第19話
壁にかけたカレンダーを見ると、オーディションまでは一ヶ月も残されていなかった。いつも玉井柚季ばかり追いかけていたせいで、演劇部のくせに発声練習すらまともにやったことのないあたしが、役を獲得するなんて難しいに決まってる。何たって演劇経験者揃いの強者たちが軒を連ねているのだから。…だけど。
いても経ってもいられなくなって、毎朝一時間かけて念入りにする化粧も忘れて、ユニクロで買ったフリースの寝巻きのまま部屋を飛び出した。鍵もかけず、お気に入りのカゴバッグも持たず、坂の上にある大学を目指して走っていく。強い日差しに照らされて、大粒の汗があたしのおでこを濡らしたけど構わなかった。そんなことどうだって良くなるくらい、電話越しに聞いた言葉が嬉しかったのだ。
「やっぱ、来たね。来るんじゃないかと思ってた。予想よりずっと早かったけど。それにしても、すごい格好だね」
分厚い本を手にした石橋先輩は吹き出しそうな顔をしてこっちを見ていた。まだ講義の終わる時間ではないせいか、演劇部室には誰もいない。嘘をついて休みつづけていたことに少し気が咎めるけれど、それどころじゃなかった。
体育で1以外の成績をとったことのないあたしは息をつくのもままならなかったのだけれど、やっとのことで「せんぱい」の4文字を口から吐きだした。
「せんぱい、あたし、出ます。オーディション、出ます。だからあたしに、演技、教えてください、お願いします」
「動機は」
動機。オーディションに出る動機。そんなの、たったひとつしかない。
あたしはあの目を、こっちに向かせたかった。あたしに興味ないっていう冷めた瞳で一瞥されるのが悔しかった。顔にふたつぽっかり開けられた空洞を、あたしの全てで満たしたかった。だから。その為にはやっぱり、彼女のいるところまで、あたしが登っていくしかないのかもしれない、と思う。
「あたし、玉井柚季に、勝ちたいんです」
「ふうん。…きついよ、私。それでもいい?」
「はい、大丈夫です。あたし、これでもガッツあるんで。いっぱい傷つけてください。何言われたって、傷つきませんから。慣れてますから」
「なんか、打たれ強くなったね、あんた」
石橋先輩は少しだけ残念そうにそう呟いて、あたしの栗色の髪の毛をぐしゃぐしゃに撫でた。
*
次の日から始まった石橋先輩による演劇指導は朝早くから深夜まで続いた。演劇部のみんなの変なものでも見るような視線が痛かったけれど、文句を言う訳にはいかない。あたしは石橋先輩がダンスを踊れと言えばおぼつかぬ足取りで舞い、走れと言えばヒール靴で地面を蹴り、発声練習をしろと言えば所かまわず叫び声を上げた。あたしは出来が良いとはいえない生徒で、その物覚えの悪さから石橋先輩の手を散々焼かせた。
石橋先輩が「基礎練習」と言っていた一週間という期間が終わると、次は本格的な稽古が始められた。今回のオーディションの課題は「ロミオとジュリエット」。オーディション志望者は、部分的に切り取られた台本の一部を元に、自分なりの表現を加えてその役を演じなければならない。石橋先輩は「演劇で一番おもしろい部分だよ」と楽しそうに言ったけれど、ズブの素人のあたしにとってはおもしろさを感じる前に、台本を丸暗記するのでいっぱいいっぱいだった。
石橋先輩はあたしの生まれて初めての演技を見終わると、重くて長い溜息をついた。あの子と比べたら大根芝居、演技なんて代物じゃないって、言われなくても分かっていた。
「単調なジュリエットだね。感情がちっとも見えない、これじゃダメだよ」
「…はい」
「ポチ。ジュリエットはどうして、対立する位置に存在するロミオのことを好きになったんだと思う?「ロミオ、あなたはどうしてロミオなの」、この有名なセリフを何度も繰り返し口にしたんだと思う?」
「えっと。…あたしはジュリエットじゃないから分からないです」
「それを想像するの。ジュリエットの気持ちになって、自分の思いを乗せて、誰かに伝えたくてどうしようもないことを伝えようとするの。それが演劇。舞台の上に立って客席を見やったら、いっつもあんたが追いかけてる玉井柚季のことも、少しは掴めると思うよ。あの子がどうして、演劇に全てを賭けようとしているのかってこともね」
先輩が言っていることの意味は良く分からなかったけれど、とりあえず頷いてみせる。昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴って、先輩は走ってJ校舎に向かっていった。
一人部室に取り残されたあたしは台本をパラパラと捲りながら、舞台の上でロミオを演じる玉井柚季の姿を想像した。ロミオは情熱的で夢見がちで、憂鬱になりがちなところのある繊細な王子様だ。この役を完璧に演じることができる女の子はきっと玉井柚季を除いて存在しないだろうという、確信に似た直感が頭に浮かぶ。
それと同時に、もやもやした不安が心の中に巣食うのが分かった。あたしはロミオを愛するジュリエットの役を掴み取ることができるだろうか。あたしは誰にも心を開くことができない孤独な王子様の全てを舞台の上で受け入れることができるだろうか。
何かしなきゃという切迫感に苛まれたその日から、何をするにも演劇のことが頭にあった。メイクをしていても講義を受けていてもおけいと一緒にお昼ご飯を食べていても、あたしはジュリエットのことばかり考えていた。それは初めての感覚だった。ピアノも習字もスイミングも、今まで何一つお稽古事が続かなかったあたしが、こんなにも夢中になることがあるなんて。台本に目を落とすたび、シェイクスピアの綴った台詞のひとつひとつが体中の細胞に染み込んでいくようだった。何かに没頭するということは、こんなにも時間の流れが速くさせるものだということを、生まれて初めて知ったような気がした。
あたしはジュリエットの役が欲しかった。部員の誰よりも、それを欲している自覚があった。あたしはジュリエットの衣装を着て、ロミオに欲望されたかった。玉井柚季と一緒に舞台に立ちたかった。玉井柚季と同じ目線で、世界を見通してみたかった。それだけで一生分の幸福を味わえると思った。
オーディションの日まで、あたしは玉井柚季と接点を持たないでいた。目の端に存在を感じていても無視したし、後頭部に強い視線を感じても振り向かなかった。本当は尻尾を振ってすり寄って行きたかった。玉井柚季にじゃれつきたくてたまらなかったけれど、そんなことをしてしまえば、あたしは玉井柚季を永久に失うような気がして怖かった。何処までも貪欲にストイックに。まるで仏教徒の修行中のような悲壮な顔つきをしている玉井柚季に倣って、あたしも全ての欲望を封印した。甘いお菓子も可愛いお洋服もお洒落なカフェも心の中から放り出して、演劇のことしか考えなかった。
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