第2話 猿石とキトラ古墳

「ここかな」

妃美はスマートフォンのマップを見ながら自信なさそうに路地に入った。

 狭い道に入って、またすぐに左に曲がる。

 曲がると真正面に木々の生い茂った小山があった。

「あれ、古墳なんだって」

妃美が指差した。


欽明天皇陵きんめいてんのうりょう


「古墳って、そうと知らなければ丘とか、そんな風にしか見えないですよね」

「そうそう。明日香村で小高い山を見たら、古墳と思えっていうんだって」

「聞いたことあります。

 奈良県は地面を掘れば、遺跡とかお墓が出て来るから、開発が難しいって」

「すごいわよね。1000年以上も昔のものがポンポンでてくるんでしょ」


 二人は古墳の手前で看板を見つけた。矢印が描かれ、猿石への案内になっている。

 案内に従い、左の狭い道に入った。狭い坂道だった。

 坂道を登りきったところで、左に折れると、すぐに“吉備姫王王墓きびひめのおおきみおうぼ”の正面にでた。

 王墓は石造りの柵に囲まれている。

 二人はその柵の中を覗き込んだ。

 そこには4体の石造物が置かれていた。

「この4つの石造物を、まとめて猿石って呼んでいるんだって」

智はしゃがみ込んで石造物をじっと凝視した。

「うーん。でも、猿には見えないですよね。人? いや、河童っていうか、なんか宇宙人に見えないこともないかも」

「猿じゃないんだって。渡来人とらいじんがモデルらしいの」

妃美も智の隣にかがんだ。

「な、なんですか。それ」

突然妃美が近くになって、智は明らかに動揺した。

「飛鳥時代とかに、日本にやって来た外国人の事だって。

 中国とか朝鮮半島から来た人たちを言うらしいのよね」

「妃美さん。すごい詳しいんですね。やっぱ、歴史が好きなんですか」

智は少しづつ横にずれ、妃美と少し距離を作った。

「詳しいってほどじゃないし。うーん、好きかって言われると、よくわかんない。

 これが朱雀って知って、それでなんとなく四神の事とか壁画の事調べた程度。

 猿石も昨日ネットで調べたの。付け焼刃な知識よ」

妃美はくすっと笑った。

「でも、智君も調べたでしょ。玄武の事とか」

「俺、そういう本とか読むと、すぐ寝ちゃうんですよね。全然頭に入ってこないし。

 昔から、歴史とか地理とか苦手で、授業中は寝てばかりいましたね。年号とか、人の名前とか覚えられないし。

 覚える気がないからだって、みんなに言われましたけどね。

 そうそう、社会と体育で、高校は留年するかと思ったくらいです。

 な、カービィ」

智は玄武を見ながら笑った。

その姿を、妃美は驚いた様に見ていた。


「でも、智君、大学生なんでしょ。って事はセンター試験とか受けているんだから、賢いわよね。

私なんて、問題の意味すらわからないんだから。試験を受けるだけでも、すごいって思うわ」

「俺、理数系は好きなんだけど、その他は全くダメダメなんですよ。

 だから試験はマジで大変でした」

「じゃあ、理数系の大学なんだ」

「あっ。理工学部です」

「どこの大学?」

「T大です」

日本でトップクラスの大学。

 妃美はガバッと立ち上がった。

「うわっ」

智は妃美の突然の動きにびっくりして、しりもちをついた。

 智はお尻の砂を払いながら、立ちあがった。

 妃美は智の正面に立ち、まっすぐに智の顔を見つめた。

(でた。魔性の目)

