第35話 『Fluttering Phosphoroses』

 随分と長くかかっちまった。一月も立たず術を習得したのは良かったものの、俺自身が耐えられなくては意味が無い。破力を一定量生産しながら、長時間維持し続けるのは想像以上に困難だ。

 何度も“堕ちかけた”が、それでも一日を耐えるだけの持続時間は手に入れた。これなら天の咢を登り切ることが出来るだろう。


「舞燐の日は、年に一度、ここ煌霧の森の中心にある湖を利用して魔力を噴き出させる日なの。太陽と月が半分ずつ顔を出して、それに照らされた湖が反応して地中の魔力を吸い上げる。この森の周囲を覆う【幻森淵白鳳霧パラノイドミスト】を再放出させるためのね」


 エヴリーヌが言う【幻森淵白鳳霧パラノイドミスト】とは、煌霧の森を護る幻影型の結界だ。


 ・侵入した者に自分が思う中で最も恐ろしいものを見せつける視界幻覚。

 ・無意識の内に森の外へと操り追い出す行動支配。

 ・煌霧の森に関わる記憶を全て消去する記憶操作。


 以上三つの術を複合させた魔法である。


 外部の者が森へと入る際には、門番と呼ばれる者を伴う必要がある。それ以外ではほんの一部の者しか知らない複雑な道筋を辿れば入ることが可能だ。

 因みに俺達が最初ここへ来た際は破力を利用して霧を破壊しながら侵入した。そのせいで霧の効果が弱まったとかで森人族達を右往左往させてしまったが。たまたま霧の中で生態調査を行っていたエヴリーヌに出会わなければ、もっと酷い事になっていたかもしれない。


「太陽と月……ですか?」


 湯の中でも正座を崩さないアリンが首を傾げた。ここは【幻森淵白鳳霧パラノイドミスト】の中にあるお偉いさん方御用達の秘湯。ひのきではないが、香木によって囲いを作られた大きな風呂釜。足を延ばしてもゆうに十人近くは入れる広さがある。霧のせいで遠くの景色を見ながら、とはいかないが、それでも大自然の中の湯というものはなかなか贅沢だ。


「ご存知の通り、魔力とはどの人も持ち合わせているものです。しかし、基本は同じではありますが、人それぞれ発する性質が微妙に異なっています。それが各種族の特性として表れている訳ですね。術ごとに扱い易さ、同量の魔力でも威力や効果に差異が生じるのはこの為です。これは自然界でも同じ事が言えます。人とは違って必ずしも魔力を持っている訳ではありませんが、水が持つ魔力の性質。火の性質、土の性質、鉱石の性質等々それぞれ内包する魔力は多種多様。この性質を上手く組み合わせる事によって、相乗効果により術の効果を高める事が可能です。舞燐の日が年に一度なのは、太陽と月の魔力が丁度釣り合う日が年に一度だから」


「なるほど。では舞燐とは、太陽と月、両方が自然と放出している魔力の性質を利用した魔法術式、ということですね。でも、魔法紋はどこに? 僕も湖は見ましたけど、それらしきものはどこにもありませんでしたが」


 エヴリーヌの独自魔法学を真面目に聞いているのはヴァンとアリンの二人。ティアは湯に美肌効果があるらしいとエヴリーヌから聞いて熱さに耐えながらじっと我慢しており、それを勝負と取ったヤイヴァは剣へと変化して湯に入る意味を無くし、スコールはのぼせて冷たい岩場に体を預けている。


「いい所に気が付いたわねヴァンちゃんっ」


 さあここで問題ですと指を立てるエヴリーヌ。知識はあるがこれと言った地位は無い彼女が何故ここにいるのか。おそらく【幻森淵白鳳霧パラノイドミスト】の抜け道を知っており、かつティアに仕返しをするためだ。弱塩基性と思われるこの湯は確かに美肌効果があるだろうが、長湯すれば肌が荒れる。

 エヴリーヌは学者を名乗っている。持ち得た知識は全て独学、独力で入手したものであり、それは彼女の生存能力、知力の高さを表している。冒険者としても当然、何不自由問題なく生存できる知識があり、俺達アスタリスクも学ばされる部分は多々あった。


「ヴァンちゃんの言う通り、魔法を発動させるにはそれに見合う条件が必要です。人が作り出した魔法陣。もしくは物体に刻まれた魔法紋。陣、紋には魔法式が組み込んであり、決められた量の魔力を流し込む事によって発動します。当然、舞燐を発動させる為の魔法紋が存在する訳ですが、それは一体何処にあって、何が紋の役割を果たしているのでしょうか?」


