していた。

 少し離れたところには、川が流れていた。水量が少なく、川底の石がむき出しになっている。薄黄色の水が緩ちょろちょろと流れていた。

 河原には背の高い草が自生している。しおれているものもある。

 そして川を越えるとすぐに小高い丘だある。その丘の手前には立派な砦。その後ろには大きな城が建っていた。


「空気が、なんか、ゆらゆらしている感じがするね。黄色い感じもするし。

 いったい、ここはどこなんだろう。厩戸様の部屋にいたのに、いったい、俺ときららは、どこに来てしまったんだろう」


『飛鳥ではないな』

「えっ? 今、話したの、きらら?」

『我の声が聞こえるか?』

「うん。やっぱりきららなんだ。

 そうか、きららの声って、こんな声なんだね」

大郎は嬉しそうに、白虎の首にしがみついた。


 大郎はさらに高く飛んでもらった。そして、ぐるりとその場で一回りした。

「あっ、青龍だ」

林の中から青龍の頭が飛び出していた。

「厩戸様があそこにいるんだ。きらら、あっちに行ってみよう」

大郎は青龍のいる林を目指した。


 グワァーーーーーン!

銅鑼の音が鳴り響いた。

すると、木の中から軍隊が塊になって現れた。

「うおおおおお!」

雄たけびが響いた。

 兵士は鎧と兜で身を固め、手には剣や槍。弓を持つ者もいる。

「ここ、厩戸様もいるんだよね。青龍は見えるけど、厩戸様は、よくわからないよ」

密集した人の塊の中、厩戸を探すことは困難だった。大郎は、とりあえず、軍と一緒に進むことにした。


 目の前に砦が迫って来た。

 砦の上に、朱雀と玄武が見えた。

 朱雀の隣には、白髪のやせた男が立っていた。

 玄武の隣にはぽっちゃりとした、中年の男。丸くて大きな目の、真黒な瞳が不安そうにこちらを見ている。

「朱雀の隣にいるのは、雄君様じゃない。それに、玄武の主は、さっき産まれたばかりじゃないか。

 誰なんだ」

大郎はもう一度二人を見つめ、頭の中を整理させた。

「まさか、あれって、物部守屋様と中臣勝海様?」

『そうかもしれない。

 もしかすると、過去の世界に来ているのではないか』

「過去?」

白虎はうなずいた。

《そうだ。大郎が望んだのだ。四神の加わった戦いを知りたいと。

 大郎に過去を見る事ができるとは。予想もしていなかった。

 他の四神の主とは違う。神も見えるほどだ。特別な力があるのだろう》

白虎は大郎に聞こえないよう、心を閉ざして考えた。


 青龍が軍の塊から離れた。

 青龍の隣にいる人物がはっきりと見えた。男の子が馬に乗っている。髪は簡単に束ねただけで、まだ成人はしていない様子。華奢な体つきに、細面の顔。鋭い眼光には見覚えがあった。

「厩戸様だ。厩戸様だよ。ねぇ、きらら。

 でも、子供だよ。やっぱり、ここ、昔の世界なんだ」

『そのようだ。

 それに、ここは戦場。厩戸が話していた、四神が関わった戦。

 丁未の戦の最中なのだろう』


「戦の真っただ中にいるって。

 いったい、俺たちは、どうなっているんだ。過去の世界にどうやって存在しているんだ」

『我らの姿は、下界におる者には見えないであろう。

 我らはここには存在していないのだから』

そういって、白虎は高度を下げ、厩戸の視界に入るほど下に降りて来た。

 それでも誰も、白虎と大郎に気が付かなかった。

「でも、きらら、青龍は気が付いているよね」

大郎は青龍の視線を感じたのだ。

 白虎は青龍と視線を合わせ、大きくうなずいた。


 大郎は改めて厩戸と、そして並んでいる青龍を見た。

「ねぇ。きらら。青龍、ちょっと小さくないか?

