第21話
玉井柚季は何も言わず、あたしをじっと見ている。
次の人のオーディションが始まる気配がしたけれど、あたしも玉井柚季も舞台の方へ目を向けようとしなかった。あたしたちはこの埃っぽい音楽ホールで悲しいくらいにふたりきりだった。三色のライトの光も、空気を震わせる音楽も、何もかもが背後に遠のいていく。
「ねえ、玉井柚季はさ、舞台の上でしか呼吸できないんでしょ。それが日々をやり過ごすためのたった一つの手段だった。だから玉井柚季の演技は、あんなにも見る人の心を惹きつけるんだ」
「…お前、なんなの?いちいち分析すんな、うぜーし、寒いから」
「相変わらず、玉井柚季はハリネズミ並みに尖ってるね。その針の毒で、近づいてくる女の子を一人残らず殺しちゃいそう」
「相変わらず、うるせー女」
あたしの一挙一動に顔を歪める玉井柚季の反応をおもしろがれるようになったあたしは、この数カ月で随分たくましくなったと思う。水たまりに一滴雫が落ちる音のように、聞き逃してしまいそうなくらい小さな声がした。
「…想像以上だった」
「え?」
「さっきの。私、ロミオ取るから。だからもっと練習しとけよな。私の隣で、半端な演技したら許さねえ」
いつでも無表情を貫き通している玉井柚季が、薄い唇にほんの少しだけ微笑みを浮かべてあたしを見た。あたしに向けられた初めての玉井柚季の微笑み。胸が詰まって、言葉がうまく出てこない。今この瞬間、ジュリエットみたいに胸をナイフで貫いたなら、どれ程幸せな気持ちで死ねるだろうと思った。
二日後は結果発表の日だった。玉井柚季は全会一致でロミオに選ばれた。そこまでは予想どおりだったけれど、本当にジュリエットの役に選ばれてしまったあたしは天にも昇るような心地で側にいたおけいに抱きついた。それは初めて感じる幸福だった。一年間気になっていた男の子に「ポチの無邪気なところが好き」と告白されたときとも違う。どんなに行列のできる洋菓子屋さんのマカロンを口いっぱいに頬張っても、今日のような幸せは手にすることができないような気がした。
*
「まるで、舞台の上で殴り合っているみたい」
あたしと玉井柚季のロミオとジュリエットを見た石橋先輩はぼんやりした表情でそう言った。
サンドバックにされているのはあたしだけだと思っていたけれど、玉井柚季もそうなのか。他の人から見たらあたしたちの演技はそんな風に見えるんだろうか、と不思議な気持ちになる。
舞台の上の玉井柚季ほど、人を魅了する生き物はいないと思う。玉井柚季があたしの唇にキスをするふりをすると、何人かの部員の口から悲鳴が漏れた。
閃光を湛えた瞳にとらわれて、情熱的な愛の言葉を叫ばれると、自分が特別で価値のある、別人になったような気がする。だからあたしはますます、玉井柚季のことしか考えられなくなっていた。ほとばしるような熱情が、演劇の神様に向けられたものだったとしても。舞台に立っている間だけは、あたしは玉井柚季のジュリエット。たった一人のパートナーなのだから。
「ロミオ様。どうかそのお名前をお捨てになってください。そして、あなたの血肉でもなんでもない、その名前の代わりに、このわたくしのすべてをお受け取りになってください」
あたしは心から、玉井柚季がほしいと叫ぶ。玉井柚季は乞い願うあたしの気持ちを受け留めてくれる。あたしたちはふたりきりで、全く同じ景色を見ている。
「お言葉通りに頂戴いたしましょう。ただ一言、僕を恋人と呼んでください。さすれば新しく生まれ変わったも同然、今日からはもう、ロミオではなくなります」
玉井柚季がマントを持ち上げて深々とお辞儀をすると、客席に座る女の子たちはうっとりとため息をついた。そんな彼女たちの前で玉井柚季を独り占めできる優越感でどうにかなってしまいそうになる。
稽古が毎日朝から晩まで続くような日々だった。ひどいときにはまともな食事をする暇もなく、差し入れにもらったパック豆乳でお腹を誤魔化すような生活を送っていたけれど、疲れはそれほど感じなかった。たぶん、あたしは幸せだったのだと思う。友達よりも恋人よりも家族よりもずっと近くに、玉井柚季が居てくれる気がして。
部室の鍵を閉めて、一回にある警備室の受付に向かう頃には、外は闇に包まれていた。夏のアスファルトみたいに熱されていた身体が、夜風に当たって少しずつ冷えていく。
稽古が終わってもジュリエットの役が身体から抜けない。大学の講義を受けているあたしと、ジュリエットとして生きているあたし。どっちが本当のあたしなのかわからなくなるくらいに、玉井柚季とつくる演劇に心をまるごと奪われていたのだと思う。
だから、「ポチ」と背後から名前を呼ばれたとき、その名前が自分のことを指しているということに、すぐには気がつかなかった。ぼうっとした顔のあたしを見て、おけいは「一緒に帰ろう」と遠慮がちに微笑んだ。
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