第18話


 紅茶のティーバックにケトルで沸かしたお湯を注ぐと、イチゴの甘酸っぱい香りが立ち昇った。おけいがプリンと一緒に買ってきてくれたのだ。水色に水玉を散りばめたこのペアマグカップも、一昨年の誕生日におけいがあたしにプレゼントしてくれたもの。おけいはこの世界の誰より、あたしのことを良く分かってる。好きなものも嫌いなものも知ってる。どんなときに笑って、どんなときに怒って、どんなときに悲しくなるかってことも。


 卵黄そのままの綺麗な色をしているプリンを一口スプーンで掬うと、舌の上でなめらかに溶けていった。つい「おいしい」とつぶやくと、目を赤く腫らしたおけいは顔をほころばせて笑った。


「ノート、とっといたよ。二週間も休んだら、講義ついていけなくなるでしょ。もうすぐ期末テストだから、少しは勉強しなね」

「うん、ありがとう」

「演劇部の方も、新しい舞台の構想を練り初めてるよ。石橋先輩が、来月にまたオーディションをやるから。希望者は私まで報告してって言ってたよ、ポチは興味ないかもしれないけど」

「そっか。…あの、玉井柚季はどうしてる?」


 オーディションという言葉に、舞台の上に突っ立ったまま何もできなかった玉井柚季の姿が頭に浮かんで、思ったことをすぐに口に出すあたしの悪い癖が飛び出した。おけいはすぐには質問に答えずに、唇だけで笑った。

 

「別に、普通だよ。前と何にも変わらない、演劇のことばかり考えてる。ポチのことなんて気にしてる訳ないじゃん、分かってるでしょ」

「ひどいこと、言うんだね」

「だって。ポチは、傷つけられるのが趣味なんじゃないの?」


 絶句したあたしの手から食べかけのプリンが取り上げられたかと思うと、肩に重心をかけられて、気づけば冷たい床に押し倒されていた。拒否する間もなく、おけいの唇がどんどんあたしに近づいてくる。そんな顔をするくらいなら、こんなことしなきゃいいのにと思いながら、大人しく目をつぶった。


 おけいは真冬のホッカイロみたいに熱かった。指もほっぺたも足も全部があったかくて、触れたところから熱をもっていくみたいだった。あたしの身体の至るところに赤い印を残しながら、おけいは何度も繰り返し「ごめんね」と呟いたので、その度にあたしはかすかに首を振った。ずっと側に居てくれた幼馴染に対して、あたしは何にもしてあげられないのだということが辛かったのだ。


 何日も締め切っていた窓の外からは地面を叩く雨の音がした。真っ暗な闇の中でおけいの柔らかい髪の毛を撫でながら、悲しみを吐き出しているような激しい雨音に耳を傾ける。何だか無性に玉井柚季に会いたくて会いたくて苦しかった。どれだけ冷たくあしらわれたって、罵詈雑言を放たれたって蹴飛ばされたって良かった。一度きりの夢の中だけでもいいから、玉井柚季に会いたかった。


 次の朝、枕元に置いていた携帯のバイブが鳴る音に目覚めた。画面に表示されていたのは石橋先輩の名前だった。出ようか迷っていると、おけいがうるさそうに寝返りをうったので廊下まで歩いていく。


「…はい。あの、石橋先輩ですか。長い間無断欠席してしまってごめんなさい。実はまだ、体調が戻らなくて、部活に行くの辛いっていうか」

「はいはい。そういうのいいから、分かってるから。今日はあんたが喜びそうな話、持ってきたから。あんた、来月18日のオーディションに出てみる気ない?」

「オーディ、ション?」

「ポチ、演劇真面目にやってみればいいのに。中身が何にもないってことは、何にでもなれるってことじゃん。執念とか、承認欲求強いとことか、向いてると思う」

「はあ」

「ちなみに今の、あんたの大好きな玉井柚季が言ってたことだよ。気が向いたら連絡して。それじゃ」

「え、ちょっ」


 それきり、電話は切れた。無機質な電子音が耳の奥に続く。宙ぶらりんになった腕をそのまま下ろして、突っ立ったまま今先輩の言った言葉を頭の中で反復する。


 執念深くて承認欲求が強くて、何にだってなれる空っぽな女の子。あたしのことなんて一度も見てくれなかった玉井柚季が、あたしのこと、そんな風に言ったの?


 やっと嫌いになれるはずだった。やっと玉井柚季のこと、欲しいって思うの止められるって思ってたのに。今まで知らなかった言葉で、あたしのことを表現されたらそんなの。

 嫌いになれる訳、ないじゃない。


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