第7話


 部室に足を踏み入れてすぐに、空気がぴりぴりしていることに気がついた。


 コルクボードに貼ってある保険会社のカレンダーを見て納得する。今日は3ヶ月後に控えた演劇コンクールのオーディション日だった。どうりで、両手で開いた台本と顔を突き合わせている部員がたくさんいるはずだ。はなからオーディションを受ける気のないあたしにとっては、あんまり関係のないことだけど。


 アンティーク調の壁掛け時計の長針が6時を指そうとしている頃。玉井柚季が部室に入ってくるのをみて、毎日そうしているように駆け寄ろうとした足が止まった。いつもの玉井柚季じゃない。とてもじゃないけど話しかけていいタイミングじゃない。あたしは今まで生きてきた中で、こんなに真剣な横顔をまだ知らない。

 玉井柚季にとって演劇って何なんだろう。玉井柚季の演技は、自分の心にかんなをかけて削りだすような作業をみたいで、時々観るのが辛くなる。あんまり痛々しくて。演技を通して、あの子の消えない傷口を公衆の面前に晒しているようで。


 ポニーテールの先輩。もとい、石橋先輩がやってきたと同時に、台本を読む声があちこちに飛び交っていた部室は、水を打ったように静まり返った。

 舞台のオーディションは普段練習でつかっている教室ではなく、学内の端にある古びたホールで行われる。用意されていたのはビール箱を並べてその上に板を乗せた簡易舞台だった。横一列に並んでいるオーディション希望者を見て、玉井柚季の身長は案外低いんだな、とあたしは意外に思っていた。


「みんな揃ったし、はじめようか。まずは下級生からお願いします。名前を呼ばれたら返事をしてから、台本通りに進めていってください。…一年、玉井柚季」


 はい、と答える声が気持ち小さく感じた。

 それからすぐに起こったことを、あたしは直視できなかった。今日の玉井柚季は、いつもの玉井柚季じゃない。さっき抱いた違和感は結果的に正しかった。

 名前を呼ばれて一歩前に出た彼女は、何もすることができなかった。数分間、黙ったまま突っ立って、透き通った瞳で客席を見つめるだけだった。言葉を忘れたみたいに呆然と立ち尽くして、時間が過ぎるのをただただ待っていた。

 いたたまれなかった。見ていられなかった。早く彼女を舞台から解放しなければいけないという使命感に似た何かが、あたしの胸に宿る。あたしはわざと咳き込みながら、地球上でひとりぼっちになってしまった彼女の元へ走っていった。

 舞台に飛び乗って、声も出さずに泣いている玉井柚季の腕をとった。そのまま彼女を引きずるように客席へ進み、白いパイプ椅子に腰掛ける。


 何事もなかったように、石橋先輩は次の希望者の名前を呼び、オーディションは再び続行された。あたしは氷に触れているのかと思うほど冷たい玉井柚季の手をいつまでも離さなかった。


 最後にオーディション通過者が発表されたけれど、やはり玉井柚季の名前はそこにはなかった。大学の近くで行われるという打ち上げに玉井柚季を連れていくことにしたのは、泣きはらした真っ赤な目を見て、今夜彼女をひとりにしておくのは怖いと思ったから。飲み会なんて一度だって参加したことないくせに、あたしの後ろを大人しくついてくる玉井柚季は別人みたいに棘がない。


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