第3話 高松塚古墳
智と妃美は12時半頃のバスに乗り、飛鳥駅に戻って来た。
「妃美さん、まだ観光しますよね」
「それより、おなかすかない?」
「そうですね。確かに。じゃ、お昼にしますか。
そうだ。そういえば俺、今日どうしようかな。泊まるとこも決めていないんですよね」
「えっ? なにそれ。
東京とかならいくらでもホテルとかあるだろうけど、こんな田舎、泊まる所も少ないわよ」
妃美は若干呆れた感じで言った。
「そうですね。駅前でも、ホテルとか見当たらないですもんね。
まぁ、ホテル取れなかったら、ファミレスでも漫画喫茶でも、どこかで時間つぶせばいいいかって思っていたんですよ」
「それこそ、ありえないわよ。この駅前のどこに24時間営業のファミレスがあるのよ」
そう言われ、智は駅前の景色を見渡した。
「うーん。そうですね。
それなら大和八木駅って、少し栄えていたけど、そこならありますかね」
のんきに答える智に、妃美はため息をついた。
「私が昨日泊まったペンション、昨日も少し空きがあったみたいよ。平日だし、もしかしたら泊まれるかもしれないわよ。
私、聞いてみるわよ」
「あっ。ありがとうございます」
智はぺこっと頭をさげた。
妃美はバックからスマートフォンを取り出し、電話をかけた。
「あ、昨日泊まった、真田です……」
智はスマートフォンを持つ妃美の手に、釘付けになった。
すらりとした綺麗な指。中指には細いリングがはめてある。爪はきれいに手入れをしてある。ピンク色のマニュキュアとキラキラした石が付いていた。
「……君、智君ってば!」
「はいっ?」
智はびくっと反応した。
「お部屋あるって。どうする?」
「あっ。じゃあ、お願いします」
智は妃美に向かって、深々と頭をさげた。
妃美はくすっと笑い、スマートフォンに向かって話し始めた。
「じゃ、お願いします。
それと急に申し訳ないんですけど、私ももう一泊したいんですけど」
(えっ? 妃美さんも泊まる?)
智の頭の中に、若い男子のいけない妄想が広がった。
「はい。ではシングル二部屋で」
(別々の部屋ね……。 そりゃそうだ)
智は顔が赤くなった。汗が流れてきた。自分の妄想が恥ずかしくなった。
「智君!」
「あっ。はいっ!」
びっくりして、飛び上がりそうになった。
「ほら。泊まる人の名前と、電話番号を聞きたいんだって」
「あっ。はい」
差し出された妃美のスマートフォンを受け取った。
妃美の温もりが残っているスマートフォン。智はそれを顔に近づける事を躊躇した。
(これ、今まで、妃美さんの顔にくっついていたんだよな)
自分の顔に、くっつけてはいけない気がした。スマートフォンを見つめて、そんな事を悩んでいると、受話口から「もしもーし」と、叫んでいる声が聞こえてきた。
智は慌てて、スマートフォンを耳に当て、話し始めた。それでも画面を顔にくっつけないように気を付ける。そうしたら不自然な持ち方になり、スマートフォンを落としそうになった。
「ありがとうございました。
なんか、あっという間に決めてもらって。助かりました」
智はスマートフォンを妃美に返し、ぺこっと頭をさげた。
「そうだ。ね。じゃ、これからそのペンションに行かない?