 その問題は超機密事項だ。歴代の森王しか知らないはず。独自調査して見つけ出したんだろうな。俺もそれが何なのかは薄っすら考えが及んでいたが、エヴリーヌの“何が紋の役割を”でほぼ特定した。


「水」


 いつの間にか起き上がっていたスコールの言葉にエヴリーヌがぎくりと反応した。スコールはただ単に喉が渇いて備え付けの小川の水を汲取って溜める瓶の水を飲みに来ただけみたいだが。まあヒントの内ではあるな。


「地下を流れる水脈……でしょうか?」


 残念。アリンはずれ。森の中心にある湖は近くの山から流れてきたもので、地下水脈とは直接繋がっていない。繋がってんのはこの温泉だ。


「ふっふふーん、ちょっと難しすぎるかな~? 私もそれを知った時は本当に驚いたわ。まさか燐光樹りんこうじゅが……おっとおっと、これは大きな手掛かりね?」


「そっか! 分かりました。燐光樹の“根”が魔法紋の役割を果たしているんですね。湖の水が根を通って全体と繋がっているんだ」


 ヴァン正解。エヴリーヌがお見事と拍手をする。そしてそこまで分かったのならもう一つの疑問点に至るはずだ。エヴリーヌがそれっぽいこと言いかけていたし。


「!」


 突如、スコールが耳を立て、周囲を探知し始めた。スコールの行動に反応したヴァン、アリン、ティアはざぱんと即座に風呂から飛び出し警戒態勢を取り、ヤイヴァが人型に戻り直ぐ俺の近くへ寄り添う。

 深淵体アビスに限らず獰猛な野生生物も跋扈する大自然。昼夜問わず襲いかかる危険に対処する判断、行動力は、この二年間で嫌と言うほど体に刻み込まれた。


「地下」


 スコールが地面を指さす。おいおい、そんなとこに深淵体アビス出んのか? モグラみてえな深淵体アビスでもいんのかね。


「あちゃ~“地下祭場”に出ちゃったか。今日まで保ってくれると思ってたのに。こりゃリオスクンドゥム様が霧を一部壊しちゃったせいね」


「地下祭場? 地下に空間があるんですか?」


「これは知らなかったかな? 舞燐は地下にある祭場で行うの。結構広い所よ。でも普段人が居ないからか時々深淵体アビスが湧いちゃって。そうならないように地下にも霧を流し込んでるんだけど、足りなくなったみたいね」


「ごめ~んちょっ(はぁと)」


 老舗菓子屋の可愛らしいマスコットフェイスで舌を出し謝罪したが、エヴリーヌには受け入れて貰えなかった。





 第35話 『Fluttering Phosphoroses』





 リュシン爺ちゃんに頼み(深淵体アビス発生の原因を作った謝罪も含めて)地下祭場に沸いた深淵体アビスの討伐を請け負った。地下へと続く道は広場にあるらしいが、今回は奇襲の為別口から潜った。

 森の彼方此方に生えている燐光樹の内一本は偽装であり、中がスカスカの張りぼてとなっていて通れるようになっている。もしもの時の森からの脱出口だ。


 太い根の上から祭場を見下ろせば、黒く気色悪い深淵体アビスが蠢いていた。


「う~~~~、この深淵体アビス共は生理的に受け付けないわね」


「うじゃうじゃ。足もじゃもじゃ」


 出現したのは十体のウルレイトセンチピード。ムカデのような多足歩行で、固い甲殻が覆う非常に防御力の高い深淵体アビスだ。体の継ぎ目のどこかに心臓部と思われる弱点あり、そこを潰さない限り倒せない。