 いつも曲がりくねっていても、厩戸様と同じくらいなのに。今は体を伸ばし切って、いつもと同じくらいの大きさだよ。浮かんでいるから、頭が飛び出してはいるけれど」

『ここは、飛鳥から離れているからな』

「えっ? 何か関係あるの?」

『我らは、本来、飛鳥にいるべきなのだ。飛鳥でなければ、その姿は保てない』

「でも、きららはそのままだよ」

『我らは、本来、ここに存在しているわけではないからな』


「竹田様。私から離れないで下さい」

厩戸が隣にいる子供に声をかけた。

「竹田。確か、推古様の亡くなったお子様が、竹田皇子様だったよね」

竹田はまだ7、8歳と思われる。慣れない手つきで馬を操っていた。


 厩戸は兜を取り、汗をぬぐった。そして竹田の兜も取り外し、汗を拭いてあげた。のぼせたように赤い顔をしている。

「きらら。みんな、暑そうにしているけど。俺、寒くも暑くもないんだ」

『お前はここにいるわけではない。

そうだな、我もどう言えばいいのかわからぬが、時間の間にいると考えればいい』

「うーん。

 やっぱりよくわからないけど、でも、俺たちは実際にここにはいないって事か」

大郎は自分の手を目の前に掲げ、じっと自分の肉体を見つめた。


「厩戸様」

後ろから大きな声。

「厩戸様。もっと、後方に行ってください。我が、前方を確認してまいります」

「馬子殿。馬子殿も、お気をつけて」

「馬子? じい様?」

大郎は馬子と呼ばれた人物を凝視した。大郎の知る「馬子」よりずっと若い。しかし、確かに祖父、馬子の面影があった。

「じい様、若い! 髪の毛がいっぱいあるし、やせている。おなかがない」

大郎は思わず吹き出しそうになった。


 

軍は前進した。

「待て。むやみに進行しない方が良い」

厩戸が大きな声をあげた。

そのあとすぐに、甲高い声が響いてきた。

「黙れ、厩戸。ここの大将は私だ。余計な口出しはするな」

鉄の兜と鎧に身を固めた男だった。

「しかし、泊瀬部様。物部は長く飛鳥の軍事を取り仕切ってきた一族。

 何か策を講じているかもしれません。むやみに進行しては危険です」

厩戸には朱雀と玄武に対しても、脅威を感じていたのだ。

「黙れ、黙れ!」

泊瀬部は聞く耳を持たなかった。

 泊瀬部は総攻撃の銅鑼を鳴らした。

 兵士たちは3個の集団になって進み、正面、左右から一気に攻め込んだ。川では、水しぶきが激しくあがった。


 物部の築いていた砦は、稲城であった。

 頑丈に造られており、鉄壁の守りを発揮した。蘇我軍の射る弓矢などは、まるで歯が立たなかった。

 稲城からも弓矢が射られる。雨の様に降り注ぐ弓矢。盾では防ぎきれない程であった。蘇我の軍は停滞してしまった。


 大郎は厩戸から離れないようにしていた。厩戸がすぐ隣にいて、その顔を間近で見ていた。

 大郎は厩戸の表情が気になっていた。

「厩戸様。暗いお顔をしている。

 他の人は、興奮しているっているか、怒っているような顔をしている人ばかりなのに」

『そうだな。戦に来ている者の表情ではないな』


くぉぉぉぉぉ!

耳をつんざく大きな音が響きわたった。大郎は思わず、両手で耳をふさいだ。

厩戸はじめ、その場に存在している者達には、聞こえていないようだ。誰一人として、その大音響に反応しなかった。

大郎は音のした方に目を向けた。

視線の先にいたのは、朱雀だった。朱雀が赤く光り、天に向かって咆哮していた。


「朱雀が赤く光っている。

守屋様。まさか、朱雀を、四神を人の戦に使うおつもりか」

厩戸の血を吐く様な声が聞こえてきた。大郎の胸は、激しい痛みに襲われた。

「青龍」

厩戸は小さな声で呼びかけ、悲しそうに見つめた。

「私も、お前を、戦に使ってしまうかもしれない……」


次の瞬間、朱雀から炎がばらまかれた。炎は蘇我軍を襲った。

 炎は兵士に燃え移った。

「火矢だ! 向こうは、火を使って来た。気を付けろ!」

朱雀の見えない者にとっては、火の矢が使われていると思うだろう。

 炎はあっという間に広がり、あたり一面、火の海となった。

 兵の列は一気に、大混乱に陥った。兵士は右往左往する。

 炎に包まれた者は、断末魔の叫びと共に倒れてゆく。


 大郎は戦に出た事はなかった。目の前で人が死ぬところを見たことすらなかった。

 それなのに、目の前で人が燃えていくという、残酷な光景を見せつけられた。

「うわあぁぁぁ。やめろーー。 やめてくれぇぇぇ」

大郎は白虎にしがみつき、泣き叫んだ。

『大郎。落ち着け! これは、現実ではないのだ』

白虎の声を聞くこともできなかった。


 炎の攻撃は、短時間でぴたっと止まった。

 砦の上にいる朱雀も、光を失い、元の姿に戻っていた。

 しかし枯草や木に燃え移った炎は、まだ燃え盛っている。

「泊瀬部様。一旦、退却しましょう。かなりの兵士が亡くなりました」

厩戸は竹田をかばいながら、泊瀬部の所まで引き返してきた。

「黙れ! 我に命令するでない!

