第25話


「あの、ポチ…ちゃん」


 目の前でもじもじと腰をくねらせているのは、それまであまり会話をしたことのない同期の庄司芽衣だった。首をかしげて見つめると、みるみる内にほほが赤く染まる。少女は後ろ手に持っていたカスミ草の花束をあたしの前に差し出した。


「これ、受け取って。今日の舞台、すごくすごく、良かった。感動しちゃった」


 お淑やかで繊細な印象の強い芽衣らしくない乱暴な物言いから、照れているのだと分かった。握りしめていたのか、白い花の茎は少し折れ曲がっている。ありがとう、と戸惑いがちにお礼を言うと、さゆりはぶんぶんと首を振って、一目散にあたしの前から姿を消した。


 愛されるのには慣れていた。でもこんな風に、容姿や可愛らしさ以外の部分を褒められることなんて今までなかった。照れくさいのと嬉しいのとでつい、ほほが緩んでしまう。その後も何度も肩を叩かれたり、髪の毛をぐしゃぐしゃにかき回されたりした。演劇部のみんなはあたしのことが誇らしくてたまらないみたいに、ひっきりなしにあたしを可愛がった。お礼を言いながら、玉井柚季を目で探してみたけれど、あの子の姿は何処にも見当たらなかった。


 舞台セットのバラシを終え、打ち上げが行われる居酒屋に向かう道の途中、あたしはようやく玉井柚季の後ろ姿を見つけた。周囲には部員たちが沢山居るのに、誰とも話そうとしないぶっきらぼうな態度は相変わらずだった。


 手をポケットに突っ込んだまま早足で歩く彼女を小走りで追いかけて、誰もいない路地まで引っ張っていく。


「ねえ」

「…」 

「玉井柚季」

「…何」

「あたし、今日で最後にすることにした。もう、玉井柚季を追いかけない」


 あたしがそう言うと、玉井柚季はゆっくりとこっちを振り返った。

 ぽっかり空いた空洞がふたつ。あたしじゃ埋められなかったその穴を見つめながら、とびっきり可愛い笑顔をつくる。いつか玉井柚季が思い出したときに後悔するくらい魅力的な女の子として、彼女の前から去ってやりたかった。


 今にも決壊しそうな感情のダムを理性でようやく堰き止めながら、準備していたセリフを唇に乗せる。あっけにとられたような玉井柚季の表情が新鮮で、写真の中に収めたいくらいだった。でも、これからはもう、そんなこと考えちゃいけない。握りしめた拳の内側に爪が食い込むのを感じながら、貼り付けた笑顔を崩さないように言葉を放つ。


「あたし、玉井柚季のこと、大っ嫌い」

「そーかよ。私もお前のこと、大っ嫌いだ」


 玉井柚季の「大っ嫌い」は冷たくて尖っていて、あたしの心を血みどろにした。

 話は終わったと言わんばかりに来た道を引き返そうとしている背中に、一瞬抱いていた期待を粉々に崩される。玉井柚季が見えなくなってからようやく、あたしは地面に膝をついて、土砂降りの涙を流した。玉井柚季は決して戻ってこないだろうと頭では分かっていたのに、捨てられたペットのように、あたしはいつまでも玉井柚季を待ち続けていた。


 終電を過ぎる頃になってようやく、石橋先輩とおけいが、あたしを迎えに来てくれた。あたしはふたりに演劇部をやめることを告げ、家に帰ってシャワーも浴びず、泥のように眠った。身体も心も自分のものじゃないように重たくて、夢のひとつも見なかった。


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