 今の俺らなら一人でもこいつらと戦える。では誰がこの深淵体アビスと戦うか。五人がジャンケンで決めようとしたのを止め、ヴァンを前に出させる。


「俺の術で異常が出ないかどうか実験する。もし変調を起こしたらすぐ離脱だ」


「それはいいけど、どうしてヴァンなのよ?」


「戦った後に破力による効果と影響を詳しく説明して貰いたいからだ」


 戦闘を行いながら情報収集も行うのは非常に骨が折れる。常に戦場を把握しその場に適した魔法を選択するスタイルを求められるヴァンが適任だろう。


 準備はいいよと立つヴァンの後ろにヤイヴァと並ぶ。


「戦う事より、意思を強く持つ事に集中しろ。破力は諸刃の剣だ。膂力は格段に強化されるが、恐らく魔法は使えなくなる。更に精神を蝕むだろう。無理はするな」


「分かった」


 頷いたヴァンの背にヤイヴァが手を当てる。俺はヤイヴァに肩に手を当て、破力を流し込む。


「いくぞ。「【覆黒血痕イロウションスティグマ】」」


 ヤイヴァの掌より変質した破力がヴァンを覆う。紅黒色の入れ墨が、若干の苦悶を見せるヴァンの表情に妖しく浮かび上がった。


「繰り返すが、意思を強く保つ事に集中だ。目的は長時間その状態を維持する事だからな」


「分かってるって。それじゃってくるよ」


 腰から刀を抜き、喜々としながらセンチピードの群れに飛び込むヴァン。やはり好戦的になったか。破力に飲まれる前に俺が供給を止めれば収まるが、天の咢を登る為には最低一日、あの状態でいなければならない。


「シッ!」


 早速一体に斬り掛かる。センチピードの堅牢な甲殻の隙間を縫う様に一線。いや、立て続けに二線五線八線と正確に、だが乱暴に刻んでいる。


「いつものヴァンじゃない」


「動きも明らかに洗練さが欠けてるわ」


「まるでティアみてえだな」


 そしてティアとヤイヴァはお約束通り後ろで喧嘩を始める。よく飽きないもんだ。


「深淵の焔があんなに……でも、問題無さそうですね」


 センチピードは弱点以外の箇所に傷が入ると、そこから深淵の焔を噴出させる。切断などすれば大量の焔が巻き上がる。この厄介さがコイツらをウルレイト級に押し上げているのだ。

 しかしヴァンの特殊能力、“真瞳しんどう”は弱点を見抜く。望んだ目標を捉える事に特化した眼は、高速で動き回る物体にも、魔術で秘匿されたモノですら正確に捉える。


「ふっ! せいっ! はぁ! あははは!!」


 センチピードの天敵と言ってもいい能力を持つヴァンだが、一撃で仕留めようとしない。殺すという行為。そして深淵の焔に混じる返り血を浴びる事を喜んでいる。破力を纏っていれば、深淵の焔の呪いを無効化できるとはいえ、あまりに猟奇的だ。


「……殺戮衝動に駆られていませんか?」


「大丈夫。“声ははっきりしてる”」


 特殊能力を持っているのはヴァンと、“万解ばんかい”と名付けたアリンの能力。触れた物質の性質及び状態を把握することが出来る能力だ。

 そして、どうやらスコールも特殊能力を所持している。ファンレロ夫妻の言っていた事が本当であるのなら、その能力のせいでスコールは“殺されかけた”はず。今になって発現しかけているのは……やはりウルヴの森に行かせたからだろう。


「君で最後だよ。せっかくだからゆっくり死んでけ」


 思考を中断させ再びヴァンを見れば、既に終わりを迎えている。最後のセンチピードの弱点関節は頭部に近い箇所だったようだ。ヴァンはキシキシと悲鳴をあげるセンチピードにミリミリと刀をめり込ませ、いたぶり殺した。





「……なんか、その、痛ててて。何て言ったらいいかな? 七色丸薬よりもっと強力な、痛つつっ、激薬って言葉がぴったりだよ」


 返り血を洗い流したのち、破力の供給を解き通常状態に戻ったヴァン。全身の痛みを堪えながら、貸与型破術の効果を解りやすく説いてくれた。


 ・膂力は通常時の三倍〜四倍。

 ・深淵の焔の無効化

 ・痛みに対する抵抗力が上がり、攻撃を受けると高揚する。

 ・常に暴力的な思考が過り、敵に対する殺意が増大。

 ・相手を殺すと殺意は更に増す。

 ・破力供給中は常に全身に痛みが走り、戦闘後は更に酷く痛み出す。


「それに、なんか倦怠感が……ふぅ」


 ヤイヴァに支えて貰いながら水を飲むヴァンだが、それすらも億劫そうだ。


「これを丸一日持続させるって訳ね」


「登った後は、きっともの凄く痛いでしょうね」


「頑張る。それだけ」


 根性論は好きじゃないが、こればっかりはな。あの熱い某テニスプレーヤーのように気張ってもらうしかない。









 舞燐の儀式は夕刻に行われる。昼と夜の境界、黄昏る太陽と月が結ばれ、交差した光が煌霧の森、燐光樹に囲まれた湖へと落ちる。金と銀が入り交じり溢れる湖を燐光樹が吸い上げ、その根へと隅々まで運ばれる。