 何を恐れている。向こうは稲城じゃ。元は稲わら。恐るるに足りん。

 ちょうど良い、奴らの火で、燃やしてしまえ。

 あの砦を燃やした者には、出世を約束する。行けぇーー」

泊瀬部は一番後ろで、進撃の銅鑼を鳴らした。


 大郎の涙は止まらなかった。

 しかし自分と年が変わらない厩戸が、幼い竹田をかばいながら、現実の戦火の中で戦っているのだ。

「泣いている、場合じゃない」

大郎は拳で涙をぬぐった。

 大郎は目の前の惨状から、目を離さないようにと決めた。


 大郎は前線に目を向けた。

 最前線では、砦までたどり着いた蘇我の兵士がいた。


 その兵士たちにも、稲城を燃やせという命令は伝わっていた。

 息が切れ、呼吸を乱しながら、火打石を取り出し、火を起こそうとした。


「玄武が! 玄武が黒く光っている!」

大郎の声は誰にも聞こえなかった。厩戸すら、聞こえてはいなかった。

 そばを静かに流れていた川が、突然波打った。

 その途端、砦から水が噴き出したように見えた。

 玄武の力は水である。玄武の力が発せられたのだ。


 厩戸は放出された水には気が付いた。

「勝海様までも。玄武の力をお使いになるのか……」

厩戸の顔がゆがんだ。


「きらら。あそこまで、玄武たちの所まで行って!」

大郎は叫んだ。助けたい、そう思ってしまった。

 白虎は命じられたまま、砦まで一気に駆け抜けた。

 

 砦の元では、蘇我の兵士達が水に攻撃されていた。大量の水が、男の鼻と口を塞ぐ。呼吸する術を失った男達は、その場に倒れた。

「おぼれ死んじゃう」

大郎は白虎から駈け下り、男たちの元に駆けつけた。

 しかし大郎の手は、何にも触れる事はできなかった。なすすべはなく、大郎は苦しむ人を見ているしかなかった。


 突然、水の攻撃は止まった。

 大郎は砦の上を見た。玄武の光も消えていた。

 水攻めにあった男達は、ぴくとも動かなかった。息をしているのかしていないのか、大郎にはわからなかった。


「勝海。倒れている場合ではない。立て!」

大郎の上から声が聞こえてきた。守屋の声である。

 大郎は白虎に飛び乗った。

「上に行って」

白虎は砦の上まで駆け上がった。

 砦の最上段には、朱雀と守屋、玄武と勝海しかいなかった。

 大郎は上から、二人と二匹を見下ろした。


 勝海は膝をついていた。隣に立っている守屋も、肩で息をしている。二人とも顔色が悪い。目の下にはクマを作り、疲れ切った顔をしている。

「守屋様。許してください。もう、やめましょう。

 私は、玄武の力で、人を殺したくはない」

勝海は泣いていた。

「何を甘い事を言っている。四神の力がなくてはこの戦には勝てぬ」

「しかし、玄武も朱雀も、なぜか小さくなっています。

 力もいつもより、使いずらい。そう思いませんか。

 私もそうだが、それよりも玄武にも負担がかかっていると思うのです」

「そんな事は、どうでもいい。

 稲城の近くでは火は使えぬ。早く水の力で追い払え!

 少し休んだ。力も溜まったであろう」

守屋の厳しい叱咤に、勝海は逆らえない様子だった。勝海はよろよろと立ち上がった。そして、苦悶の表情のまま、玄武を見つめた。黒く光った玄武は、水を放出させた。

 