カフェも併設されていたの。ちょうどいいから、そこでお昼っての、どう?」
「いいですね。そうしましょう。
俺、コインロッカーに荷物入れてあるから、取りに行ってきます」
智はコインロッカーに向かって歩き出した。
「待って。私もロッカーに荷物預けてあるの」
妃美は智を追いかけた。
街路樹が植えられている遊歩道。茶色い木の葉が、かさかさと音をたてて、風に揺れる。
川に沿っている道を、二人は並んで歩いた。煉瓦が敷き詰められた歩道。二人のキャリーバックがガラガラと音をたてる。
(こんな風に歩いていると、俺達、付き合っているように見えるかも。
でも、妃美さん、大人っぽいし、姉弟って思われるかもしんない)
智は一人で勝手な想像を膨らます。
(俺。妃美さんの事、好きなんかもしれない。
でも、妃美さん綺麗だし、彼氏とかいるかも。
それに、俺に親切なのも、同じ四神を連れているからかもしんないし。
まだ会ってから、数時間だってのに……)
智は妃美に触れたいと思った。
手を伸ばせば、妃美に触れられる。そう思うと、激しい動悸がしてきた。と同時に体が火照った。
(落ち着け、俺。頭、冷やせ)
智は救いを求めるように、玄武を見た。
玄武の目が開いていた。そして黒く光った。
そばを流れる川に、変化が起きた。
風もないのに、川の水面にさざ波が立ったのだ。ザザザっと、波音もする。
「えっ? 雨?」
妃美は顔に水が当たった気がした。手のひらを空に向け、上を向いた。
紺碧の空。雲一つ浮いていない。
それでも、雨は降っていた。細かい雨粒。体は霧雨で濡れている。
妃美は怪訝そうに周囲を見渡した。
「智君!」
悲鳴に近い声があがった。
隣にいる智と玄武が黒く光っていた。智の目は見開かれ、瞬き一つしていない。瞳の色は漆黒に変わっている。
妃美は半歩、後ずさっただけで、体が動かなくなった。
智はピクリとも動かなかった。
妃美は震えながらも、智に手を伸ばした。
「冷たい……」
霧雨は氷の様だった。
「さ、智君!」
妃美は震える声で、もう一度、名前を呼んだ。
妃美の声は智に届いた。智の瞳がぴくっと動いた。
その途端、黒い光は消え、雨も止んだ。
そして、智は体の力が抜けたように、その場に膝をついてしまった。
妃美は駆け寄り、智の隣にかがんだ。
智は息を切らしていた。2,3回咳き込んだ。
「大丈夫?」
妃美が背中をさすりながら声をかけた。
「あっ。はい……。
あぁ、寒い」
智は両腕を抱え、震えた。
妃美がバックからハンカチを取り出し、智の顔を拭き始めた。
「えっ? なんで、俺、濡れて……。
あ。妃美さんも、髪が……」
智は妃美の顔を心配そうにのぞき込んだ。
「私なんて、どうでもいいけど。
智君、どうしちゃったの?」
「えっ。俺、何かあったんですか」
「智君。目が光ったの。玄武もそう。亀も蛇も目が黒く光ったの。
そうしたら、雨みたいなのが降ってきたのよ。
光がなくなったら、雨も止んだの。
でも、雨を降らせるような雲はないし、本当に空から雨が降ったのかはわからないの」
そう言って、妃美は1回言葉を飲み込んでから、言葉を続けた。
「……。 智君。怖かった」
「えっ。俺、なんかしたんですか」
智はごほごほと咳き込みながら尋ねた。
記憶はぼやけているが、その前の邪な妄想ははっきりと覚えている。
「ううん。
でも、全く動かないし、意識なかったんじゃないかって思う。
目がね、ぱっちりと開かれて、瞳が真黒で、何にも見ていないようだったの。
その顔が、智君じゃないみたいだった」
2人は顔を見合わせたまま、立ち止まった。
「寒っ」
智は身体を震わせた。
「雨、冷たかったもの。身体、冷えたんじゃない?
急いでペンションに入ろうよ」
妃美は智の手を引き、先を急いだ。
(あっ。手、握れた)
智は震えながらも、顔だけポッと熱くなった。
白い外壁の、明日香村にしては洋風の建物が見えてきた。
「あそこ」
妃美が指差した。
二人は宿泊の手続きを先に済ませて、それから隣のカフェに入った。
1時も過ぎており、店内には女性客の3人のグループがいるだけだった。食事は済んでいるようだが、大きな声で楽しそうに話している。
店内には関西弁が響き渡っていた。
店の壁はガラス張りで、店内には光が差し込んで来る。中は明るく、ホカホカと暖かかった。
身体が暖まり、智はひと息つけた。
智はハヤシライスのセット、妃美はランチセットを注文した。
智は運ばれてきた水を一口、飲み込んだ。清涼とした水が、すべての内臓に染み渡る気がした。
「おいしい」
続けて、一気に飲み干した。
「智君。顔色、よくなってきたみたい」
「あ、はい。なんか、体も楽になった気がします。寒気も治まったし。
いったい、なんだったんだろう」
「うん……。
ねぇ。今日はどうする。観光とか、大丈夫?」
「大丈夫です。本当、もう何ともないですから」
智はにこっと笑ってみせた。妃美も安心したように笑った。
「俺、明日香村に来れば、カービィの事、何かわかるかもしれないって、そう思ってここに来たんです。
そしたら、明日香村に来てから、不思議な事、色々起きているし。
やっぱ、俺と妃美さん、カービィと朱雀は、明日香村と何か関係があるんだと思います。
だから、因縁のありそうな所、巡ってみませんか」
「そうね……」
妃美はそう言いながら、明日香村マップをテーブルに置いた。ペンションの受付においてあったものだ。
「高松塚古墳は?
