第22話


「最近、どうしてるの?あんまり部室でおけいのこと、見ないけど」


 無理にテンションを上げた声で話しかけると、おけいは苦笑した。おけいと会話をするのは久しぶりのことで、あたしは少々緊張していた。あの日言われた言葉を忘れた訳じゃないけれど、何となく返事をしないままになっていた。


「私、最近、駅前の本屋でバイト始めたの。入り立てだから全然仕事できないんだけど。店長さんとかバイト先の先輩とか、みんな優しく教えてくれて。今はそれが楽しいんだよね、だから」


 だから、演劇部には顔を出さない。

 別に、ポチと玉井さんのラブシーンを見たくないからって訳じゃないよ。

 だからの後、おけいが敢えて口に出さなかった言葉が、あたしには聞こえたような気がした。


 あたしとおけいは二人並んで、帰路の暗闇を黙って歩いた。車のヘッドライトが、おけいの左頬を明るく照らす。生まれて間もない頃からずっと一緒に居て、お互いがお互いにとっての空気みたいな存在だったのに、何を話したらいいか分からなかった。あたしはそのとき、随分遠くまで来てしまったんだなあと思った。コンビニは車を30分走らせたところにしかない和歌山の僻地から。


「ねえ、おけい?」

「ん」

「…ごめんね、あたし。やっぱりあの子のことが好きみたい。馬鹿みたいだけど、何されたって嫌いになれない。だからおけいとは付き合えない」


 おけいの顔を見ずに、一気に準備していた言葉をぶっきらぼうに告げる。

 おけいは暫く何も言わなかった。関係が壊れてしまうかもしれないという恐怖に指の先が震える。恋ってどうして、こんなにままならないんだろう。


 あたしは玉井柚季が好き。おけいはあたしのことが好き。この永遠にも感じるほどの不毛な片思いは、きっと実ることがないのに。あたしたちはどうして、すべてを投げ打ってでも、誰かの心を手に入れようとせずにはいられないんだろう。


「どうして、玉井さんなの」


 点滅する青信号が赤に変わるのを待ちながら、おけいは呟いた。一台のトラックが砂利道を擦る音が、おけいのか細い声をかき消していく。思いつめたような表情を浮かべて、おけいはあたしの行く手を遮った。


「私の方が、ずっとずっと、ずうっと、ポチのこと好きなのに。あんな子、ポチのことなんてこれっぽっちも好きじゃないのに」

「…ごめんね。おけいの気持ちには、答えられない」

「ポチは、どうして玉井さんのことが好きなの」


 どうして。どうして玉井柚季のことが好きなのか。

 あたしを傷つけて、踏みにじって、蹴り飛ばすような女の子に、こんなにも執着してしまう理由。そんなの、もう分かりきっていることだ。


 可愛くて愛されるだけしか取り柄のないあたしから武器を奪って、価値がないと切り捨てる。そのことがどれだけ、あたしの救いになっただろう。


「あたし。あたしね、生まれてはじめて、閉じ込められていた部屋から出たような気がした。あの子に出会って初めて、世界はこんなに広いところだったんだって、教えてもらったような気がしたんだよ」


 家族や友達に甘やかされて育ってきたあたしにとって、玉井柚季は猛毒だった。手を触れる前に危ないと分かっていたのに、それでも手を伸ばさずにはいられなかった。玉井柚季はいつも、あたしに見たことのない景色を見せてくれる。


 おけい、ごめんね。もう一度そう言おうと口を開きかけたそのとき、首もとをぐいっと引っ張られるような感触がした。喉が詰まって、ぐぅっとカエルのようなうめき声が出る。


「他の奴に尻尾ふってんじゃねーよ」


 頭の上から聞きなれたハスキーボイスが降ってきた。走って追いかけてきてくれたのかと思うと胸が詰まって、あたしは玉井柚季を見上げることができなかった。これが現実なのか信じられなかったし、夢なら永遠に醒めて欲しくなかった。

 玉井柚季は「行くぞ」と言って、乱暴にあたしの腕を引いた。よろめくひざを立て直して、必死に彼女の後ろに続く。


「ちょっと、待って」


 それはあまりに切ない声だった。聞き逃してしまいそうな程小さくて、夜の闇に紛れて消えてしまいそうな声。おけいはあたしじゃなくて、玉井柚季を見ていた。今まで見た中で一番真剣な目をして。道路を挟んだ対岸に、おけいは一人で立っていた。


「ポチのこと、幸せにしてあげてください。どうか、お願いします」


 玉井柚季はうるさそうに顔をしかめるだけで、何も言わなかった。少し迷って後ろを振り向かないまま、置いて行かれないように地面を蹴る。あたしは最低だった。いつもそばにいた幼なじみの少女の優しさを感じながら、それに甘え続けてきた。だって、こんなに胸が痛いのに、目をぎゅっとつぶっても、涙の一粒もこぼれない。

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