 大郎は知らず知らず、守屋を睨みつけていた。

「誰だ!」

突然、守屋が叫んだ。そして上を向いた。大郎と目が合った。

「えっ? 見えるの?」

大郎は白虎から落ちそうになった。慌ててしがみついた。

 守屋の声に勝海は気を取られ、水の攻撃は止まった。勝海は座り込んだ。はぁはぁと息を切らせながら、守屋を見た。

 勝海の視線に気が付いた守屋は、1回勝海に目を向けた。

「いや。上に誰かいるような、気配を感じたのだ。

 しかし人ではないような……」

そういいながら、再び大郎に視線を向ける。

「見えているわけじゃないんだ。

 でも、守屋様は、鋭いお方かもしれない。

 きらら。向こうに戻ろう」

大郎は逃げるようにして、その場を去った。


蘇我の軍は、退却を余儀なくされた。大敗だった。

泊瀬部は「我のせいではない!」と、言葉を投げ捨て、逆上したまま、自分の天幕に入った。

屋外の慌ただしく、雑然とした所でけが人の手当が施された。ほとんどが矢傷と火傷であった。

 死者は一角に集められ、ムシロを掛けられた。

 皆、疲れ切っていた。腰を下ろして、目を閉じた。

 大郎はきららから降り、その惨状を目の当たりにした。

「戦って、ひどい……。人と人が殺しあうなんて、しちゃいけない。

 厩戸様は14歳の時だったって言っていた。俺とそんなに変わらない年で、こんなひどい経験をされていたのか」


 厩戸と馬子が天幕に入った。大郎も二人の後に続いた。

 厩戸は中に入ると、鎧と兜を取った。汗が滝のように流れてきた。準備された水とごくごくと飲みほした。

 厩戸は隣の青龍に視線を向けた。青龍の青く輝く瞳をじっと見つめていた。

「厩戸様?」

馬子が顔を覗き込むように名を呼んだ。厩戸はゆっくりと馬子に向き直った。

「馬子殿。私は物部の城を、偵察してきます」

「何を仰います! あなた様にそんな危険な事はさせられません」

馬子は大きな声をあげた。その後、厩戸に近寄り、声をひそめた。

「厩戸様は大王になるべきお方。

 はっきり申し上げます。泊瀬部様ではだめです。本来なら、今すぐ厩戸様に大王になってほしいと思っているくらいです。しかしあなたはまだ、成人もしていない。

 厩戸様が相応の年齢になったら、泊瀬部様には退いてもらいます。

 ですから、前線に行くような事、考えないでください」

厩戸は困ったような顔をした。

「ありがとうございます。しかし、私は大王にはなれません。

 それに危険な事はしません。少し見て来るだけです」

「何をおっしゃいますか。大王はあなたしかいません。

 泊瀬部様があれほど、頭の悪い皇子とは思いませんでした」

馬子が顔をしかめた。

「じい様。悪人顔だ」

大郎がこれまで見たことのない馬子の表情だった。

「いや、しかし……」

「いえいえ。とにかく、今はお休み下さい。お疲れでしょう。

 竹田様は奥で眠っております」

馬子はそう言って、天幕を出た。そして外にいた体格の良い家来に、二言三言耳打ちをした。


 その夜。疲弊した軍は、深い眠りについた。物部の軍も沈黙していた。

 月が河内を照らした。


 大郎は眠くはならなかった。ぽっかりと浮かぶ、満月を見ていた。月の明かりが、ぼんやりと景色を映し出す。

 大郎は何か、気配を感じ振り向いた。

「厩戸様!」

厩戸と青龍が歩いてきた。

 厩戸はゆっくりと周囲を見渡した。厩戸は青龍の目を見つめ、話しかけた。

 すると、風もないのに、周囲の草や木の葉が揺れた。青龍は顔を地面に近づけた。そして、厩戸は軽やかに青龍の背中に飛び乗った。

 青龍は地を這うように飛んだ。

「厩戸様!」

大郎は名を呼んだが、厩戸に聞こえるはずはない。

 大郎も白虎に飛び乗り、厩戸を追いかけた。

 大郎の耳に、足音が聞こえた。振り返ると、男が走って追いかけてきていた。

「厩戸様を追いかけているんだ。青龍に乗っている所、見られちゃっている。

 でも、蘇我の陣地から出て来た人だから、味方のはずだよね」

大郎は白虎に言いながら。自分を安心させようとした。

「でも、とにかく追いかけなきゃ。厩戸様を見失わないように」

白虎は宙を翔けあがり、空から厩戸を追いかけた。


 厩戸は砦にたどり着いた。

 東の空は、ほんのりと明るくなってきた。夜明けは近い。

砦の裏は深い森になっている。森の中に本城が建てられている。木々に囲まれた城だった。

 厩戸は砦の脇にある森に入った。青龍もすっぽりと森に隠れた。

(青龍は小さくなってちるが、やはり目立つ。鋭い守屋様であれば、気が付いてしまうかもしれぬ。

 しかし、我々四神の主は、お互いに身を隠すことが難しい)

