第3話 野口の亀石
推古27年
暑い夏だった。
大郎は必死に走った。顔には汗が流れてきた。
(今日もあつくなりそうだなぁ)
大郎は天を見上げた。足が止まりかけた。
陽はまだ昇り始めたところ。それでも大郎は顔に当たる陽の光がじりじりと熱く感じた。
(いや。こんなのんきな事、していられない。急がないと)
大郎は思い直して、また走り始めた。
「大郎」
途中で呼び止められた。わき道から厩戸が歩いてきた。いつものように、優しくほほ笑んでいる。
(厩戸様が笑うと、不思議な感じがする)
大郎は今日もその笑みを見て思った。
口角を少しだけ上げ、目を細める。そして大郎の目を、まっすぐに見つめてくれる。今日も大郎はどきっとした。
「おはようございます。厩戸様。
青龍もおはよう」
大郎は厩戸の隣にいる青龍にも、明るく挨拶をした。
厩戸皇子は四神のひとつ、青龍を従えていた。
厩戸は機会ある毎に、大郎に四神の事を教えてくれる。大郎が白虎に戸惑わずにいられるのも、厩戸の教えあっての事だった。
「ああ。おはよう。
大郎はいつも青龍に挨拶してくれるんだね。うれしいよ」
厩戸はさらに目を細めた。大郎は「いえ」と言って、満面の笑顔を返した。
「随分と急いでいるようだね」
「はいっ。そうだ。今日から亀当番なんです。寝坊してしまって……」
「それは大変だ。呼び止めて悪かったね。
よし、それじゃあ、そこまで一緒に歩こうか」
厩戸は川沿いの細い道を、大郎と並んで歩き始めた。
川は亀石まで続いている。
亀当番。
亀石の見張りをする仕事の事。亀石は野口の地に、ポツンと置かれている岩である。
今、南西を向いている亀石が西を向くと、飛鳥が水没するという言い伝えがある。
亀当番の仕事は、亀石が西を向いたらすぐに、銅鑼を鳴らす事。亀石が西を向いたことを村中に知らせる役目だった。
亀石の隣には見張り小屋がある。当番はそこで1週間、寝泊りをする。そして決まった時間に、亀石を確認する。食事は野口の住民が届けてくれる事になっていた。
当番になるのは役人や豪族の子供。成人するまで、役目は順番に回ってくる。この役目が全うできない者は、将来の出世が遠のく。子供たちにとって、家のために断る事ができない役目なのだ。
「厩戸様。
亀石が西を向くと飛鳥が水没するって、本当の事なのでしょうか」
大郎は普段から疑問に思っていた事を、ちょうど良いとばかりに尋ねた。
「うーむ。亀石はこれまで動いた事がないからね。私には嘘とも真実とも答えることはできないな。
しかし、ここ飛鳥は人と神獣が共に生きている特別な地だ。
ほら、四神は飛鳥を守る事が役目だが、それすら伝説と言われてしまっている。四神の見えない人々にとっては、単なる昔話だ。そう、すでに四神の事は忘れ去られている。
しかし、私たちにとっては現実であり真実だ」
厩戸は大郎の目を見つめた。大郎は大きくうなずいた。
「だからね。亀石の伝説だって、ただのお話だと言い切ることはできないだろう。事が起きてからでは遅いのだ。
飛鳥を守るための、大切な役目だと思っている」
「そうですね。確かに亀石には何かある感じもします。
俺、一生懸命役目を果たします」
大郎は晴れ晴れとした顔で答えた。
「いつも元気だね」
厩戸は大郎を愛おしそうに見た。
「そうですか。刀自古の叔母上にも言われました。
なぁ、きらら」
「大郎は四神に名前を付けているのだよね。
私の知る四神の主で、四神に名前を付けている者はいなかった。
私もそうだ。名前をつけるなど、考えた事もなかったよ」
「そうなんですか」
大郎は意外そうな表情をした。
「じゃあ、朱雀の物部
「そうだろうね。
彼は朱雀と話をするなど、考えたこともないだろうね。
いつもそばにいる朱雀を疎ましく思っているくらいなのだから」
「疎ましく思う?」
大郎は首を傾げた。
「つまり、朱雀が邪魔だって思っているのだよ」
「朱雀が嫌いってことですか?」
「おそらくね」
厩戸は諦めているように見える。
「そんな……」
四神の事を大切に思う大郎には、信じがたい感情だった。
不意に、厩戸が立ち止まり、苦しそうに胸をおさえた。かがみ込んで、激しく咳き込む。
「厩戸様!」
大郎は駆け寄り、厩戸の背中をさすった。
「大丈夫ですか。俺が、早く歩いたから……」