ここから近そうだし、ここでも壁画があって、四神が描かれていたんだって」
「へぇ。ここも壁画が見られるんですか」
「ここは、一般公開していないわね。
レプリカが展示されているだけだけね」
「そうですか。でも、行ってみたいですね」
智はそう言いながら、地図をじっと見つめた。
「この“
智は亀石と書かれた文字を指差した。
「猿石みたいに、名前は猿だけど、猿には見えないみたいな。そんな感じだったりして」
「ううん。それなりに、亀みたいよ」
「それなりに亀って……」
妃美の言い方が、智のツボにはまったらしい。智はくすくすと笑いが止まらなかった。
「いいじゃない。それなりに亀に見えるんだもの。
ほら、ここにも写真、載っているじゃない」
妃美の指差した所に、亀石の写真があった。楕円の石だが、確かに亀に見えた。
「確かに、亀っぽい」
「でしょ。
ここは、結構有名みたい。観光の目玉っぽいもの」
「亀なら、行かないと。同じ、亀だもんな」
智は隣の玄武に話しかけた。
「あと、この“
文字がでかいし、目立っているし」
「そうね。観光のポイントを絞って回るコースがあるみたいよね。
亀石とかの石造物を巡るコース、大化の改新ゆかりの地を巡るコースに、万葉を巡るやつ。そんな感じかな」
「……。 大化の改新って、何でしたっけ?」
「
妃美はマップをひっくり返した。裏には観光名所のピックアップとその説明が書かれていた。
「これかな」
妃美は“
「えっと、蘇我氏は4代にわたって、政権を握っていた。蘇我氏から権力を朝廷に取り戻すために、中大兄皇子、中臣鎌足らは蘇我入鹿を暗殺した。
えっと、おつ、み、のへん? これ、なんて読むんだろう」
妃美が指差した所には“
「ま、いっか。で、そのおつみのへんってのが、大化の改新らしいわよ。
で、この、でん、あすか、いたがい、みや、あと? で、入鹿は殺されたんだって」
「ああ、そういえば、そんなのあったような気がします。
……。 蘇我、中臣、か……」
「どうかした?」
「いえ。なんか胸に引っかかるっていうか、ちょっと気になっただけです」
智は隣の玄武を見つめた。
食事が運ばれてきた。二人はマップを片付けた。
一礼してさがろうとした、ウェイトレスを妃美は呼び止めた。
「あの、ここから高松塚古墳って近そうなんですけど、歩いて行ける距離ですか?」
「はい。歩いても5分、10分はかからないと思います。
結構な坂ですけどね」
関西弁の優しいイントネーションで答えてくれた。
妃美は智に視線を向けた。
「あの、そんなにすごい坂ですか?」
智が尋ねた。
「だらだらと続くだけで、そんなに急な坂じゃないですよ。
大丈夫と思いますよ。お若いんやから」
ウィトレスは微笑んだ。
智はひとつ咳ばらいをした。
「そうですか……。他に、交通手段ってなにかありますか」
「はい、かめバスもありますし、レンタサイクルも。
MICHIMOでもいいかも。レンタカーなんですけど、電気自動車なんです」
「レンタカーなんですね。
妃美さん。免許あります?」
妃美は左右に首を振った。
「じゃ、だめですね。
あの、かめバスってなんですか」
「明日香村の周遊バスです。飛鳥駅と橿原神宮前駅を回っとるんです。観光の名所の近くにバス停があるから、便利ですよ。
でも、1時間に1本しか出ないんで、それがちょっとなんですけどね。
そうそう、バスの時刻表は、インターネットに出てるから、すぐに調べられますよ」
「そうですか。ありがとうございます」
「いえ。ごゆっくりどうぞ」
ウェイトレスはそう言って、奥に戻った。
「どうする? 智君、体調悪いみたいだし、バスにした方がいいかもね」
「今は、大丈夫なんですけどね。さっきのは喘息とは違うし」
「でも、まだちょっと顔色悪いもん」
「そうっすか。ホントになんともないんですけど」
智はスマートフォンを取り出し、検索し始めた。
「あ。13時55分に飛鳥駅を出るバスがあります。これ、ちょうど良いかもしれないですね。
せっかくだし、かめバスで行きましょうか。
亀だし」
智はまた、玄武を見て微笑んだ。
妃美は腕時計を確認した。
「そうね。そうしましょう。
そのあと、亀石ね」
妃美はそう言って、ランチのサラダを食べ始めた。
かめバスは、ごく普通のバスだった。
智と妃美は高松塚のバス停に降り立った。
「結構な坂だったわよね。バスに乗っていたから、あっという間だったけど、歩いていたら、やっぱり大変だたかもね」
智は苦笑いをしながら、うなずいた。
高松塚古墳は“飛鳥歴史公園”内にある。
公園は広大で見晴らしが良かった。芝生が一面に生い茂っているが、冬の寒さでくすんだような黄緑色をしていた。
二人はしばらく歩道を歩いたが、古墳らしきものは、なかなか見えてこなかった。
「あの坂を登ったところかな。結構広いし、迷っちゃうわね」
妃美はマップと景色を見合わせた。
公園内も坂が続いている。さっきまで歩いていた歩道が眼下に見下ろせるようになった。
智は立ち止まり、ふーっと大きく息を吐いた。
「大丈夫?」
「大丈夫です。ホントに心配かけてすみません。
さっ、行きましょう」
智は先立って歩き出した。
何回目かのカーブを曲がったところで、木の枝や葉っぱの塊が見えてきた。それが四神を形作ったオブジェであることは、説明が書いてある案内板をみるまではわからなかった。
“花*四神”
それが、オブジェの名前だった。
子供くらいの大きさ。もちろん4つ作られている。
「これ、四神なんですよね。なんか微妙ですね」
智は首を傾げた。
「そうよね。ちょっとわかりずらいわよね。
あ、あれが、朱雀よね。きっと。
なんか、空飛ぶ、恐竜みたいだけど」
二人とも妃美の隣にいる朱雀と見比べてしまった。
「それでも朱雀ってわかりますよね。
青龍はあれで、白虎はこっちでしょ」
智はオブジェを指差しながら言った。
「残っているあのオブジェ、あれ、なんなんだか、わからなくないですか?