厩戸は青龍を見ながら、ひとりで笑った。


 白虎は厩戸のすぐ後ろに降りて来た。大郎も白虎から飛び降りると、厩戸の背後に立った。

「厩戸様。危険な事はしないで下さい」

大郎は無意味とわかっていても、声をかけずにはいられなかった。


 その時、足音が聞こえてきた。

「さっきの男だ」

男は必死で追いついて来た。背中には弓矢を背負い、腰には剣を提げていた。

 大郎は穴が開くほどに男の顔を見た。見覚えのある顔だった。

「あっ。さっき、厩戸様の家で見た人。お茶を持ってきてくれた人だ。

 髪は黒いし、若いし、背筋も伸びているけど、絶対にそうだよ。あの目。おんなじだもん」

 大郎は確信した。


男は息を切らせ、足をふらつかせていた。厩戸も気が付いた。

「誰だ?」

厩戸の顔が強張った。

男は厩戸の前にひざまずき、頭を下げた。厩戸の顔が一瞬、和らいだ。

男の息は荒く、すぐに話すことはできなかった。大きく肩を上下させていた。汗がボトボトと、地面に落ちた。

厩戸は懐から手拭いを出し、腰から竹筒を外し、男に差し出した。男は驚いた様に目を見張った。しかし厩戸がうなずくと、一礼してそれらを受け取った。そして竹筒の水をごくごくと喉を鳴らして飲み干した。息を整えてから、手拭いで汗をぬぐった。

男は衣服を整え、改めて頭をさげた。

「私は赤檮と申します。馬子様のイヌです」

イヌとは主人の元で隠密の事。

馬子は渡来人を影の工作などに使っていた。この戦にも、選りすぐりのイヌを連れてきていた。

「イヌ?

ではお前は、馬子殿の命令でここにいるのか?」

「はい」

(この私が、気付かなかった)

厩戸にとって、少なからず衝撃だった。

しかし、それは仕方ない事だった。赤檮は最も優秀なイヌのひとりだった。

「で、では、赤檮。お前は私の後を、付けてきたのだな」

厩戸の声が少し震えていた。


大郎は厩戸の変化に気付いた。

「そうだ。厩戸様は青龍に乗ってここまで来たんだ。

青龍が見えない人だと、厩戸様が宙に浮かんでいる様に見えるよ」

『そうだな。青龍は見つからない様に、低空飛行をしてはいたが。それでも厩戸の足は浮いていたし、走る動きもせずに移動していたのだ』

「うん。厩戸様の秘密、バレちゃうかもしれない」

大郎と白虎は固唾をのんだ。


「はい」

赤檮は口数が少なかった。

「それで、お前は……」

厩戸が言いよどんだ。

「はい。私は皇子様の後を追いかけてまいりました。それだけでございます」

表情も声も変えず、冷静に答えた。

(この男。私が宙に浮かんでいるところを見たはず。それなのに何も言わず、何事もなかったかのように振る舞っている。さすが、馬子殿の密偵。

 さらには、青龍の飛行にもついてこられるとは、相当の身体能力の持ち主だ。 

 本当に偵察だけのつもりだったが。この男であれば、やり遂げる事ができるかもしれぬ)

