第16話


 騒がしい居酒屋の店内は大学生らしき男の子たちのコール音、若い女性たちの甲高い笑い声で充満していた。アルコールに酔ったのだろう、トイレの近くには一人の女の子が口を押さえてうずくまっている。中を覗いてみても、おけいの姿はそこにない。途方にくれて、入り口の方に向かおうとした。突然足が止まったのは、見覚えのある背中が目に止まったからだった。


 物陰に隠れるようにして、微かな口づけを交わしているふたりの少女。玉井柚季の肩越しに、目を細めてうっとりとした表情を浮かべているみくちゃんが見えて、身体が一瞬にしてこわばる。さっきまであたしの中にあった幸福感が消え去っていく。辺り一面に広がる喧騒も、タバコとアルコールの混ざった匂いも、全てがあたしから遠のいていく気配がした。


 踵を返して、逃げるように来た道をたどった。足がもつれて転びそうになるけれど、歩みは止めなかった。今見た光景を忘れたくて仕方なかった。一刻も早くこの場所から離れなければ、今度こそ、間違いなく、あたしの心が壊れてしまうと思った。


「ポチ」


 微かに震える手で靴箱を開けようとしていたときだった。名前を呼ばれた気がして振り向くと、おけいが側にあった棚に寄りかかるようにして立っていた。あれだけ探しても、あたしはおけいを見つけられなかったのに。


「おけい」

「もう帰るの?夜はまだこれからだよ。先輩たち、カラオケオール行くんだって。一緒に行こうよ。あたし、ポチの歌うアイドルソング好きなんだよね」

「おけい」

「ポチとカラオケいくのも、随分久しぶりじゃない?和歌山に居たときは高校帰りに自転車漕いで通ってたりしたけど」

「おけい」

「…ポチ?」

「あたし、やめる。もうやめる。玉井柚季のこと、欲しいって思うのやめる」


 大好きな幼馴染の顔を見たら、溢れ出るものを止められなかった。あたしは靴を右手に握りしめたままの間抜けな格好で、今日何度目かの涙をこぼした。おけいは何も言わず、あたしをぎゅっと抱きしめてくれた。小さい頃から何も変わらない、懐かしいシャンプーの匂いに安心する。おけいは全身にナイフをつけている玉井柚季みたいに、あたしを決して傷つけたりしない。


「うん、やめな。傷つけられてぼろぼろになっていくポチ、心配で見てられないよ。ポチにはもっと、優しい奴が似合うよ。そのまんまのポチのことをまるごと全部、包み込んでくれるような、器のおっきい…」

「そんな人、いないよ。あたし何にもないもん。何にも持ってないもん」

「…そんなこと、言わないで。ポチは、何にも持ってないことないよ。ポチはさ、私にないもの、沢山持ってるじゃん。ポチはまっすぐで、努力家で、優しい。私はそういうあんたの良いところ、いっぱい知ってるよ」

「でも、意味ないんだもん。玉井柚季に良いって思ってもらえなきゃ、あたしなんて、何の価値も…ない」


 言葉が切れたのは、嗚咽が止まらなかったから。

 折角あたしを励まそうとしてくれたおけいに対して、ひどいことを言っているのは分かっていたけれど、爆発するような切なさがあたしの理性を飛ばした。切れ目なく溢れてくる感情を堰き止めたくて、おけいの足元にしゃがみ込む。おけいはそれきり何も言わず、あたしの背中をゆっくりとさすり続けてくれた。


 それからあたしは丸2週間、演劇部の活動を無断欠席した。

 おけいからも同期からも先輩たちからも、心配の連絡が届いた。けれどやっぱり、宇宙で一番欲していたあの子からのたった1通のメールはあたしの元へ届かなかった。こんなの、まるで相手のいない独り相撲と一緒。馬鹿みたいだと自分に言い聞かせながら、あたしはピンク色の携帯電話をライナスの毛布みたいに、手元から離せないままでいた。


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