でも、他の3つが確定しているんだから、あれは玄武でしょう。
結局、玄武は消去法じゃないとわからないって事ですよね」
「そうよね。玄武って、わかりずらいかも。
じゃあさ、智君って、これが玄武って、どうしてわかったの」
妃美は智の隣に浮かんでいる玄武を指差した。
「智君、歴史に興味なかったって言っていたじゃない。四神とか知らなかったでしょ」
「ゲームです。スマホの。高校生になってスマホ買ってもらったんですけど、それからゲームやり始めて。
妃美さんはパズドラってやっています?」
「ううん。聞いた事はあるけど、やったことはないわ」
智はスマートフォンを操作して、妃美に画面を見せた。
「こんな風にいろんなモンスターがいて、これを集めるんですよ。
その中に、四神ってのがあって……、これが玄武です。
最初はまったくスルーしていたんですけど、よく見たら、玄武って亀と蛇じゃないですか。これに気が付いた時、びっくりですよ。
亀と蛇って言ったら、カービィじゃないかって。
それで、玄武っての調べたんです。そしたらカービィにそっくりな絵があって。それで、カービィは玄武なんだって思ったんです。
その後も、色々調べようとは思ったんですけど、文字を読んでいると眠くなっちゃうし、意味わかんないし、途中で挫折してしまいました。結局よくわからないままなんです。
ま、カービィはカービィだって、自己完結しましたね」
「なんか、らしい」
妃美はくすくすと笑った。
「妃美さんは?
妃美さんはどうして朱雀ってわかったんですか」
「教科書に出ていたのよ。学校はあんまり行かなかったけど、教科書は時々見ていたの。歴史の教科書にでていたのよ」
二人は、まだ続いている坂を、再び昇り始めた。ほどなく、お椀をひっくり返したような土山が見えてきた。
「もしかして、これが古墳ですか。
なんか、古墳ってインパクトに欠けるかもしれないですよね。ただの盛り土に見えてしまいますもん」
「確かにね」妃美は小さくうなずいた。
坂を登り切った所に、コンクリート造りの小さな建物が見えた。
“高松塚古墳壁画館”
高松塚古墳から出土された壁画の複写が展示されている。
二人は中に入って、見学することにした。
中はしんと静まりかえっていた。歩く音にも気を使う。小さな展示室には、一組の観光客がいるだけだった。
壁画の複写は、やはりガラスケースの中に展示されていた。
智と妃美は思わず、玄武と朱雀に目を向けた。キトラ古墳の壁画の前で、二匹が変わったことを思い出したのだ。
玄武も朱雀も、何の変りはない。静かに浮かんでいる。
「ここは、大丈夫みたいですね」
智の言葉に、妃美はうなずいた。二人はゆっくりとガラスケースの前に、進み出た。
複製は精巧にできていた。消えかけたような感じも、細かく再現されていた。
「朱雀がいないですよ」
智は上下左右に体を動かしながら、朱雀を探した。
「朱雀は壊されちゃったんだって。墓泥棒が盗掘す時に壁を壊して、その時に朱雀は壊されたんだって。
ほら、ここに書いてあるわ」
「ひどい話ですね。
朱雀。かわいそうに」
智は妃美の朱雀に手をのばした。
妃美はその智の仕草を、穏やかな目で見つめた。
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