智はパッと視線を逸らせた。

「私。T大の人と話すの、初めて。

 生で見たのも初めてかもしれない」

妃美は智から目を離さなかった。

「ねぇ。眼鏡かけていないの?」

「な、なんすか。それ。俺、視力いいですもん。眼鏡、必要ないですよ」

「だって、T大生って、眼鏡ってイメージだよね」

「それ、思い込みです」


 智は妃美の視線から逃れようと、目をきょろきょろと、忙しく動かした。ふと、腕時計に目をやり、時間を見た。

「あっ。妃美さん。時間。バスの時間」

バスの時間が迫っていた。二人は歩いてきた道を、今度は必死で走った。

「ちょっと、ゆっくりしすぎたかしら。

 それとも、あの時間で、猿石見に行こうって、無茶だったかな」

妃美の問いかけに、智は返事をする余裕すらなかった。

 智は必死で妃美の後を追ったが、全く追いつけなかった。


 飛鳥駅が見えてきた。バスターミナルにバスが停まっているのも確認できた。

「よかった。間に合いそう」

妃美が後ろを向いて、声をかけた。

 智は立ち止まってしまった。両膝に手をつき、肩で息をした。ゼイゼイという呼吸音と共に、激しい咳が出てきた。

「やだ。大丈夫?」

妃美が駆け寄って来た。

「だ、大丈夫です」

はあはあと、息を切らしながら答える。

「すみませんでした。バス。行きましょう」

智は背を伸ばして、歩き始めた。

 妃美は駆け足で先を行き、「乗りまーす」と、バスに手を振りながら叫んだ。


 最後にバスに駆け込んだ二人は、一番後ろの席に座った。

 妃美も息を切らせていたが、智の咳はますます激しくなった。

 智はリュックからL字型の小さな円柱状の物を取り出した。それを2回振り、青いキャップを外した。キャップを外した先を自分の口の前に掲げ、上にあるボンベを押した。「プシュッ」と音がして、白い霧が発射された。それを一気に吸い込み息を止める。それをもう一度繰り返した。

 智は一連の動作を、慣れた手つきで終わらせた。妃美はそれをじっと見つめていた。

「智君って。もしかして、喘息?」

「あっ。はい。そうなんです」

そう言うと、強く咳ばらいをした。

「走ったのが、やばかった?」

「いえ。それだけじゃないと思います。

 普段なら、これくらいで発作は出ないんですけど。

 今日、寒かったから、冷気が喉を直撃した感じだし。

 あと、昨日まで試験で、寝不足が続いていたんですよ。ストレスもあったし、色々重なったんだと思います」

「やっぱり、T大の試験って、大変なのね」

「いやいや。試験が大変なのは、うちの大学だけじゃないですよ。

 T大とか、関係なくないですか」

智は咳払いに続いて、咳き込んだ。

「あぁ。しゃべらせてごめん。ゆっくり休んで」

妃美は智の背中をさすってみた。


 バスは坂道を登り、どんどん山の中ん入っていく。

「結構、急な坂道ね。確かに、この坂。無理だったかも」

妃美に言われ、智は苦笑いをするしかなかった。


 キトラ古墳の壁画は、“四神の館”に展示されている。体感型施設としてオープンして間もない。

 キトラ古墳の壁画が公開されているばかりではない。歴史を学ぶこともできるし、ものづくりの体験コーナーもある。

 そして、壁画や出土物の保存と管理という、重要な役目もある。


 キトラ古墳に到着。

 その時には、智の咳も治まっていた。

 二人は受付を済ませ、展示場のある2階にあがった。

 2階のフロアでは、すでに先に受付を済ませた20人程の人が集まっていた。係員の案内で、4列に並んでいた。ざわざわとして、落ち着きがなかった。

 その中で、ひときわ大きな関西弁の、女性の話し声が聞こえていた。

「大阪のおばちゃんって感じ? 元気いいわね」

「そうですね。

 でも、たくさんいるんですね。壁画を見たいって人。

 って見に来ている、俺が言うのもなんですけど」

智は背伸びをして、前の列を見た。

「俺たち、若い方ですかね。でも、いろんな年齢層がいますね」

「そうね。この景色見ると、歴史に興味がある人って、いっぱいいるんだって、改めて思うわね」

「そうだけど、今ひとつ、俺にはその歴史への興味って、分からないんですよね。

こう言っちゃなんですけど、古墳ってお墓なんですよね。死んだ人が入ってたんですよね。

怖くないですか?

