第24話
早30分ほど化粧室の個室にこもり続けていると、外側から控えめにノックをされた。飛び上がるようにして便座の上に体育座りをする。
「ポチ、いい加減にしな。そろそろメイクしないと間に合わないから」
あたしは怯えて、さっきから止まらない冷や汗を手で拭った。
今日は舞台の初日だった。朝ごはんも碌に喉を通らず、登校中もずっと台本を暗唱していた。「そんなの余計緊張するだけだって」と石橋先輩に言われても、何もせずに居るとみるみる内に膨らんでいく不安に負けてしまいそうだったのだ。
主演を背負って舞台の上に立つことが、こんなに怖いなんて知らなかった。左手首に嵌めた手首に目を落とす。あと一時間後には幕があがるということに気づいて、胃のあたりに鈍い痛みが襲った。
「…先輩ぃ。あたし、怖いですぅ」
情けない声をあげた途端、ドアを蹴破らんばかりの大きな音がした。恐怖に縮こまっていると、外から聞きなれた声がした。
「何やってんの、お前。いますぐ出てこねえと殺す」
「…玉井柚季?」
「聞こえなかったのかよ。さっさとしろ」
光の速さでドアを開けると、玉井柚季がむすっとした顔をして立っていた。苦笑いを浮かべた石橋先輩も横に立っている。
「ほら、行くぞ」
「ちょ、ちょっと待って」
「何なんだよ」
「…あたし、上手くできるかな。ロミオのジュリエットになれるかな」
玉井柚季は暫くの間、あたしを見つめた。それからゆっくりと口を開いた。
「いつもみたいに、私だけ見てればいい。そうすれば上手くいくから」
「…じゃあ。じゃあ、玉井柚季も、あたしだけを見ていてよ。今日だけでいいから。今日だけでいいから、演技じゃなく、あたしのことを好きになってよ」
ある種の切実さを持って、彼女に訴えかける。玉井柚季は二度頷いて、あたしの手を取った。途端にはにかんだあたしを見て、石橋先輩は「バカな女」と笑ったけれど、どんなにバカであろうと、それがあたしなのだと思った。
ハリボテの茂みにふたりで隠れて、赤いビロードの幕がするすると挙げられるのを待っていた。真っ白な光を浴びながら、第一声を発した時の高揚を、あたしは一生忘れることができないだろう。客席から注がれる視線が心地よくて、あれ程緊張していたことさえ遠い過去の記憶になろうとしていた。
耳を澄ませると、身体の中でピアノの音が鳴っているのが分かった。あたしは無我夢中だった。その音を聞きながら、神経のひとつひとつを使って、喜びと悲しみを全身で表現せずにはいられなかった。幾千の瞳を一身に受けながら、広い舞台を駆け回る。ある時は暗闇を駆ける雲雀として、またある時は誰かの夢に寄り添うポニーとして生きていた。
玉井柚季の瞳の奥に宿る光を見て、ずっと求めてやまなかった玉井柚季の気持ちがあたしに向けられているのがわかったとき、大袈裟じゃなく、この世界はあたしのものだと思えた。この世界はあたしと玉井柚季のもの。指と指が触れ合った瞬間、雨雲を切り裂くような全能感が、身体の中心を突き抜けた。
玉井柚季の黒目がちな瞳が、あたしを見つめている。玉井柚季の声が、あたしを呼んでいる。それだけで、何だってできる。何処へだっていけるし、何も怖くない。あたしたちは誰にも手の届かない場所で、お互いだけを何よりも強く求めていた。
拍手はいつまでも鳴り止まず、アンコールは何度も繰り返し行われた。
深く頭を下げながらも、右手のひらに感じる玉井柚季の体温にばかり意識が集中する。この時間が終わればきっと、玉井柚季は、あたしが普段そうしているようには、あたしのことを見てくれなくなるだろう。校内で黒髪のショートカットを見つけるだけで、胸が裂かれるようなそんな感傷を、玉井柚季はきっと、あたしに抱いてはくれないのだろう。絶望に似た諦観が眼前にちらついたとき、足元に一粒、見えないくらい小さな水滴が落ちた。そのときようやくあたしは、自分が泣いているということに気がついた。
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