第8話
貸切の大部屋の中は、タバコの臭いが染み付いていた。
石橋先輩の乾杯の音頭が終わった途端、あちらこちらに小島ができてゆく。今日のオーディションやこれから始まる舞台稽古について、会話に花を咲かせているのだろう。賑やかな場所が大好きなあたしだけれど、今日はみんなの輪に入る気になれない。
皿に盛られたポテトと唐揚げを引き寄せるふりをして、あたしは玉井柚季の様子をうかがった。相変わらず虚ろな表情のまま、何処を見ているのか分からない。
「ねえ、これ飲む?照葉樹林。抹茶の味がしておいしいよ」
予想通り、無反応。しぶしぶ、差し出していた緑色のドリンクを引っ込める。「好きな食べ物は?」「兄弟とかいる?」「玉井さんって、どうしていつも飲み会来ないの?」…その後もあれこれ聞いてみるも、すべて無視を決め込まれて、あたしは途方に暮れた。まるで会話が成立しない。背景に流れている安っぽいJ−POPに耳を傾けながら、口を滑らせる。
「…玉井さんって、あたしのこと嫌いなの?」
そんなこと、言うつもりじゃなかったのに。
あたしの口からぽつりと出た言葉は、居酒屋に入って初めて玉井柚季の耳に届いたみたいだった。ぴくりと眉を動かして、こっちを見る。久しぶりに目があって、それだけで、雲より高く浮き上がるような心地になる。相当重症だなあと思いながら、でももっともっと欲しくなって、近くて遠い彼女にあたしは手を伸ばそうとした。
「大嫌い」
自分で聞いたくせに、その一言は、あたしを地の底に叩きつけた。泣きすぎて赤くなった目で、それでもあたしを睨みつけている玉井柚季。
慣れないアルコールのせいだけじゃなく、周囲がゆがんで見えた気がした。
「何処が嫌い?」
「そういうこと、聞いてくるところが」
「じゃあ、聞かない。聞かないから。約束するから、あたしのこと好きになってよ」
玉井柚季は心の底から呆れたような顔をした。
無理もない。あたしだって、こんな面倒なことを言い出す自分が全然好きじゃなかった。だけど、止まらないの。胸の中で大きくなっていく欲望が、あたしをどんんどんカッコ悪くてダサくてバカな女の子に変えていく。
いつの間にか近くに座っていたおけいが、玉井柚季の腕をつかもうとするあたしのセーターの首元を掴んで「もうやめな」と言った。それがあんまり優しい声だったので、あたしの涙腺はつい緩んでしまう。玉井柚季の前では泣きたくなかったから、唇を噛んで懸命にこらえる。
目の前がぐらぐらして、玉井柚季の顔が良く見えない。あたしの身体を支えるおけいの腕の重さを背後に感じる。呂律が回らなくなりながらも、懸命に玉井柚季に語りかけた。
世界はこんなに広いのに。あたしの世界にいるのは、玉井柚季たったひとりだけだ。
「もう、わかんないよ。本当にわかんない。どうしたら好きになってくれるの?どうしたらあたしのこと、欲しいって思ってくれるの?ねえ、あたしならきっと、玉井柚季に安心をあげられるよ。玉井柚季が行きたいところに、何処までも一緒についていくよ。絶対、絶対、玉井柚季のことだけずっと見てるって約束するから」
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