 地下祭場では里に住む森人族全員が集う。中央にある円形の大きな台座は祭壇であり、幾つもの円が折り重なるかのような紋様の描かれている。囲うように大小七つの琴が並べられ、祭壇上に七人の化粧をした巫女が待機していた。


「燐光樹はずっとずっと大昔、千年以上も前にこの地にやって来た、私達の先祖が持っていた一つの苗を育てたものなの」


「ひとつ……地上に生えている燐光樹の木々は、全て一つなんですね」


「そう。更に付け加えると、燐光樹が光ってるのは魔力の性質によるものよ。燐光樹が、この森の太陽と月の代わりって言うと分かりやすいかしら」


 祭壇を見下ろすことが出来る段座で下座に座るヴァンとエヴリーヌが、今日の儀式の内容の細かな点について語り合っている。スコール、ティア、ヤイヴァは花より団子と目の前に並ぶ前菜を食い尽くし、アリンは落ち着かないからと他の森人族の手伝いをしていた。





「リオよ。その翼を模した首飾り。それは遠き昔より先祖代々受け継がれてきたものである。なぜ翼なのか。その由縁は、大昔の我々が翼を持った一族であったかららしい」


 上座に座るのは俺と森王のリュシン爺ちゃんだけ。爺ちゃんの跡取り娘達、つまり俺のお袋の妹達は巫女役だ。台座に立つ二人は俺と目が合い、静かに頭を下げた。


「我々の先祖はこの地へ追いやられた。その首飾りは我々森人族の望郷の表れであり……いや、未練なのかも知れんな」


「だとしたら、森人族ってのは……」


「……リオの想像している通りであろうの。だが我々は魔人族とこうして手を取り合った。人は皆、分かり合えるのだ。リオという素晴らしき存在がそれを証明している。だからこそ、気になるのだ。“彼ら”が何故戦争を起こしたのか。退っ引きならない事情があったのかもしれぬが、犠牲を出してまでも奪う必要があったのだろうか」


 燐光樹の根から雫が一つ、また一つと垂れる。煌めく雫は描かれた紋を伝い、金色の、もしくは銀色の線となって祭壇を駆ける。

 巫女達が両手を広げ、ゆっくりと舞いだした。ひらひらと揺れる純白の礼装、一つの動作を行う度に腕や首、足腰につけられた金の飾りがチリンと鳴り、琴の調べが巫女を纏い、合わせて魔術が発動する。


「!!」


 スコールが食事を中断し、顔を勢いよく上げ、耳をピンと立たせた。地下から湧き上がる魔力を感じ取ったのだろう。

 やがて祭壇の周囲に虹色の輝く線が出現する。夥しい数の光の千は折り重なり、液体のように波打ち、巫女達の動きに合わせて立ち上る。

 魔力の帯を燐光樹の根が吸い上げ、幹を伝い葉へと送られる。地下からでは分からないが、今頃大量の魔法霧が散布されているはず。この霧が民家が並ぶ里から離れ、森一帯を覆い安定するまでに一晩掛かる。地下に森人族が全員集まっているのはこの為だ。


「この舞燐も、元は彼らの行っていた儀式。神への感謝として、そして“神へと力を送り込む”為に皆が舞っていた」


 この世界には神を名乗る存在がいる。抽象的なものでなく、実在するのだと主張している。まったく身勝手な連中だ。


 だがその神とやらのおかげで俺は此処にいる訳だ。たっぷりと礼をしねぇとな。


「リオや。彼の地はとうの昔に彼らに支配された。神は魔人族が存在することを許しはしないだろう。先祖の話によれば、他の種族も強い迫害を受けているとの事だ。心して……」