お墓見て、面白いんですか」

「そう言われると、そうねって思うけど」

「ですよね。

だいたい、誰が埋葬されていたのか分からないってのも、なんか、不気味だし」

「そうね。誰のお墓なんだろう」

妃美はパンフレットを見たり、スマートフォンで検索したりした。

「天武天皇の子供らしいって」

「天武天皇ですか。

よく、分からないですけど」

「そうね」

妃美はクスクスと笑った。


「カービィ。お前。知っているか?」

そう言って、隣を向くと、今度は大きな声が出てしまった。

「どうした?」

「えっ?」

妃美に驚かれ、智は慌てて伸ばした手で、自分の口を押えた。そして目だけきょろきょろと周りを見回した。

「すみません。思わず、大きな声が出てしまいました」

今度は、妃美にだけ聞こえる程度の声で話かけた。

「カービィがいつもと違うんですよ。

 あれ、朱雀もそうですね」

「えっ?」

妃美も朱雀に目を向けた。

「何か違う? 私、よくわからないけど」

「はい。なんて言ったらいいんだろう。生きいきしているって、そんな感じですかね。

 朱雀は炎の量が多いっていうか、光が強い感じがしませんか」

「……。 智君って、四神の事、よく見ているのね。私、よくわからない」

「こんなにそばにいて、いつも一緒なのに、ですか?」

「だって、私この鳥の事、そんなに見ないし。これって鏡にも映らないし。

 目に入れば仕方ないけど、自分から見る事もないし。そばにいるって、すっかり忘れてしまうこともある位だもん」

(そういえば、妃美さん。朱雀を見る眼、冷たい気がする。そう、言葉も)


「お待たせしました」

係員の言葉が響いた。入場を待つ人のざわめきが、ピタッと止まった。皆の視線は、前にいる係員に集まった。

 係員からは、見学時の注意事項が説明された。

 説明を聞いている時、智達の後方の扉が開いた。

 智は背中に風を感じた。圧迫感という感覚にも思えた。智は振り向いた。

 展示室の中からぞろぞろと人が出て来るところだった。見学の終わった人達だ。

(気のせいか……)

一瞬の出来事で、もう風は吹いてこない。智は正面に向き直り、引き続き説明を聞いた。


 係員の説明が終わったあと、しばらくその場で待たされた。

 係員が腕時計を覗き込む。

「では、順番にお入りください」

頑丈な造りの扉が、恭しく開かれた。

 整列していた見学者は、速足で中に流れ込んだ。走らないようにと注意を受けたばかりである。走る人はいなかったかが、みな気持ちだけは走っていた。


 展示室は壁も床も灰色だった。なんの装飾もない。狭くて、無味乾燥な室内だった。

(なんか、圧迫感がある)

智はこの部屋の空気に威圧されているように感じた。足を踏み入れるのに、決心が必要な気がした。


 その瞬間。智の目の前の景色が一変した。

 広大な平原。猫柳の様な茶色の草。遠くに、木々の生い茂る丘。

 その丘から、風が吹き降りてくる。風は金色に光り、智の頬を撫でていった。


「どうぞ、進んで下さい」

係りの人に促された。

 その声で智の目の前の景色は、元に戻った。

 頬の風の感触が残っている。確かに風は吹いていた。

「どうしたの?」

「あっ。な、なんでもないです」

智は横を向いた。玄武の姿を見て、うなずいた。

「行きましょう」

智は意を決して、玄武の展示されているガラスケースに向かった。


 玄武の展示されているガラスケースの前には、人だかりができていた。

 二人は列の最後に並んだ。少しずつ人の波が動く。ゆっくりと、玄武が近づきてきた。

 そして、ようやく玄武の前に辿り着いた。


 智と妃美はガラスケースの前に置かれている、足台にあがった。

 1400年も昔に描かれた、玄武の絵が、目の前にあった。

 薄くはぎとられた壁に、うっすらと映し出されている玄武。

 首の長い亀。それに巻き付いている蛇。二匹は顔を突き合わせている。


 智は目を話すことができなかった。長い時間、瞬きせずに、じぃっと玄武の絵を見つめた。

(? 目が。玄武と目が合った?)

