第14話



「そんなことないです」

「いやいやいや。そんなこと、あるっしょ。それだけ可愛かったら、男なんていくらでも寄ってくるでしょ。君、彼氏いるの?いるよね、勿論」

「…いないですけど」

「じゃあ、切っては捨ててんだ。ひどいよねえ、顔が可愛くて若い女って。自分は世界一無敵って思ってんだろ?男をどれだけ傷つけたって、自分は幸せになれるって信じてんだろ」


 男の酒臭い息が、あたしの鼻を舐めた。掴まれているところから、ざっと鳥肌が立つ。男から顔を背けなが手を振り払おうとしたけれど、男の力はますます強められていく。恐怖に辺りを見回すが、人影はどこにも見当たらず、あたしは半泣きになった。もやし男だと思って気を緩めていた自分の危機感の無さを心の底から悔やみながら、目を閉じたひとりぼっちの暗闇の中で、あたしは玉井柚季を呼んだ。


 助けて。あたしを助けてよ。

 本当に、玉井柚季があたしの運命の人なら。

 あたしを、ここから助け出して。


「は?何、お前」


 突然、男の声に怯えが混じる。掴まれていた手首の力が弱められていくのを感じて、あたしは飛び退くようにして男から距離をとった。

 後ろから右肩を掴まれた瞬間、玉井柚季だと分かった。胸の中がみるみる間に熱い液体で満たされてゆくのが分かる。助けてくれた。助けに来てくれた、本当に。尻餅をついたまま、肩で息をついている玉井柚季の後ろ姿を見つめる。


「さわんな。…こいつはあたしのモンだ」

「何言っちゃってんの?つーか、何持って…」


 有無を言わさず、玉井柚季は右手に持っていた木製バッドを男の頭めがけて振り下ろした。がつん、と鈍い音が聞こえる。つぶっていた目をおそるおそる開けると、足元にはもやし男がだらしなく伸びていた。


「ねえ、玉井柚季」


 軽々しく声をかけると、玉井柚季はあたしの頬をぶった。思いっきり叩かれたせいで、その場所だけじんじんと熱を持っている。

 女の子をぶつなんて最低だよ。そう言い返してやりたかったけれど、玉井柚季の目があんまり真剣だったので、開きかけた唇を閉じる。どうしてだろう。玉井柚季の目を見ていると、頭も心臓も石になったみたいに硬くなる。手も足も全部、自分の身体じゃないみたいで、不安になる。自分が今ここにいるのかも、良く分からなくなるんだもの。


「何してんの、お前」

「…玉井柚季こそ、なんでここにいるの」

「何であたし以外の奴に、尻尾振ってんだよって言ってんの」

「…えっと、それは、あたし以外の奴に、尻尾を振るなっていう意味?もしかして玉井柚季、もやし男に嫉妬したの?もしかして玉井柚季、あたしのこと気になって、助けにきてくれたの?」

「うるせーよ。ヘラヘラ笑うな、うぜーから」


 ぴしゃりとはねのけられて、盛り上がっていた気持ちに冷水を浴びせられる。しゅんとして俯いていたら、「ほら、行くぞ」と言われて、ポニーテールをぐいっと引っ張られた。


「痛い」

「………」

「やめてよ。痛いって、言ってるじゃん、バカ」


 声が震えるとおもったら、いつの間にかぼろぼろ涙が溢れていたことに気づく。一緒にいると泣いてばっかりなあたしを、呆れたように見ている玉井柚季の輪郭が滲んでいく。あたしと玉井柚季を交互に見て、何処かに去っていく女の子たちの視線が痛かった。傷つくのが分かっているのに嫌いになれないあたしは何処までもバカな女だ。


「もう訳わかんない」

「ヒステリー女」

「あたしのこと好きなの?」

「メンヘラ女」

「さっき、あたしのモンだって言ったくせに」

「マジ、つまんねーんだよ、お前」

「つまんないのなんて、分かってるよ。仕方ないじゃん、だってあたしは、何にも持ってないんだもん。玉井柚季の言う通り、空っぽなんだもん」


 何でも持ってる玉井柚季と比べて、あたしは何にも持ってない。

 こんなに。こんなに、玉井柚季が好きなのに。

 あたしが玉井柚季を欲しがっているのと同じくらい。玉井柚季にもあたしのこと、欲しいって思ってもらいたいのに。

 あたしには、玉井柚季に差し出せるものがない。

 玉井柚季にとって、価値があるものがないんだもん。


 言葉にならない感情を伝えたくて、玉井柚季の薄い胸を両拳で何度も叩く。絶対に痛いだろうに、玉井柚季はあたしを突き放そうとせず、されるがままになっていた。それがこの子の優しさなのか、あたしには分からない。この子が何を考えているのか、分かったことなんて一度もないのだから。


 そして玉井柚季は、今までで一番、理解不能なことをあたしにした。あたしの目の渕に触れた玉井柚季の唇の感触。あたしの頬をなぞる玉井柚季のざらついた舌の感触。何が起きたのか分からず、全身を硬直させたまま突っ立っていると、玉井柚季の吐息があたしの耳をかすめた。「静かにしてろ」、あたしにそう囁いてから、もう一度顔を近づけられる。

 柔らかくて甘いレモンの匂い。それは普段の玉井柚季の温度とは全く違う、嘘みたいにあったかくて優しいキスだった。


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