夜のためのダイアローグ

「先輩は今晩なにがあったか覚えてらっしゃいますか?」

「宴会だろう」


「誰のための?」

「フランスに旅立つ同輩のための宴会だ」


「お名前は?」

「え?」


「フランスに行くご友人の名前です」

「……」


「いないんですよ、フランスへ行くご友人なんて」

「馬鹿言うな。ここで我々は夜通し呑んでいたではないか」


「何人の宴会ですか?」

「……」


「わたしと先輩以外、誰がきていましたか?」

「……」


「さっき一悶着ひともんちゃくあったのに、なんで誰も起きてこないんですか?」

余程よほど深く眠っているんだろう」


「本当にそうお思いですか? なら彼らはどこで眠っているんです?」

「十畳の宴会場で雑魚寝している」


「この長屋に十畳の部屋があると本気で思っているの?」

「広さなどどうでもいい。とにかく彼らは深く眠っているんだ」


「……そう。なら一緒に探してみましょうよ、彼らを」

「……」


「……そうですか。ちなみに先輩はここがどこだかお分かりになりますか?」

「友人宅だ」


「家主のお名前は? 顔立ちは? 身長は?」

「……」


「こんなこと言うのは残酷かもしれないですけど、ここは先輩の家ですよ」

「私の? 馬鹿な」


「押し問答は嫌いですから、事実だけを話しますね。ここは先輩のご自宅で、毎晩酔ってひょっとこをかぶり、別の人間のごとく振る舞うのよ。昼間の自分を忘れ去って」

「……昼間の自分を忘れて、と言うが、私は昼のことくらい正確に覚えている。今日は午前にみっちり講義を受けて、午後は小説を書き、それから部の会合に出席し、そのまま宴会に来たんだ」


「昨日は?」

「昨日も大して変わらん」


「あら、昨晩も宴会だったのね」

「昨晩は宴会が無いだけで同様の一日だった、という意味だ。昨日は部の終わりに真っ直ぐ帰宅した」


「ご自宅はどちら?」

「……」


「……もう意地悪はめます。事実は、こうです。先輩は昼間、ひとりぼっちで講義を受けて、ただ帰るだけの毎日を過ごしています。もちろん、サークルに参加したことなんてありません。さぞ退屈で詰まらない毎日でしょうね。だからこそ先輩は、変身しようと決めたんです。徐々に意識を理想の自分に向けていって……。けれども、全部を変えることはできなかった。勇気がなかった。だから昼間の自分はそのままにたもって、夜は完全に別の自分になりきる。思考も記憶も、意識して置き換える。朝がくれば過ぎ去った夢のように、僅かな残滓ざんしだけを残して忘れてしまう。随分手慣れたものね。捏造ねつぞうした記憶を本物だと思ってしまうくらいには。よくできた贋作がんさくは本物を上回ってしまうこともあるわよね。……ねえ、オーウェルの『1984年』にある二重思考ってご存知かしら」

「ならば君は誰なんだ。私が嘘の塊なら、君はなんだ。今この瞬間ここに存在する君は何者だ」


「なんだっていいじゃない。お好きに解釈すればいいでしょう? 宿敵でも幻想でも友人でも、なんなら恋人でもいいですよ。あなたの甘い空想にぴったりじゃなくって?」

下卑げびてやがる」


「どっちが……。まあ、いいです。肝要かんようなのは、私と同様に先輩も変身しているということなんですよ。しかも、片一方の自分に鍵をかけて、全く引き出せなくしてしまうやり方は見事です。ただ、お酒とお面の力を借りなければ変われないのは、少し危ういですね。私はもっと自然に、時空間の制限なくまるごと変身してしまいますから、間抜けな破局は訪れません」

「破局?」


「そう、破局です。夜の自分を見破られ、徹底的に嘘を暴かれて、それでも次の晩には全く同じ自分になれるのかしら。……わたしには、夜と昼とがぐずぐずに溶けて狂ってしまう先輩の姿が目に浮かびます。たとえば次の晩、その道化た面をかぶった先輩は、友人たちと喧々諤々けんけんがくがくな議論を重ねる有望な文学青年になっている……はじめは。けれども、この縁側に来ると次第に心のなかが濁っていくように感じる。やがて私の姿がもやのように浮かび上がって、同時にこの言葉もよみがえるの。そして先輩は、今現在のように、必死でなにも考えないようにしながら一晩をおくる……」

「それで?」


「翌日、先輩は夜の消化不良を引きずったまま昼を過ごすのよ。一週間くらいなら、たぶん、なんともないでしょうね。けれどそれ以上はきっと持たない。夜が自分を食い破って、昼間に顔を覗かせるでしょうね。先輩はそれを必死で押しとどめる。けれども、無駄なんです。押し留めるということは、つまり、双方が双方を認識してしまっているわけだから。必然的に、分裂した自分が分裂したまませめぎ合うことになる。昼の鬱屈うっくつと夜の解放。甘い夢と辛い現実。最後に勝つのは夜でしょうね。そうしてやっと変身が完成する。私と同じ人間になれる。けれども、そのときには先輩の居場所なんてないでしょうね。もしかすると、大学に籍がなくなっているかも。かろうじて在籍を許されても、きっとキチガイあつかいで誰も相手にしないわ。だってそうでしょう? 普通の人たちが現実に向き合っているのに、あなたは心のなかで激しく殺し合っているのよ。挙動不審、ひとりごと、多動性障害、成績不振、ゾッとするでしょう?」

「単なる空想だ」


「わたしの言葉が? それとも、自分のなかの自分が?」

「分からない」


「なにが分からないの?」

「君の言っていることが分からない」


「そう……いいわ。わたしがなんでこんな指摘をするのか話してあげましょう。わたしはね、今のあなたの不自然さがとっても哀しいんです。元来がんらい、人は分裂して生活を成立させることなんてできませんから。崖に向かって走っている子供がいれば、立ちはだかってでも止めるでしょう? そういうことなんです。わたしはなにも、先輩に辛い真実を伝えるために長々と喋っているわけではないんです。わたしの本意は……そう……先輩を救うことにあります」

「救う?」


「そうです。ここでわたしが殊更ことさらに指摘しなくても、終局は見えていますから。けれども、矯正きょうせいするなら早い方がいいと思ったんです。さて、ここまでは辛い時間でしたね。大人しく聞いていられたご褒美に、頭をなでなでしてあげましょうか?」

「……頼む」


「嫌です。……続けましょう。先輩が無事に今後過ごしていく方法はひとつです」

「ひとつ」


「そうです。夜と昼が乖離かいりしているのなら、どちらかを消してしまえばいいんです」

「消す」


「片方の自分だけを残して、もう一方には永久に鍵をかけてしまうんです。といっても、夜の自分に鍵をかけることはできません。なぜなら、昼の自分の理想が反映されていますから。破られることが決まっている檻に猛獣を入れるわけにはいかないでしょう? だったら、自分が猛獣の方になってしまえばいいんです。変身を完成させるんです」

「しかし、酒や仮面なしにどうやって……」


「変わるものを作ればいいんですよ。それは夜の自分を色濃く反映できるものならなんでもいいんです。たとえば、夜の自分が昼間なにをするか考えたことくらいあるでしょう?」

「うむ」


「それを端的たんてきに示せるものならなんだっていいんですよ。あなたはわたしと違って、なにもかも変えるではなく、お酒とお面だけで変身したんですから。きっと造作もないわ」

「しかし、だとすると、骨が折れそうだ」


「人生を台無しにするよりはマシじゃない?」

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