智はパチパチと瞼をしぱたかせた。

 壁画の玄武の瞳が動いた。智に視線が向いている。

(なんで。絵が。

 あっ。カービィだ。カービィを見ているんだ)

智は隣の玄武に目を向けた。

 玄武もまた、壁画の玄武を見つめていた。二匹の玄武は、見つめあっていた。


「妃美さん」

智は右側にいる妃美に声をかけた。

 妃美は泣いていた。壁画を見つめているその目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちていた。

「妃美さん……」

もう一度智が名を呼んだ時、人の波が押し寄せてきた。妃美は押されるようにして、智にぶつかってきた。

「ああ。ごめんな」

中年の女性が謝ってきた。

「いえ」

智は頭をさげた。妃美の肩を支えて、足台から降りた。


 智は妃美の肩を抱いたまま、部屋の隅に移動した。そしてリュックの中を探って、ハンカチを取り出し、妃美に差し出した。

「えっ?」

ハンカチを渡され、妃美は驚いている。

「あっ。いや、その、泣いているから……」

智にそう言われ、妃美は自分が涙を流していることに気が付いた。指で頬に触れた。その指先は濡れていた。

「あれ。なんで」

そう言って、戸惑いながら智のハンカチを受け取った。

「ありがとう」

妃美は頬にハンカチを当てた。

「なんか、懐かしいような、そんな感じがしたの。

 なんなのか、わからないんだけど」

1回ぐすっと、鼻をすすった。

「もう1回見てきましょう」

智は妃美の手を引っ張って、展示ケースに向かった。

 二人は残りの時間、玄武だけを見ていた。


 10分間の見学時間はあっという間だった。

 智と妃美は屋外に出た。外の空気は澄み切っていた。りんと涼やかな風が吹いてきた。

 妃美は大きく何回も深呼吸をした。智も隣で、思い切り空気を吸い込んだ。

(思い切り空気が吸える。やっと、呼吸ができる気がする)


 二人は休憩室でペットボトルのお茶を買った。

 休憩室は満席で、座ることができなかった。お茶を持って、外でベンチに腰かけた。

 陽が高く昇り、暖かくなっていた。

 智はお茶を一口飲み、ホッと一息吐いた。

「妃美さん」

ゆっくりと妃美の名を呼んだ。

 妃美は顔を智に向けた。

「ここに来てから、不思議な事が多いと思いませんか。

 妃美さんも、あの壁画を見た時、懐かしいって感じたんですよね。

 俺、昔の景色が突然見えたりしているんです。飛鳥駅に着いた時とか、展示室でもあったし。

 そう、不思議な声も聞こえたんです」

「うん。

 そうね。この鳥も大きくなってたりするしね」

妃美は朱雀も見ずに指差した。

「はい。

 ……。 あの、妃美さん。

 妃美さんって、朱雀の事、嫌いですか」

「えっ?」

妃美の声が裏返った。


「何? 好きも嫌いもないでしょ。

 この鳥なんて、隣にいるだけ。それだけで、なんとも思わないわ。

 智君は好きなの?」

「えっ。そうか。そうですね。好きも嫌いもないですよね。

 うーん。でも、俺、一人っ子で、母子家庭だったから、家では一人でいる事が多かったんですよ。だから、カービィ相手に遊んでいたんですよね」

「これと遊ぶ?」

妃美は信じられないと言わんばかりの表情。

「まさか、玄武の事、かわいいとか思っている?

