第2話 嶋の邸宅
大郎は泥だらけのまま、嶋の家まで帰った。途中、道で会った人には、指をさされて笑われた。
自宅に着くと、こっそりと門の外から家を覗いた。
(誰もいない)
ゆっくりと、音をたてずに歩みを進めた。
「大郎! 何をこそこそしている!」
後ろから雷の様に落ちて来た怒鳴り声。大郎は飛び上がった。
「じ、じい様。お久しぶりです」
大郎は振り向かず、背中であいさつをした。
(やっぱり来ていた。こういう時に限っているんだよなぁ。
嫌な予感が当たっちゃった)
大郎はちらっと白虎を見ながら、心の中でつぶやいた。
蘇我馬子。大郎の祖父。飛鳥の右大臣で、政治の中心にいる。天皇よりも影響力があった。
大郎と父、
馬子の邸宅は、庭に池があるほど豪華な家だった。大郎たちの家は、それに比べれば小さなものだったが、一般の豪族と比べれば、十分に立派な邸宅だった。
母親を早くに亡くした大郎は、父、毛人と二人暮らし。
大勢の使用人や
馬子はしばしば毛人邸を尋ねて来る。大郎をよく怒り付けてはいるが、一番かわいがっている孫だった。何かにつけ、顔を見に来ていた。
馬子は大郎の汚れた服に、すぐ気が付いた。
「なんだ、その汚れた服は。蘇我家の跡取りになろうという者が、泥だらけで歩いてきたのか。
なんと、みっともない。どうして、お前は落ち着きがないのだ!」
「はい。ごめんなさい」
後ろ向きのまま謝る。
「大郎。こっちを向け。人に謝罪する時は、人の目を見て言うのだ」
大郎はしばらく考えた。しらばっくれても、すぐにばれるだろう。謝る時は、早い方がいい。大郎の経験がそう言った。
「はい。ごめんなさい」
大郎は勢いよく振り返り、深々と頭をさげた。
一瞬その姿勢で止まり、その後、ゆっくりと顔を上げた。泥だらけの顔が、馬子にさらされた。
「馬鹿者! なんだ、その顔は!」
とうとう、蘇我家名物の雷が落ちた。
「お父様。落ち着いてくださいな。
そんなに興奮すると、お体に障りますよ。
大郎は、まだ8つ。思い切り遊びたい年ごろではないですか」
優しい声が聞こえた。
毛人の妹、
大郎は助かったとばかりに、刀自古に駆け寄った。
「叔母上。お久しぶりです。
飛鳥においでだったんですね。さっき、山背に会ったんです。
そうだ。じい様。今まで畝傍の山で、山背と勉強していたのです。えっと、三国の情勢とか、唐の事とか」
「ほう。勉強していて、なぜそんなに汚れるのだ」
「えっと。そうだ。実践です。戦に備えて、体を鍛えていたのです」
大郎の言い訳にもなっていない弁明を聞き、馬子は大きなため息をついた。
「もう、よい。早く汚れを落としてこい」
「ハイっ」
大郎は元気に返事をした。
「よかった。今日は叔母上がいて下さって、助かったよ」
大郎は白虎に話しかけながら、裏庭へ走った。
馬子は苦笑いをして、大郎の後ろ姿を見送った。
「刀自古。お前も行け。あの、泥まみれをどうにかしてやれ」
「はい。承知しました。
では、お父様。先ほどお願いしました件。なにとぞ、よろしくお願いします」
刀自古はぱっと表情を変えた。真剣な顔をして、深々と父、馬子に頭をさげた。
「それは、何とも言えん。山背もまだ、年若。まだ、時期尚早だ」
馬子ははねのけた。
刀自古は何か言いたげにしたが、思い直したように唇をかみしめた。そして、もう一度父親に頭をさげ、大郎を追いかけた。
「父上。大きな声が聞こえてきましたよ。お元気そうで何よりです」
家の中から毛人が出てきた。
「大きな声も出したくなる。
大郎は8歳だと? それにしては、落ち着きがない。
大臣の家の跡取りなのだぞ。一体、どういう育て方をしたのだ」
「それは申し訳ありません。
しかし、産み月よりも2月も早く産まれ、無事に育たないかと思われた大郎が、あんなにたくましく育ってくれたのです。
