第20話
「遂にって感じだね。ポチ、どうよ、調子は」
石橋先輩に小突かれて、真っ青な顔をしたあたしはぷるぷると頭を左右に振った。どうもこうもない。朝から食事もロクに喉を通らず、緊張で心臓が飛び出そうになっている。だって今日は運命のオーディションの日。ジュリエットが手に入らないのなら死にたい。そんなことを口走ると、石橋先輩は嬉しそうにけたけたと笑った。
「欲しいものが手に入らないなら死にたい、か。いい感じじゃん。それだけ欲しいものがあるってことは良いことだよ。なあポチ、今日はさ、自分の手でそれをつかみ取ってきな。誰の為でもない、自分だけの為に」
名前を呼ばれ、壇上に上がる。私の頭上から振ってくるスポットライトの明かりが眩しい。つぶっていた瞼を開けても、観客席に座っている筈の部員たちの顔は見えない。真夜中の森の中にいるときのような静けさだけがあたしの身体を包み込んでいる。舞台の上は孤独だった。どこまでも一人きりの空間が続いていて怖いくらいだった。ここで起きる失敗も成功も自分だけのものなのだと思った。
唇を開く頃には、先ほどまでの震えるほどの緊張は和らいでいた。自分のものじゃないような声が、お腹の底から発せられていた。頭で考えなくても、手足が勝手に動く。春の光を待ちわびていた土筆が地面を持ち上げるような、むずむずした感傷が胸の奥を貫いた。
目のくらむような光の中に、玉井柚季の背中を見たような気がした。猫を思わせるしなやかな背中は、あたしからどんどん遠ざかっていく。側をすり抜けるその細い手首を掴もうとするのに、すばしっこくて中々捕まえることができない。手に入らないことにムカついて、もどかしくて仕方ないのに、追いかけることを止められない。必死になっているあたしをからかうように逃げていく玉井柚季を嫌いになれなくて、目尻に涙の粒が浮かんだ。
きっとあたしを傷つける為にした偽物のキスも許すから。
あたしを拒絶しきれないあなたの中途半端な暴力も許すから。
あたしのものになって。あたしだけのあなたでいて。いつまでも。ずっと。
この世界の何処かにいるあの子にも見えるように、高く遠く腕を伸ばす。ピンと反らせた指の先から、あの子に捧げる思いが溢れていた。玉井柚季にあたしを見て欲しかった。あたしの気持ちを知って欲しかった。
ぱちぱちぱち。
小さな拍手が聞こえて目を開けた。おけいが壇上にぽつんと立っているあたしをまっすぐに見つめていた。たった一人のスタンディングオベーション。それでも嬉しくて涙が出そうになったのは、この拍手は、あたしに向けられたものだって分かったから。賞賛も非難も、あたしだけのものだ。
また一人、また一人と立ち上がって、あたしに拍手をくれた。その中には石橋先輩も居た。先輩はあたしのことを誇らしそうな淋しそうな羨ましそうな目で見ていた。どうしてそんな顔をするんだろうと思いながら、深々と頭を下げる。玉井柚季が座っているほうを見たら、待ち構えていたかのように目がばっちりと合ってしまって、思わず顔を逸らしてしまう。あれほど感情的な演技をしたばかりだというのに、羞恥心というものを未だに持ち合わせているということが不思議でもあった。
拍手が止むと壇上から降りて、玉井柚季の座っている丸椅子へ足が向かった。
「…ねえ、どうだった」
「何が」
わかりきっている筈なのに、わざわざ聞き返すなんて意地悪だ。会うのは随分久しぶりのことなのに、あたしの存在なんて見えていないように振る舞う玉井柚季のつれなさに心が折れかける。
「あたし、玉井柚季がどうしてそんなに演劇を好きなのか、少しわかったような気がした。だってまだ、こんなに胸の底が熱いんだもん」
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