厩戸は、ほんの数秒、考え込んだ。そして赤檮の前にしゃがみ込み、視線を同じ高さにした。


「赤檮と申したな。

 お前。私を手伝ってはくれぬか」

厩戸はすっかり落ち着いていた。

 真正面から、鋭い視線で直視され、赤檮は息を飲んだ。しかし、表情は変えず「仰せのままに」と言って、頭をさげた。


 厩戸は周りに人はいないとわかっていても、声を潜めて赤檮に話しかけた。

「お前にはすべて見られている。それでも平然としているというのは、お前は只者ではないと思う。

 それを見越して頼みがある。

 穴穂部様を葬ってほしい」

「えっ!」

大郎が叫んだ。

 赤檮は、瞳がぴくっと、わずかに動いただけだった。

「いろいろと作戦を練るつもりであったが、それも必要なさそうだ。

 赤檮。お前ならできるであろう」

赤檮は動揺していたが、全く表情には出ていなかった。

「守屋様でなく……」

「そうだ。穴穂部様だけでいい」

厩戸は微笑んだ。

「厩戸様の、いつもの笑い顔だ。

 こんな恐ろしい事を言いながら、こんな風に笑う事ができるなんて」

大郎にはいつも以上に、厩戸の笑みが謎めいて見えた。

 赤檮はしばらく黙りこくっていた。一度、瞬きをすると、すくっと立ち上がった。続いて厩戸も立ち上がる。

「わかりました。

 そのかわり、一つお願いがあります」

「なんだ」

「はい。私は嶋の大臣から命令されています。厩戸様を危険な目に合わせるなと。

 ですから、決してここから動かないで下さい。

 それだけでございます」

赤檮は頭をさげた。

 厩戸は口を真一文字に結び、大きくうなずいた。

「赤檮。お前は主人に忠実でもあるのだな」

 赤檮は軽く一礼して、踵を返した。そして砦の脇の一番大きな朴ノ木によじ登り、あっという間に城の中に消えた。


 太陽は東の空に、昇りきっていた。木漏れ日が厩戸の顔に当たる。

 厩戸は全く身動きをせず、草の上であぐらをかいていた。

 大郎は厩戸の隣に座った。厩戸の顔を覗き込んだり、景色を眺めたりしていた。

 時は静かに流れた。


 ふわっと、厩戸の頬を風が渡っていった。厩戸は不穏な空気を感じた。反射的に上を向いた。

 朱雀。

 砦に朱雀を見つけた。

 続いて守屋の姿を確認した。守屋は砦の窓から、馬子の軍を眺めていた。背伸びをしていたが、舌打ちをした。よく見えない様子。

窓か隣の朴ノ木に手を伸ばした。

 高齢の守屋。体は機敏に動かない。今にも落ちそうになりながら、砦から木に飛び移った。

「危ない!」

声をあげたのは、大郎だった。

 下から見ていた厩戸も、声をあげる所だったが、すんでの所でとどまった。

 

 守屋は慣れない動作ながらも、さらに木を登った。そして高い所にある、太い幹が二股に分かれた、木の股に腰掛けた。

 守屋は高い所から、馬子の軍を眺めていた。

 下にいる厩戸には気が付かない様子。

 

