第15話
それからどうやって学内ホールにたどり着いたのかは、良く覚えていない。覚めない夢を見ているみたいに、頭の中がぼうっとしている。客席用に集められた白い椅子に腰掛けていると、隣に誰かが腰掛けてくる気配がした。細い腕にはめられているゴールドの華奢な時計を見て、おけいだとわかった。
「ポーチ。ポチ。ポーチー。あんた、大丈夫なの?」
「大丈夫、大丈夫だよ。何の問題も、ない」
「いや、明らかに様子がおかしいんだけど。さっきの男に何かされた?」
「おとこ?」
「声かけてきたもやし男!めちゃくちゃ心配してたんだからね。あの後、何処行ってたの?」
男のことなんて、すっかり忘れていた。だって、玉井柚季があたしにくれた衝撃が大きすぎたのだ。あたしを助け出しにきてくれた王子様のことを考えていると、他のことなんてどうでも良くなってくる。にやにや笑いを唇に貼り付けているあたしを見て、おけいは不安そうな表情を浮かべた。
舞台が始まっても、あたしの熱は冷めやらなかった。二度も照明のスイッチを押し間違えて、幕が閉じてから石橋先輩にこっぴどく叱られた。でも仕方ない、玉井柚季があんなことするのが悪い。ビデオカメラに映る玉井柚季があんまりかっこ良いのが悪い。きっと世界中の誰だって、舞台の上の玉井柚季には敵わない。誰一人として。
舞台は大盛況で幕を閉じた。聞くところによると立ち見席までほぼ満員だったらしい。OBOGらしき女の人たちが次々に押し寄せてきて、石橋先輩に色とりどりの花束を渡していた。気丈な先輩が肩を震わせているのを慎重に見ないふりをしながら、ああ、あたし今青春してるのかもしれない、と他人事のように思った。
少し勿体なくもあったけれど舞台セットを取り壊したあとは、部員みんなで打ち上げになだれ込む形になった。先輩たちに促されて渋々という顔ではあったけれど、玉井柚季が行列の後ろの方をついてくるところが見えて、途端にあたしのテンションは急上昇した。
学園祭の長くて短い1日が終わった。疲れているはずなのに、やけに胸が騒いで仕方がない。夜が更けて静けさを増した夜道にあたしたちの笑い声がからからと響いている。頭の上から落ちてきそうな星々を見上げたら、何だか無性に玉井柚季に抱きつきたくなった。
石橋先輩の音頭を筆頭に、彼方此方で交わされる「お疲れ」の応酬を聞いていると自然に笑みが出る。輪の中でノリよくはしゃぐタイプではないけれど、あたしはみんなが楽しそうにしている和気藹々とした雰囲気が好きだ。一つのことを成し遂げた連体感に包まれているせいか、いつもよりお酒が美味しい。宝石みたいな色のカクテルを二杯飲みほしたところで、おけいのストップがかけられた。
「いい加減にしな。そんなに飲むと、また前みたいなことになるよ。ゲロまみれになったポチ、もう見たくないよ私」
「そんなこと、しないよ。おけいは心配しすぎ。あたしだってもうお酒が飲める歳なんだよ。昔みたいにおねしょもしないし、一人でトイレだって行けるんだから」
「…あんたは一体、いつの話をしてるのさ」
「あたしも成長したってこと。おけいがいなくたって平気だよ、大丈夫。一人で立って、たくましく生きていけるもん」
何の気なしに言った言葉だった。でも、あたしの口から飛び出たその言葉を聞いたおけいは、明らかに傷ついたような表情を浮かべた。どうしてそんな顔をするのか、そんな瞳でこっちを見るのか、あたしにはよく分からなかった。
おけいはグラスの半分以上残っていたファジーネーブルを一気に飲み干すと、赤くなった頬を両手でぱちんと叩いた。
「あーもう!ダメだ、私、本当に」
「どうしたの、おけい。なんか、ヘンだよ。ひょっとして疲れてる?」
「ううん。大丈夫、大丈夫だから、ポチは心配しないで。ちょっと外行って、酔い、冷ましてくる」
そう言っておけいは立ち上がった。それから障子の奥へと消えたきり、数十分経っても戻ってこなかった。足取りが微かにふらついていたのが気にかかっていたあたしは心配になって、おけいを探しに行くことにした。
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