あれの母親は、早くに亡くなりましたし。私にとっては忘れ形見の、大切な息子です。元気に育ってくれれば、それでいいかと思っております」
「お前は、甘いな」
「そうかもしれません。
それよりも、父上」
それまでひょうひょうとしていた毛人の表情が一変した。深刻な顔で、声を潜めて話を続けた。
「私は、大郎のあの癖が心配です」
「まだ、治らぬか。
そういえば、さっきも横を向いて、隣に話しかけているような仕草を見せていたな」
「はい。父上も気が付かれましたか。
そうです。いまだに大きな声で、独り言を言うことがあります。宙に手を伸ばして、何かを撫でる仕草をすることもあります。本当に何か、隣にいるように振る舞う事があるのです。
幼い頃は、猫がいると言って、譲りませんでしたなぁ。
まぁ、あの頃に比べれば、ましになったと思いますが」
「そうか……。
まてよ。そうだ。もしかすると……」
馬子はぶつぶつと独り言を言い始めた。そして馬子は腕組みをして、無言で考え込んだ。
「もしかすると、大郎には力があるのかもしれぬ」
沈黙を破って馬子がつぶやいた。
「はい?」
毛人は1回、聞き返した。
「えっ。まさか、あの?」
「そうだ。蘇我家に伝わる、あの言い伝えだ。蘇我家には何代に一人、力のある者が産まれる。その者はその力で、飛鳥を守る」
「いや。まさか、あの、ガサツな大郎が?」
「そう、捨てたものでもないぞ。
あの厩戸様が、しきりに大郎の事を気にかけて下さる。
しかも、大郎は優秀だと、そうおっしゃってくださったのだ」
「あの、大郎をですか……」
毛人は小さく唸って、腕を組んだ。そして大郎の走って行った方を見つめた。
「髪の中まで泥だらけ。どうしたらこんなに汚せるのかしら。
大郎は、本当に腕白なんだから」
刀自古は大郎に水を翔けながら笑った。外で水を浴びるには、もう寒い。大郎は頭から、何回も水をかけられていた。
「ああぁ。冷たい。叔母上。まだですか」
「はい、はい。もう少しよ」
蘇我の家には邸宅に川の流れを引き込んである。刀自古は庭に流れる小さな川から水を汲み、最後の1杯を大郎にかけた。
「はい。これでいいかしらね」
「ああぁ。冷たかった。
でも、今日は本当にありがとうございました」
大郎は頭を拭きながら言った。
「叔母上のおかげで、じい様のお説教が短くて済みました」
大郎は刀自古の前に立ち、頭をさげた。刀自古は手を口に当て、くすくすと笑った。
大郎は素っ裸のまま、隠す所も隠さないでいたのだ。
「あつ。すみませんっ」
大郎は慌てて体の水を拭き、服を着た。
「お父様は今日はご機嫌が悪かったようです。お兄様が言っておられました」
「そうなのか。どうりで今日の雷は、いつもよりでかいと思いました。
ほんとに、叔母上がいて下さってよかった」
「大王様と、いろいろあったそうです」
「えっ。またですか。
この前は人前で、大喧嘩をしたと聞きます。
いくら、じい様の姪だとはいえ、大王様ですし、それはいけないと思います」
女帝、推古は、馬子の姪にあたる。推古は馬子と厩戸の後ろ盾で天皇になった。政治に口を出さない事が前提の、
しかし彼女の時代が長くなりすぎた。彼女は傀儡である事に、不満がつのってきた。最近は政治に口を出すようになり、馬子と対立することもあるという。
馬子はそれを煩わしく思うようになっていた。
刀自古は鋭い指摘をしてきた大郎に少し驚いた。
「じい様は、厩戸様が天皇になればよかったのだと、よく言っておられます。
そうすれば三国との交渉も、歴史書を作るのも、ずっとはかどるって。
崇峻の大王のあと、なぜ厩戸様が天皇になりたがらなかったのか、それが不思議だって。
叔母上は、ご存知ですか」
「私には難しい事はよくわかりません。あの時、皇子様はまだ20歳前でしたし。まだ、お若かったからでなないでしょうか」