 突然、守屋が下を向いた。

 厩戸ではない。大郎の気配を感じたのだ。

 しかし、見えたのは厩戸の姿。もう一つの気配も気になったが、目の前の敵に気は向けられた。

「厩戸! ここまで来ていたのか!」

守屋は叫ぶと同時に、朱雀の目を見た。

「守屋様! 待ってください。私はあなたと、戦いたくない」

厩戸の言葉は、守屋には響かなかった。

 既に守屋の目は赤く光っていた。

 赤く光った朱雀からは、炎が飛び出してきた。

 厩戸は両手を顔の前に掲げ、炎をよけた。

 しかし、火は周りの草や木に燃え移った。辺りはあっという間に、炎に包まれた。


 朱雀の炎の攻撃は、すぐに止まった。

 守屋はぐったりと、木に寄りかかっていた。

 厩戸は木に登ろうと、幹に手をかけた。

「来るな!」

守屋は叫び、再び、朱雀の目を見た。


 厩戸は朴ノ木に触れ、青龍と目を合わせた。厩戸の目が青く光った。

 青龍は木に向かって吠えた。

 植物。

 青龍の力は、植物の力。守屋が寄りかかっていた木の枝が、不自然に伸び始めた。

 枝は意志があるように動き、守屋の腕や体、そして頭に絡みついた。

 守屋は羽交い絞めにされ、全く身動きが取れなくなった。守屋の頭は朱雀と反対に向くように固定され、朱雀を目を合わせる事が出来なくなった。

 守屋の瞳は、元の色に戻った。


「誰か、誰か来てくれ。厩戸だ。厩戸がここにいる!」

守屋は声を振り絞った。

 しかし、そこに現れたのは、赤檮だった。

 赤檮は燃え盛る炎に、一瞬足を止めた。しかし、その炎の真ん中に立っている厩戸を見つけ、駆け寄って来た。

 厩戸は上を向いたまま、放心状態だった。

「勝海ぃ!」

木の上で、守屋が叫んだ。赤檮は上を向いた。

「物部守屋!」

赤檮はその名を呼んだ。

 敵の大将である。

 赤檮はとっさに背中に背負った弓矢を抜いた、そして、木の上で動かない守屋に向かって、矢を放った。

 弓に長けている赤檮。彼の矢は確実に守屋を捕らえ、矢は胸に命中した。

「あああっ!」

大郎は叫ぶと同時に、目を逸らせてしまった。


 一瞬の出来事だった。


 守屋は声をあげる事もできなかった。

 厩戸は青龍から目を離した。

 守屋を捕らえていた木の枝は、元の枝に戻った。守屋は力なくその場に崩れ落ち、木の股に引っかかった。

  厩戸はその場に崩れるように倒れ込んだ。

 青龍は体をくねらせ、慌ただしい動きを取るようになった。


「厩戸様」

赤檮が厩戸に駆け寄った。

 厩戸は青白い顔をして、息を切らせていた。

「赤檮……。お前が、守屋様を。なぜ……」

苦しそうな息をしながら、赤檮に尋ねた。

「守屋は敵です。隙あらば、と、馬子様からは常に言われていました」

「そうか……」

厩戸は目を伏せた。

 しかしすぐに立ちあがり、ふらつきながら木に登ろうとした。

「木に登るのは危険です。」

赤檮は厩戸の手をつかんだ。

「いや。大丈夫だ」

「しかし。守屋に襲われたら」

「いや。守屋様はもう……」

落ち着くなく動く青龍を見て、厩戸は悲しそうに言った。

「お前が射った矢だ。守屋様は、もう助かるまい。

 いいか。これは命令だ。お前はここで待っていろ。私の命令があるまで、何があっても動くな」

厩戸の声は、有無を言わせなかった。赤檮は「はい」とだけ言い、その場に片膝をついた。


 厩戸は青龍の瞳を見た。

「私を、上に」

そう言って、青龍の背中に乗った。青龍は慌ただしい動きをしながら、厩戸を乗せ、木の上まで飛んで行った。


 大郎も白虎に乗り、厩戸を追いかけた。

 守屋の右胸に矢が刺さっていた。大量の血が流れている。守屋はゼイゼイと苦しそうに呼吸をしていた。


 厩戸は木の上に降り立った。そして太い幹にもたれ、守屋の前にかがんだ。

「と、とどめを刺せ。殺すなら、早く、殺せ」

守屋は投げやりに言った。

「同じ四神を従える者を、どうして殺すことができましょう。

 四神は人を殺めるものはないと。飛鳥と大王を守るためにこの地に遣わされたと。そう、私に教えて下さったのは、守屋様、あなたです」

厩戸の目から、涙がこぼれ落ちた。

 守屋の顔は、悲しそうにゆがんだ。

「守屋様。青龍が天に向かって泣いています。あなたなら、これが何を意味するかお分かりですよね」

「ああ、そうだな。我は、もうすぐ、死ぬだろう……」

厩戸は眉根をよせて、目を閉じた。次に目を開いた時には、何か決心したように、強い意志を瞳に灯していた。


「守屋様。単刀直入にお聞きします。

 物部に伝わる、かの禁術」

「何ぃ!」

虫の息の守屋から、大きな声が発せられた。ゴホゴホと咳き込み、血を吐いた。

「まさか、おぬし、それを、手に入れようと……。

 あれは、門外不出。なぜ、それを……」

「確かに。しかし、なぜ、それを穴穂部様がご存知なのでしょう」

「ま、まさか、その様な、こと。ありえない」

守屋は目を閉じた。

「本当です。私は穴穂部様が話しているのを、直接聞いています。

 そのために、物部と手を組んだと。そこまで言っておられたのです」

「まさか……。そんな」