 そこでリュシン爺ちゃんは話を区切った。どうしたと先を促すが、余計な事だったと苦笑いしながらかぶりを振った。

 どうやら儀式は終わったらしい。お袋の妹達が俺を手招いている。一緒に舞おうということだろう。祭壇に上がれるのは選ばれた巫女だけの筈だが、俺は特別と言う事か。

 踊りなんぞフォークダンスぐらいしか経験が無いが、たまにはこういうのもいいか。









 壇上で七人の巫女に囲まれる王子。彼がそこに佇むだけで、人々はその美しさに見とれる。


 琴が一音を響かせる。その音を始まりとし、燐光樹の根から落ちる光が照らす中、王子は舞う。


 強烈でいて、鮮烈でいて、威烈な紅き髪が踊る。妖艶、魅惑、異彩。赤い太陽と青い月が折り重なり生まれた紫の瞳は悦びを零す。


 いつしか巫女達は引き立て役として、舞う王子を穢さぬようにと身を低くする。琴は次第に王子の流れに狂わされ、飲まれ、彼の為だけの音となる。


「茨の道、先に待つのは恐怖のみ。だが躊躇いなど無く踏み入り堂々と歩む。その姿だけならば、まさしく王族」


 徐々に舞いは激しくなる。彼の大きさが、彼の欲望が彼女らの器を超え、溢れる。


「だがその表情は苦難を砕く賢者では無く、恐怖へと挑むもののふでは無く、民の想いを背負った勇士でも無い」


 リュシアンは背筋を震わせた。リオが放つ威光は、余りにも異質であったからだ。


 リオスクンドゥムとは新たな太陽。その輝きと温もりは、しかし甘い罠。

 世の全てを照らし、世の全てを呼び寄せ、そして世の全てを喰らう。自らの埋まらぬ欲望を満たす為に。

 その果て無き心は、神に何を望んでいるのか。リュシアンからの警告を吉報とでも言いたげに、歪んだ微笑みを浮かべる王子は、一体何を目指しているのか。


「……悪魔王子、か」









 翌日。半年前に来たときより濃くなった霧を抜けた時、そこにエヴリーヌが立っていた。わざわざ見送りに来たようだ。


「今日まで世話になったな」


「私は別に貴方達アスタリスクへの好奇心であれこれやってただけだから」


 謙遜しているが、エヴリーヌの世界を練り歩き培った経験、体験談は俺達にとって非常に役立つものであった。だからこそ冒険心がくすぐられ、さっさと出発したかった思いもある。リュシン爺ちゃんも結構しつこかったしな。


「ところでさ……ホントにあの天の咢を超えるつもりなの?」


 今更何を言いたくなるエヴリーヌの言葉は、問いかけではなく確認だろう。俺達の沈黙を肯定と受け取り、エヴリーヌは聞いてと前置きをし、語り始めた。


「私も天の咢の向こう側を見てみたくて色々と情報を集めてたのよ。ただあまりにも、意図を感じるほどに向こう側の情報は無かった」


 向こう側とこちら側。もう向こう側を知る者は、いや、向こう側にも世界があるということすら知らないだろう。天の咢という、あまりにも巨大な壁に遮られ幾数千年。長く時が経ちすぎた。


「みんな……忘れようとしているわ。あの向こう側の世界を。魔人族の方達ですら、知っているのはほんの数人。私達なんか“名前まで変わってしまった”」


 エヴリーヌはどこでそれを知ったのか。悔しげに顔を歪める彼女にティアがどうしたのよと聞けば、小さく笑い俺達を見渡した。


「私は研究者だからね。真実を歪めたり、隠蔽したりされるのが死ぬほど嫌いなの。だから、あなた達アスタリスクが真実を見せてくれる事を期待して、投資させて貰うわ」


 ヴァンちゃんおいでと手招き、訝しげながらも近寄ったヴァンの胸元にエヴリーヌが手を置いた。


「さーてさて……やっぱりね。そんな気がしてたのよ」


 何が。と問う前にエヴリーヌが魔法陣を出現させ、術を発動させる。ほんの少し光っただけで、特に変わった様子はない。


「今少しだけ“刺激”したわ。効果が表れるのは多分数年後だと思うけど、きっと驚くわよ~」


「あの……僕に何をしたんですか?」


「内緒。でも必ず私に感謝する日がくると思うわ」


 意味深な言葉だけを残し、じゃあねとエヴリーヌは霧の中へと消えて行った。





 煌霧の森を抜け、ひたすら一本道を歩き続ける。もうこの道を辿るのはこれで最後にしたいものだ。


「いよいよですね」


 荷を背負い直したアリンが、木漏れ日の間から見えた岩山を見つめ呟いた。それにヴァンとスコールが頷き、ティアが気合を入れるようにふんと鼻を鳴らした。俺とヤイヴァ以外がここを通るのは初めてだ。俺はリベンジという反骨心と、いい加減にしてくれというイライラが募っているが、こいつらは未知への期待と興奮で気分が高揚している。

 やがて森を抜け、辺り一面が岩だらけの荒涼とした地帯へと入る。その真ん中に聳え立つのは、この世界で最も俺を苛立たせた存在。


「今度こそ攻略してやる」


 天の咢という巨大な壁に、再び立ち向かう。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る