「うーん。でも、もう成人されているわけだし。じい様が言うには、厩戸様は幼い頃から利発であったと。即位にはなんの、問題もなかったって」
大郎は小首をかしげて、一生懸命考えた。
「どうしてなんだろう。
天皇になりたくて、争いだって起きるくらいなのに」
大郎がつぶやくと、しばらくしんと沈黙した。
大郎は何も言わなくなった刀自古を、横目で見た。
「ご、ごめんなさい」
大郎が突然、謝ってきた。
「えっ?」
刀自古が聞き返した。
「だって。叔母上。悲しそうな顔をしていらっしゃるから。俺、なんか悪い事、言ったのかと思って」
刀自古は柔らかくほほ笑んだ。
「大郎は、人の心が読めるようですね。
その上、気を使ってくれて。本当に、優しい子ね」
「えっ。そんな……」
大郎は照れくさそうに笑った。
刀自古の顔が険しくなった。
「大郎は丁未の戦を知っていますか?」
「はい。じい様と厩戸様が、物部家と中臣家と戦った戦です。
百済から入って来た仏教を推すじい様たち。それと、古代からの神道を守る物部と
刀自古は小さくうなずいた。
「そうですね。あれから随分月日が経ったので、世間ではそのように言われる事が多くなりましたよね。
でも、戦の発端は、それだけではありません」
刀自古は軒先に腰を掛けた。大郎はその隣に、ちょこんと座った。
「……。 大郎は、おばあ様を覚えていますか。私と毛人兄様のお母様です」
大郎は白虎に相談するように、顔を向けた。白虎は前を向いているだけだった。
「うーん。小さな方でしたよね。いつもニコニコされていて。でも、今、思うと、寂しそうな顔もしていました。
うーん。ごめんなさい。やっぱり、ほとんど覚えていないです」
「謝る事はありません。おばあ様が亡くなった時、大郎はまだ幼かったから。
では、おばあ様が物部の者だったということも知らないですよね」
「えっ?」
大郎は目をぱちぱちと瞬かせた。
「お父様は物部を衰退させたので、この家では、その話は避けるようになりましたし。知らなくて、当然です。
でも、お母様は守屋様の妹です。だから、私達にも物部の血が流れています」
「じゃぁ、じい様は、おばあ様の兄上と戦ったのですか?」
「そうです」
「兄弟なのに」
「でも、それは珍しい事ではありません」
刀自古はうつむいた。
「あの戦では、
あのお二人は、血の繋がった、同母の兄弟でした」
「泊瀬部様って、確か崇峻の大王様。でしたよね」
「はい。
お二人とも、大王の座を狙っていました。丁未の戦は、大王の座を争う戦でもあったのです。
泊瀬部様が蘇我に、穴穂部様は物部側につきました。
戦は蘇我が勝利し、穴穂部様は戦の途中で亡くなり、大王には泊瀬部様がなったのです。
でも、結局、泊瀬部様は途中で暗殺されました。
皆、何のために戦ったのか、わかりません。
どうして、天皇を決めるのに、血が流されなければならなかったのでしょう。
どうして、兄弟、身内が戦わなくてはなかったのか……」
刀自古の声が震えた。
「お母様は、自分の兄を殺した夫と暮らしていました。
兄が亡くなった知らせを聞いた時、お母様は泣いていました。
結局、戦いが起きて、泣くのは女です。
私は、大王を決めるのに、無益な血を流してほしくありません。だから、平和的に争いなく、天皇を決めてほしい。そう思ったのに……」
大郎は刀自古が泣いているのかと思った。
しかし刀自古は地面を睨みつけているだけだった。
大郎は刀自古の背中をさすった。
刀自古の張りつめていた表情が、一瞬でほどけた。そしていつもの、優しい笑顔に戻った。
「ありがとう。大郎」
刀自古は大郎を抱き寄せた。
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