 その時、砦の中から、勝海が出てきた。

 目の前で燃え盛る炎に、ひどく慌てた。

「火が! ああ、砦に燃え移ったら大変だ。

 玄武よ、早く火を消すのだ」

勝海は木の上の二人にも、下で待っている赤檮にも気が付かなかった。火事にすっかり気を取られた。

 勝海が玄武の瞳を見つめた。そばを流れる川の支流が波打つ。

 すると、玄武から水が大量に噴出してきた。それまで燃え盛っていた、炎はあっという間に消えた。


 勝海は木にもたれかかり、咳き込んだ。何度か深呼吸を繰り返し、息を整えた。

「か、勝海……」

守屋が必死に絞り出した声は、勝海に届いた。勝海はきょろきょろと周囲を見渡した。

「う、上じゃ」

勝海は見上げた。そして木の上にいる、朱雀と青龍に気が付いた。

「な、なぜ、厩戸様が!」

勝海は二人の姿を確認したが、二人のいる所は高いうえ、葉や枝に隠れてはっきりと見る事はできなかった。

「なぜ、そのような所に」

「か、勝海……、助けて、く」

とぎれとぎれの守屋の声。いつもの覇気が全くない。何かあるのだと気が付いた勝海は、力の入らない手で、木を登り始めた。

「勝海様、危ない。やめて下さい」

勝海は厩戸の言葉は無視した。


 厩戸は木の枝を握りながら下を覗き込んだ。勝海は体力を消耗しているように見受けられた。

 木の中ほどまで登って来た時、枝の股に足をかけ、一呼吸おいた。

 そして上を見た。厩戸が自分を心配そうに見ている。

「う、厩戸様。まさか、あなたが、あなたが穴穂部様を殺したのですか?」

勝海の声は、守屋にも聞こえた。守屋は厩戸を睨みつけた。

(赤檮。やってくれたのか)

厩戸は勝海の問いには、答えなかった。自分が命令したのだ。直接、手を下してはいないが、殺したも同じだと思った。

 守屋と勝海はその沈黙を肯定と受け取った。守屋は拳を握っただけで、罵声を浴びせることもできなかった。

 勝海は涙を流しながら、木登りを再開させた。

「あなたは、そ、その青龍の力を使ったのですか。その力で、穴穂部様を殺したのですか」

「違う! 私は力は使っていない。青龍は何もしていない」

「そ、そうですか。

 四神は、そのような事に使ってはいけない。私は、そう思う。

 で、でも。私はやってしまった。玄武に人殺しをさせてしまった。

 私は、そのような事、したくはなかった」

勝海の大きな目から、涙がこぼれ落ちた。嗚咽が漏れた。

「勝海様、私もそう思います。四神の力は飛鳥のためにあるものと」

「う、厩戸様。そっ。

あぁっ、うわあぁぁ」

勝海は枝をつかみ損ねた。

どすっ!

勝海が地面に叩きつけられた音が、重く響いた。


くるるるぅぅ!

ぐおおおぉぉ!

青龍と朱雀が同時に吠えた。

次の瞬間、玄武から黒い光が発せられた。光は飛鳥の方角に向かって伸びた。

玄武は黒い光の上を、音もなく静かに進んだ。

 厩戸は玄武を見送った。

 その途中。いつも亀に絡みついていた蛇がほどけた。二匹は離れたまま、飛鳥に戻って行った。

(! なぜ、二匹が離れたのだ? このような 玄武の姿、見たことがない」

厩戸は呆然と二匹の玄武を見送った。


「勝海、逝って、しまったか」

守屋はうなだれた。

悲しみと苦しさで、守屋の顔がゆがんだ。

厩戸は我に戻り、守屋の正面にかがんだ。

守屋は皮肉な笑みを浮かべた。

「厩戸皇子。

残念だったな。あれはお前のものにはならない」


守屋が突然、大郎に目を向けた。

「そこに、誰か、おるのか」

守屋の視線は大郎を捉えていた

大郎は後ろにのけ反り、白虎から落ちそうになった。

『あわてるな。はっきりと見えている訳ではない。

気配を感じているだけの様だ』

「う、うん」

守屋はふふっと笑い、厩戸に視線を戻した。

厩戸は不思議そうに、守屋の視線を追った。しかし、厩戸には何も感じられなかった。


「あれは、神に返した。神の元に封印した。

神と、相対する事ができる、我にしか、できぬ、事。

 ごふっ!」

守屋は大量の血を吐き出した。みるみる、顔が青ざめていく。

「ざ、ざま、みろ」

憎しみを込めた言葉を、最後に厩戸に投げつけ、意識を失った。

守屋の呼吸が徐々に弱まっていく。厩戸は守屋の頬にそっと手を当てた。

「それで、いい。

私はそれを望んでいました。あれは、人の世にあってはならぬもの」

厩戸の言葉は、守屋には届かなかった。

厩戸はしばらくの間、守屋の顔を見つめていた。


くるるるぅぅ!

青龍は身体をくねらせ、宙を舞った。

朱雀から赤い光が出てきた。朱雀は光に沿って、飛び去った。


『朱雀は守屋の怨みを、玄武は勝海の後悔を抱えて飛鳥に戻った。

二神とも、辛い気持ちのまま、眠りについてしまった』

白虎がつぶやいた。同じ四神にしか、わからぬ思いだった。

 大郎は白虎の首に腕を絡めた。そして、白虎の瞳を見つめ、その悲しみを共有しようとしたのだ。

 見つめられた白虎の瞳は白く光り、大郎は白い光に包まれた。

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