 ……。 思っているわよね。カービィなんてかわいい名前、付けているくらいなんだもの。

 ぶっちゃけ、私には不気味にしか見えないけど」

「そうですよね。そう言われたら、否定できないですよ」

智は苦笑した。

「じゃ、朱雀の事、綺麗とか思います?」

「別に。なんとも、思わないわね。

 この鳥への感情って、そうね。いなかったらいいのにって、事かしら。

 この鳥のせいで、私の人生狂ったって思っているから」

「そう、ですよね」

智は悲しそうな妃美を見て、胸が痛くなった。

「俺も、どうして俺だけにこんな亀と蛇がくっついているんだろうって、悩んだこともあります」

智はそう言いながらも、優しい瞳で玄武を見つめた。

「俺、小さい頃、カービィはみんなにも見えているって、思っていたんですよ。だから、カービィの事、普通に周りの人にも話していたんですよね。 

 そしたら、病院に連れていかれました。今、思えば精神科に受診していたんでしょうね。幻視とか幻聴だろうって、思われたみたいで。

 そのせいだと思うんですけど、両親の喧嘩が増えたんですよ。

 おれが亀だの蛇だの言っているのは、誰の責任だとか。

 で、結局、離婚してしまったんです。

 それで、俺達は長野に引っ越したんです。母親の実家なんです。

 その時になって、やっと気が付いたんです。カービィの事は誰にも話してはいけないんじゃないかって。

 だからそれ以来、カービィの事は誰にも話してはいません。

 母親は俺の幻視は、治ったって思っているみたいですよ」


 妃美は智の話を、厳しい顔で聞いていた。そして伏し目がちのまま、智に話しかけた。

「それって、何歳くらいの時の話なの?」

「俺が引っ越したのが5歳の時なんで、その年ですね」

「そっか。

 やっぱり智君って、小さい頃から賢かったのね。

 私なんて、小学生になっても、まだ、鳥の事、人に話していたらしいの」

「なんか、人の事みたいに話すんですね」

「そうね。あんまり、覚えていないの。

 私、養護施設で育ったんだけど。そこの相談員さんに、聞いたの。私が施設を出る時に。みんな。

 私は家に閉じ込められていたんだって。

 うーん。病院に連れていかれた方が、まだいいのかなって思っちゃう。

 父はね、私がおかしなことばかり言うからって、母を責めたんだって。

 それに母と私に暴力をふるっていたんだって。

 そして、母が自殺してしまった」

智の動きが止まった。目も見開かれたまま。

 妃美の瞳は、何の感情も示してはいなかった。智は妃美の瞳から、目を話すことができなくなった。

「それでも私は、鳥の事言い続けいたらしいのよね。

 私は学校にも行かないし、父から虐待受けていたし、3年生の時に、施設に保護されたの。

 その時、この明日香村から離れたことになるわね。

 私の記憶があるのは、施設からなの。そこが人生の始まりって感じ。

 施設に入ってから、私は鳥の事は言っちゃいけないんだって、思っていた。だから、それからは話していないわ。

 でも、なかなか他人にはなじめなくって、学校もあんまり行かなくって。

 で、結局高校卒業して、奈良県飛び出して、一人で生きてきたの。

 今は北海道で、ホステスしているんだ。

 えっ? やだ。なに泣いているのよ」

智の目からは涙が落ちていた。

「いや、だって……」

智は次の言葉が出てこなかった。

「ありがと。

 なんか、うれしいな。

 今まで、私の気持ち、わかる人いなかったじゃない。同じ立場じゃなきゃ、わからないわよね。

 でもね、私は自分の子供の頃の事思い出せないから、なんか他人事みたいなのよね。だから、そんなに辛いわけじゃないの。

 母の事も、父の事も覚えていないし。

 さっきも言ったけど、この鳥がいなかったら、もっと違う人生だったかなとは、思っちゃうわよね。でも、いなくたって、虐待うける子もいたし、親に捨てられた子もいる。

 そんなに、変わらないのかもしれないわね。

 この鳥のせいばかりにしてちゃ、いけないかなって、思っているんだけどね」

「俺も、カービィがいなかったら、両親は離婚しなかったかなって、思っていたけど。でも、その前からそんなに仲の良い夫婦じゃなかったらしいし。

 カービィがいてもいなくても、結果は同じだったかもしれないですよね」

智は手の甲で涙を拭いた。

「私、思い切って、ここに来てよかった。

 北海道から、わざわざ明日香村に来て、何にもなかったら悲しいなって、思っていたんだ。

 それに、ここには良い思い出ないし。結構、勇気が必要だったのよ。

 でも、智君に出会えただけでも、来てよかったって思う」

妃美は潤んだ目をして、智に微笑みかけた。

 泣いていた智に目と鼻が赤くなっていたが、この一言で、顔全体が真っ赤に染まった。




 

 

 



 


 


 




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