第26話
あたしのたった一つの切り札は、一方通行の愛情だった。それしかなかったと言ってもいい。あたしが玉井柚季を追いかけるのをやめてしまえばあっという間に、あたしと玉井柚季は大学が同じなだけの大して仲良くない同級生に戻ってしまう。元々、まともな人間関係じゃなかったのだ。
バランスの悪すぎるあたしたちの関係は予想どおり終焉を迎えた。そして、あたしは部活のみんなに引き止められる手を振り払って部活を辞めた。廊下であの子ですれ違う度、図書館であの子の後頭部を見つける度、あたしは身を硬くした。一瞬でも目が合ってしまえば心臓がぱりんと音を立てて壊れそうだったから、注意深く目線をそらして。だけどあの子はあたしのことなんてちっとも見ていなかった。本当にあたしばかり、恋していたのだ。
胸に広がっていく空虚をもてあましながら、代わり映えのしない灰色の世界を一人で歩く。あの夜からずっと、色鮮やかだった何もかもが色を失って見えていた。
夜の12時を過ぎた頃、何通ものメッセージがピンク色のスマートフォンの画面を白く点滅させるのをぼんやりと見つめる。おけいや石橋先輩のものも紛れていたが、返事をする気にはなれなかった。誕生日だというのに、ちっとも心が浮き立たない。玉井柚季という神様を失ってからずっと、生きているのか死んでいるのか分からないような状態が続いていた。
メッセージアプリの通知音とは違う、長めの電子音が聞こえてスマートフォンに目を落とす。非通知にしているのか、着信元は表示されていなかった。無言のまま耳を押し当てると、ざらりとした雑音があたしの鼓膜を震わせた。
もしもし、と三度繰り返すと、電話の向こうにいる人物はやっと口を開いた。聞き覚えのあるハスキーボイスが懐かしくて、甘い感傷が胸をつく。
「ポチ。今すぐ、学生ホールまで来い。来るまで待ってる」
たったそれだけを口にして、無情にも電話は切れた。半年ぶりに聞いたあの子の声は記憶の中の玉井柚季の声とまるで変わっていなかった。あたしは暫く布団の中に潜り込んで睡魔がやってくるのを待っていたが、頭は冴えるばかりだった。のろのろと布団をめくり、着ていたパジャマのボタンに手をかける。
こんな時間に散歩なんて、あたしのご主人様は本当に自分勝手だ。
*
夜中の校舎に足を踏み入れるのは初めてだった。夏の匂いを吸い込みながら、一歩一歩コンクリートの歩道を踏みしめる。暗闇に目が慣れてきた頃、ぼんやりとしたオレンジ色の光が見えてきた。吸い寄せられるようにして学生ホールの扉を開けるとそこには、あたしがずっと好きでたまらなかった人が居た。玉井柚季は座れよと言いたげに、一番前の正面の席を指差した。言う通りにその場所に腰掛けると、玉井柚季は「来てくれないかと思った」なんて殊勝なことを口走った。
最後に言葉を交わした日から随分髪の毛が伸びている。少し痩せたような気もするけれど、Tシャツと短パンというラフな格好から覗く骨っぽい体つきは相変わらずだった。何を考えているか分からないご主人様はポーカーフェイスのまま、舞台の淵に腰掛けて、あたしをじっと見下げている。
久しぶりだね。元気してた。最近はどうしてるの。
そんなことを尋ねたら玉井柚季に軽蔑されるような気がして、できなかった。考えてみれば隣の席の友達に話しかけるような気軽さで、あたしは玉井柚季に接したことがなかった。触れたら傷つけられるものに手を伸ばすように、いつも決まって怯えた風なびくびくとした態度で、玉井柚季を愛そうとしていた。
「あーもう。本当、最悪だ。何で私、こんなとこにいるんだろう」
学生ホールに漂う重苦しい静寂を切り裂いたのは玉井柚季のほうだった。
「何それ。…玉井柚季があたしを呼んだくせに。訳わかんないよ」
「訳わかんねーのはお前だよ。お前が訳わかんねーこと言ったりやったりする度、いつだって、私は」
中途半端に切れた言葉の続きを祈るような気持ちで待っていたけれど、玉井柚季はそれきり何も言おうとしなかった。その代わりに舞台の中央にすっくと立って、あたしに向かって手を伸ばした。あたしは玉井柚季の一挙一動に心を揺さぶられ、生まれながらの主役が居るとすれば玉井柚季しかいないと、本気で考えていたところだった。
「秋田由奈さま。世界で一番孤独なあなたに、本日の公演を捧げます。どうぞそのまま席を立たずに、最後までご覧ください」
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