「いや。大丈夫」
厩戸は大きく息を吸い込み、呼吸を整えようとした。
「大丈夫だから、心配しないで。
私の、方こそ、悪かった。大郎は急いでいたのに」
「俺の事なんか、気にしないでください。
青龍も心配しています」
厩戸は顔を上げ、大郎の顔をじっと見つめた。
「大郎。お前は青龍の表情もわかるのか?」
「あ。はい。青龍が心配そうに厩戸様の事、見ているから」
「お前には、本当に驚かされる。
自分が従えているわけでない四神の事までわかるとは。
私にはきららの事はもちろん、青龍の表情や気持ちもわからないのだ」
厩戸は何回か深呼吸を繰り返すと、ゆっくりと立ち上がった。
「厩戸様。どうか、無理をなさらないで下さい。
お顔の色も悪いし、それにお痩せになったように見えます。
お忙しいとは思いますが、どうか休んで下さい」
(こんな事。子供の俺が言うと、失礼に当たるのかな)
大郎はそう言ってから、憂慮した。
「ありがとう。でもね、私には、今、どうしてもやらなければならない事があるのだ」
厩戸は気にしていない様子。
「歴史書ですか?」
「そうだ。国記と天皇記は、必ず完成させなくてはならない。
大和の歴史を後世に伝えるために。
しかも正しい歴史を残すためには、一片の間違いがあってはならないのだ。
時間のかかる作業だが、馬子殿、お前のおじい様も一生懸命やってくれいている。
しかし、これは古代から伝わる四神を授かった、私の使命だと思っている。命を懸けて成し遂げようと、誓っているのだ」
厩戸の強い意志を聞かされた大郎は、何も言えなくなってしまった。
「大郎。お前はいくつになった?」
「9つです」
「9歳か。そろそろお前に話しておきたい事がある。
お前は賢くて、人の心のわかる優しい子だ。私の話もしっかり理解できるだろう」
「あ、ありがとうございます。
何をお話してくださるのでしょうか」
「四神の事、飛鳥の事。そして大郎が、四神の主が知るべき事だ。
……、 私が、話せるうちに」
最後の言葉はあまりにかすかで、大郎には聞き取れなかった。
厩戸はいつもの笑みを大郎に向けた。
「急いでいるのに、悪かったね。
また、ゆっくり話ができる時を楽しみにしているよ。
私はここで失礼するよ。ほら、大郎も急いで」
厩戸は大郎の頭をなでた。
「本当に、大丈夫なのですね」
「ああ、心配ない」
厩戸の普段と変わらぬ笑顔を見て、大郎は安心した。
「はい。では、失礼します。青龍。厩戸様を頼んだよ」
青龍に話しかけると、大郎は一礼し駆け出した。
厩戸は大郎の背中が見えなくなるまで見送った。
白虎は振り返った。
『青龍の主。彼の命に、かげりが見える。
まだ逝くでない。大郎には、まだおぬしが必要なのだ』
7日間の亀当番は、何事もなく無事終わった。
大郎はその後、まっすぐに家には帰らず、飛鳥川の上流に向かった。
「加夜の所に行くのは久しぶりだね」
加夜奈留美命神社までの急な坂道も、大郎の足取りは軽やかだった。
鳥居をくぐると、加夜奈留美命が立っていた。
「加夜。待っていてくれたの? 今日も、俺が来ること、わかっていたんだね」
加夜は穏やかにほほ笑んだ。
大郎と加夜は飛鳥川の見える所に、並んで腰かけた。
大郎は一人で話し続けた。厩戸の事、亀石の事、馬子や刀自古、家族の事。話は尽きなかった。加夜は大郎の顔を、じっと見つめていた。
大郎は加夜の視線を感じ、話を止めた。ふっと加夜に目を向けた。加夜と視線が合う。
大郎は加夜の瞳に捕らえられた。加夜から目を話す事ができなかった。
(息が苦しい)
大郎は拳を胸に当てた。激しい動悸に耐えられなくなった。やっとの思いで、加夜から視線を逸らせた。
大郎は目を閉じ、深呼吸を繰り返した。しかし、胸のどきどきは止まらなかった。
大郎は加夜の手を握りたくなった。加夜の手に触れる事はできないとわかっていても、加夜に手を伸ばし、手を重ねた。手に触れた感触はないが、清浄な気が流れ込んでくるようだった。
(このまま、ずっと、二人でいられたらいいのにな)
大郎は飛鳥川の流れをじっと見つめていた。
『我の事など、忘れておる』
白虎もぼんやりと飛鳥川を見つめるしかなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます