第五章 冒険者編

第34話 『Earthly Star』

 ――天の咢てんのあぎと。それは天と地を結ぶ柱の様に、遥か過去より悠久の時を超え聳え立つ、黒灰色の大々岩山。遠目で観察するも、すぐ近くに存在するかのように錯覚してしまう程に極大なその山を、崇める者は誰一人としていない。

 荒削りな麓に立てば、その理由を知る事が出来るだろう。そこに広がる、不用意に山に近づいた生き物達の死屍累々の海を。天に近付き、咢に砕かれたその姿を。


 生命に死を与える“何か”。屍を踏み越え山を登り、中腹を超えたあたりで襲いかかる、形容し難い不快な現象。高い音の様にも低い音の様にも取れる強烈な耳鳴りと共に、視界が真っ赤に染まり、ものが見難くなる。

 それはその者が持つ命の力、即ち魔力を激しい痛みと共に削り取る。“断界だんかい”と呼ばれるその区域は、登れば登る程にその現象は歪み混沌とし、坂が崖へと差し掛かる場所へ到達した頃には登山者の魔力は底をつき、地に落とされる。


 それでも登り続けようものならば、そこに待っているのは死のみである――





 そこまで周知され、何千年と生命を寄せ付けず、恐怖だけを人々に植え付けたこの天の咢に挑む、一人の愚かな少年がいた。

 頭からすっぽりと全身を黒い厚手の外套で覆っており、齢は十四、五と言った所。背に身の丈もある大剣を背負い、体中に這わせた締縄から垂れ下がる先に四つの大石を括り付けた、異様な出で立ちの少年だった。

 一切の道具を付けず、身一つで崖を登る修験者と呼ばれる者達も存在するが、この少年の様に自ら重荷を増やし、更にはこの危険な山を選ぶ無茶無謀を行う者は居ないだろう。


 突風雷雨に晒され、滑らかとなった岩肌に黒い五指を突き立て、命を刈り取る音を意に介さず少年は登り続ける。

 不意に大剣が、大石が大きく揺さぶられる。登り始めてから十回目の大突風。少年はより指を深く岩へ食い込ませ止むのを待っていたが、吹き荒れる風の中には礫、と言うには少々大きすぎる、少年の頭程もある幾つもの氷の塊が混じっている。

 少年は片腕を岩から引き抜き、飛来した礫へと拳を振るい殴り砕いた。しかし、無理な姿勢が祟ってか、支えとしていた側の指先の岩肌が砕け、少年は宙へと投げ出されてしまう。

 目も眩む眼下に広がる荒々しい断崖に、だが少年は微塵も慌てることなく、大剣を手に取り遠ざかる岩山へ切っ先を向ける。


「「【我昇天破斬ライジングヘリオス】」」


 剣身より発せられた赤黒く硬質な瘴気は存在を拡大させ、天の咢へと伸びその大きく鋭い力を持って突き刺さる。


「フッ……フッ……ヴッヴヴ……」


 落下を防いだ少年は少々荒い息を吐いた。それは疲労からくるものでなく、緊張からくるものでなく、安堵からくるものでも無い。自らが発した特別な力が、少年を食い破り、解き放たれようとしている。


「駄目だリオ。時間切れだ」


 剣より聞こえた少女の声。リオと呼ばれた少年は、若干の悔しさを滲ませ、天の咢の頂きを睨みつけた。


 澱みの無い殺意が漲る瞳で。





 第34話 『Earthly Star』





 深い緑が生い茂げ、高い樹木が周囲を覆い日光を遮っているが、森の中は仄かに明るい。“燐光樹りんこうじゅ”と呼ばれる不可思議な木々が、ぼんやりと発光しているからである。

 舗装と言うほどではないが、張り巡らされた土道がここを住処とする人々がいることを示唆している。その道の一つが続く先は特別区域となっており、一部の者以外は許可無しに立ち入ることは許されない。


 幾つもの木が寄り添い合うように成長し一つの大木と見え、その根元の空間が住居として利用されている。ただし、ここに住めるのは選ばれた血筋の者のみ。

 今現在ここに寝泊まりしている少女は一時的に借用しているだけであり、しかも余所者であるが、少女は由緒ある血統を持つ竜人族の最高有力者である王、その娘である。


「……………………ぷはっ」


 なみなみと充たされた水瓶より頭を抜き、空色の髪から滴り落ちる冷水を、頭を振って払うティア。およそ女性が行うとは考えられない、大雑把な目覚まし方法ではあったが、彼女は旅に出てからほぼ毎日、似たような行為を続けていた。


「ふぅ…………よしっ」


 また思考を止めようとする肉体。両頬を数度叩き、それを阻止する。こうでもしなければ彼女は何時まで経っても目覚める事が出来ず、その度し難い怠慢を許さずとティアは意志を強く持った。

 起きたらとうに街を出発していた。或いは戦闘が終わっており、気付けばそこは仲間の背だった、などという醜態を再び晒しかねないからだ。


「居眠り姫は卒業かしら? ティア姫様」


「その姫様って呼び方、止めてって言ったじゃないエヴリーヌ」


 エヴリーヌと呼ばれた少女はそうだったかしらととぼけつつ、ティアに白い布を被せ髪と肌に残る水気を拭き取ろうとするが、ティアはエヴリーヌの手を軽く払い、乱雑に体を拭き始める。


「いつまでお姫様扱いすんのよ。もうアタシは一冒険者。アスタリスクのティアよ。あれこれ世話を焼こうとするのはやめてちょうだい」


「あなたがそう言っても世間はそう思ってくれないの。いくら竜人族の本質が自由奔放だとしてもね。血筋は一生ついてまわるわ」


「勝手に言ってなさい。誰が何と言おうとアタシはアタシ。あんた達はそうやって理想を押し付け続けてればいいわ。全部無視するから。踏み込んでくるならぶっ飛ばしてやるわ」


 胸を張り凛とした声を張るティアに、エヴリーヌはとうとう笑い声を上げた。馬鹿にしているのかとティアが睨みつけるが、そうじゃないわよと否定し、ティアから布を取り上げ腕に抱える。


「あの危なっかしくて強がりでかまってちゃんが、こんなに変わるなんてね。一体何があなたをここまで立派にさせたのかしら。やっぱり……リオスクンドゥム様の影響?」


 明らかにからかっていると分かる、エヴリーヌの楽し気な視線にティアは嘆息した。もう何度この手のやり取りをすればいいのか。それ程までにあの少年への好意が滲み出ているのかとティアは問いかけたくなった。

 だがそうすれば更なるからかいの種を蒔くことになる。学習した、というより慣れてしまって動揺が無くなったティアはエヴリーヌを無視し、森の暗がりに向かい歩き出す。


 エヴリーヌは想像と違う行動を取ったティアに慌て、真正面に回り込んで後ろ歩きをしながらティアの顔を覗き込む。じとりとした目で見つめ返すティアの表情を、エヴリーヌは呆れではなく怒りと勘違いした。


「ねえちょっと、そんなにへそ曲げないでよ。ほら、やっぱり気になるじゃない? 幼いころからの事知ってると、どうしてもその恋の行く末がさ。ね?」


 気になるのは理解出来るが、知ったところで何をしようというのか。ティアを赤子の頃より知る、見た目より何倍も年を取っているこの少女、もとい森人族の女性は自称魔法学者であり、迸る探究心から里を飛び出し、竜人族の国、岩山険しいドラゴニアまで足を運んだこともある。

 身一つでやってきた物珍しい来訪者に竜王ノートも気に入り、竜人の歴史や竜化と言った魔術の仕組みを学ぶエヴリーヌを度々王室へと招いていた。その事もありティアとはそこそこ面識があり、ティアの性格や家庭事情をよく知っていたのである。


 そんな風に彼方此方を点々と飛び回り、研究にばかりかまける彼女は男日照りであった。恋と言うには、少し年が高い。

 流石に男一人としていないのはどうなのよと一人生物の使命を思い出した彼女であったが、知識ばかりが先行し、運よく出会えた先々の男達は彼女に着いていけず、首を横に振った。

 寿命が長いなら婚期も長い。だが焦りばかりが募ってゆく。恋愛に飢えたエヴリーヌを見つめ、ティアは少しだけ反撃することにした。


「……もう老婆心を抱くような年になったの?」


 その言葉にぴしりと固まるエヴリーヌをひょいと避け、ティアは再び歩き出す。アタシなんかに構ってないでさっさといい男を見つけたら? そう追撃を加えようかとも思ったが、藪蛇になりかねないわねと、ティアは早歩きでいつもの場所に向かった。





 ――天の咢が作り出す死の空間が及ぶ範囲は、地の果て海の果てまで続くと言われている。太陽に照らされ伸びる天の咢の影がそれである。

 午前は東北東。午後は西南西。死の影は月が顔を出し再び沈んでもその場に残り続け、世界を完全に分断している。

 影の掛からない時が黄泉へと誘う力の弱る時。そう考え幾人もの冒険者、探求心に溢れたものが、時にはならず者が向こう側の地を目指し横断しようとしたが、足を踏み入れる前にその体を四散させた。


 “カオスウォール”。カオス級の深淵体アビスがそこに存在している……と世間ではうたわれているが、実際その姿を見たものは誰もいない。

 世界を跨ぐ程に大きいのか。天の咢が作り出す影の中を高速で飛び回っているのか。はたまた深淵体アビスとは別の存在があるのか。それとも川が高い所から低い所へ流れるように、世界がそういう形をしているのか。


「願わくば、その壁が壁であり続けることを祈ろう。その壁は私達を閉じ込める檻かもしれないが、もしかしたら、向こうの地にある恐ろしいものを通さない為にあるかもしれないからだ――はい、おしまい。エミールが持ってきた本は難しいお話が多いね」


「つまんなーい! ヴァンっ、次これ読んでーー!」


「こっちのほうがいいーー!」


 本を手に群がる子供達に尻込みするのは、広場に設けられた切り株の椅子に座り、早朝から朗読を続けさせられていたヴァンであった。

 いくら無類の読書好きである彼であっても、子供達が聞き取れる速さを維持し、合間合間矢次に飛び交う子供達の疑問に答えながら、はきはきと喋り続けるのは骨が折れた。

 道行く大人達もヴァンの朗読会に足を止め、じっくりと耳を傾ける姿も見られる。


 森人族は本の虫である。そのことに間違いはないと、ヴァンは改めてこの“煌霧こうむの森”に住まう森人族達の里を見渡した。


 リオ達一行、アスタリスクが旅を始め、二年の月日が経っていた。









 アスタリスクとは、同年代の子供六人で構成された冒険者達である。落ち着きのない彼らが一つの場所に長く留まることはなく、次の場所へ、次の場所へと歩みを進める。

 先々での出会いは程々ながら、掲げられた新たな刺激を求め暴れる旗頭は人々の記憶に鮮烈に残り、町から町へと伝聞し、そして世界に広がる。


 彼らの名はアスタリスク。深淵体アビスを切り裂き、悩める人々に手を差し出し、見返りを一切求めずただただ名を輝かせる冒険者達。

 彼らの通った後、誰もが彼らを口にし、その大きな夢の達成を祈った。誰もがなし得なかった、不可能と言われた天の咢を踏破を。


 だがアスタリスクが天に輝くには、幼すぎた。天に登るために必要な力が足りず、地に落とされた。


 天の咢を踏破する上で必要な力。それはリオの持つ特別な力、破力。何物にも左右されず、ありとあらゆる存在を破壊するこの力は、死の影すらも破壊する。

 天の咢を攻略する上での要であったのだが、それを扱うにリオの肉体は未熟だった。仲間と共にという彼の欲に、肉体は耐えきれなかったのだ。


 しかしリオ一人だけならば容易であろう。同じく破力を原動力とし破術として加工出来るヤイヴァが共にいるならば、更に生存率は上がる。

 しかしそれでは意味が無い。彼らは六人揃ってこそのアスタリスク。リオは仲間を保護しながらの長時間の破力の使用に耐えうるだけの肉体を得るため、食物が豊富かつ修行するに相応しい場所へ長期逗留することを決定する。つまり、リオが成長するまで旅は一時中断とし、力を蓄える事に彼らは専念することになった。


 その場所に選ばれたのは森人族の里。煌霧こうむの森と呼ばれる森林地帯であり、リオの母、レティシアの生まれ故郷であった。









「ほらほらあんた達、ちゃんと朝ご飯は食べたの? 毎日三食きちんと取らないと、大っきくなれないわよ?」


 ヴァンに群がる子供達へと手を打ち合わせながら近寄るティア。御飯という単語に子供達は反応し、広場から蜘蛛の子を散らすように我が家へ駆けて行った。


「ティア、何だかお母さんみたいだね」


「ありがとう、でいいのかしら? 今ぐらいの事できなきゃ、あの子達ずっとヴァンに喋らせ続けるわよ?」


 そうだねと半笑いするヴァンの表情に、ヴァンの方がお母さんっぽい。とティアは口にしたくなったがぐっとこらえる。

 ヴァンはその容姿のせいで度々女の子扱いされ、その度に臍を曲げ、それを宥めるのに時間が掛かる。本人はカッコよくなりたいと日々努力をしているのだが、


『可愛さが抜けるどころか磨きが掛かってきている』


 とリオがこっそり漏らした感想に、ヴァン以外の全員が納得し、胸の内にこっそり隠していた。


「スコールもアリンも結局昨日は戻らなかったわね。何か手掛かりでも見つけたのかしら」


「手掛かりを見つけたかどうかは分からないけど、昨夜は向こうの山の森の中で過ごしたみたいだから、そろそろ帰って来るんじゃないかな」


 ヴァンの指差す方向、木々の隙間からこの場所と似たような森に覆われた小山が覗えた。確かにヴァンの目は鷹の目より優れると言われるほどに高い視力を有しているが、それでもあれだけ離れていれば特定は困難なはず。

 どうやって居場所を確認したのかとティアが問うと、特殊な道具を使っているとヴァンが返す。仕組みを説明しようとしたヴァンだが、隧道ずいどうのような並木道を歩く件の二人が視界に入り、手を振った。


「スコール! アリン! おかえり!」









「そっか。じゃあウルヴの森は……」


「何も残ってない」


「近くに小さな農村があったんで話を伺ったんですが、どうやら大規模な森林火災があったらしいんです。それも随分前に。全部崩れ去ってしまってて、家なのかどうなのかも判別出来ないほどでした」


 ここ煌霧こうむの森に逗留し半年が経つ頃。リオが現在の位置から南西の方角へ少々離れた位置に、ウルヴの森が存在することを住民から教えられた。

 ウルヴの森は狼人族の隠れ里であり、もしかすればスコールと義両親二人以外に生き残りが居るかもしれないという。


 しかし当の本人であるスコールは狼人族への興味が全くと言っていいほど無く、リオの話を聞き流していた。のだが、


『行ってこい』


 その一言と共にスコールは煌霧の森から追い出された。大事な仲間と共に居られぬ悲しみ。リオに怒られた(とスコールは思い込んでいる)悲しみでとぼとぼと歩く彼に見かね、アリンが伴を務めると後を追った。


「骨折り損……になるぐらいならリオが行かせる訳無いわ」


 リオは縦横無尽無差別にあれやこれやと成す人物であるが、基本的には無駄と分かるものには手を出さない。その事を仲間達は十二分に理解しており、今回の件もリオが何かしらの意図を孕ませているのは間違い無いとティアは頷く。


「昔の事、ちょっとだけ思い出した」


 民家があったと思わしき場所に、焼け残っていた酒瓶。それはスコールに見覚えのあるものであった。

 誰かに出来損ないと言われながら、それと同じもので額を殴られた気がする、とスコールは語る。悲痛な過去ではあるがその点については掘り返さず、ヴァン達はスコールが出来損ないと言われた意味を模索した。

 だがスコールに欠点らしき欠点は無く、戦闘民族と言われた狼人族らしい身体能力をスコールは兼ね備えている。


「うーん、情報が少なすぎて何とも……。リオなら知ってるかなぁ」


「多分教えてくれない」


 だろうねと頷くヴァン。教えるならばわざわざ遠出させることも無い。きっとそれはスコールの為になる事なんだろうと、ヴァンは納得することにした。


「あと、こんなものを見つけました」


 そう言って背負った袋からアリンは石を取り出した。アリンの両腕で抱えられる大きさであり、厚みは小指の長さほどある、平たく青みがかった岩盤であった。


「何それ。石板?」


 ティアが石板と呼んだ石の表面をなぞる。風化していて今一判断が付きにくいものではあったが、薄っすらと絵のようなものが彫られている。月か太陽か、天に浮かぶ丸い何かを見上げ、口を大きく開く獣の姿である。


「下に何か文字みたいなのが彫ってあるけど……僕達が使ってる文字じゃないね」


「何千年と大昔に作られた石板だと思うんですが……。確証できることと言えば、書かれている文字が“エスウル語”で無いことと、そもそも石板そのものの素材が周辺一帯で取れるものではないことからして、おそらく“向こう側”にあったものではないかと」


 指先ほどしかない小さな金槌で石板を叩きながら推察するアリンに、ヴァン達は天の咢を見上げた。この岩山の向こう側と、こちら側と、一体どんな繋がりがあるのか。リオの話では彼の曾祖父であるアークの故郷が向こう側にあると言う。世界を隔てる謎の存在。そもそも何時からあったのか。疑問の尽きない天の咢という物言わぬ壁を、四人は何故か疎ましく感じた。


「うみぃーっす」


 気の抜けたもごもごとした挨拶に四人が顔を向けると、大きな薄く丸い焼き菓子のようなパンを咀嚼しながら歩くヤイヴァであった。

 口の中で咀嚼していたものを一気に飲み込み、食べ飽きたとスコールに押し付け、どっかりと丸太の椅子へ座る。


「スコールとアリンが帰って来ててちょうどよかったぜ。朗報だ。そろそろ仕上げに入るってよ」


 とうとうその時がやってきたと四人が顔を示し合わせる。立ち上がるヴァン達に対し、ヤイヴァは疲れたから運んでくれとアリンへしな垂れかかる。しょうがないですねとアリンは苦笑し、剣へと変身したヤイヴァを背と荷の間に挟み立ち上がった。









「入って、どれほど経つ?」


「丸一日が経過しました。それにしても……うっ」


 森人族の王、リュシアン・メルフェイエは気絶しかけた付き人を下がらせた。彼が見つめる洞穴からは得体の知れない殺意の波濤が漏れ出し、死神が死へと引きずり込もうとこちらに手を伸ばしているかのように錯覚させた。


 煌霧の森の外れには絶対立入禁止区域が存在し、その理由がこの洞穴、断界穴だんかいけつであった。中は迷うことない唯の一本道で、突き当りには何もなく、広い空間だけがある何の変哲も無い洞穴である。

 しかしその何もない空間は丁度真上が天の咢の影に覆われる場所であり、地中にありながらも断界の死の影が覆い、命を奪おうと鳴り響く、げに恐ろしき洞穴であった。


 この断界が外へと伸びることは、少なくともリュシアンが生きている間は一度きりも無い。にも関わらずこのおどろおどろしい力は洞穴から溢れる。それは、断界の生み出す死の影とは別の存在が洞穴の中に潜み、その力を開放しているからであった。


 リュシアンがその力に耐え洞穴の前に佇んでいると、打ち寄せる力は徐々に小さくなる。やがてかつかつと洞穴から反響音が響く。


 暗がりから現れ太陽に照らされたのは、美しく長い紅髪をした少年であった。


「とうとう一日いちじつを耐え抜いたか。天を超えるには、十分過ぎる力を身に着けたようだの」


「ああ。他に問題が無さそうなら明日には出立する。世話になったな、リュシン爺ちゃん」


「なに。孫たっての願いとあっては断る理由はない。それも万能と言われた賢王子の頼みだ。誉れですらある」


 森人の王。魔人の王子。その地位だけ見ればリュシアンの立場が上であるが、二人は気安く語り合う。それは親族だからではなく、森人族が初代魔王アークを崇めており、その末裔である王子も尊き存在として扱っているからである。


 王子が里へと続く道を歩けば、遠目からであっても誰もかれもが足を止め、その場に傅き、こうべを垂れる。王子が放つ力の余韻に、恐怖するどころか恍惚とした表情をする者までいた。


「何ならこのまま逗留し続けても構わんぞ。求心力のあるリオならばここを統括するのも容易いであろう」


「なに勝手に王座に据えようとしてんだ。明日出立するって言ったばっかだろ」


 毎度毎度この手の話を持ち掛けられリオは辟易としていた。実際、崇め奉り拝む程に彼への森人族の信仰は厚い。

 リオはそれを鬱陶しく感じており、だからと言って頼みを聞き入れた森人族達のリオへの信奉を無下にする訳にもいかず、甘んじて受け入れていた。


「リオスクンドゥム様。お食事、湯浴み。どちらも準備は整っております。如何なさいますか?」


 気付けばリオの足元には数人の森人が片膝を付いており、少々離れた場所でも使用人と思われる者達が衣服や茶器、水瓶を手に持ち待機している。


「風呂だ。あぁ、そういや、今日は“舞燐まいりんの日”だったな。丁度いい。俺達がここで過ごすのも、多分今日が最後だ。盛大に祝ってくれ」


 リオがそう言うや否や、使用人達は一斉に散っていく。リオの言葉を命令と受け取り、それを確実に遂行する為である。やはりここに留まらないか、というリュシアンの誘いを、リオは改めて拒否し、自身を見つけ駆け寄る仲間へと足を向けた。




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