4 青春のいた場所

 九十九に貰ったメモの住所と電柱などに貼られた地番表示を見比べながら、明智と松田、それに溝口は綾小路冬彦の居場所を探し歩いた。


 途中で松田がタクシーを使いたいとごねたが、明智は受け流した。

 疲れて、綾小路冬彦探しへの熱意を失ってくれればめっけもんだと思ったのだが、ぐちぐちと文句を垂れたり、溝口をいじめたりしながらも、我儘男は持ちこたえた。


 意地になっているのかもしれない。そうなら厄介だ。



「ここじゃないですか?」



 溝口が指差した先には、大病院の立派なビルヂングがそびえ立っていた。


 病院を背に、登って来た坂道を振り返ると、夕闇に包まれ始めた皇居や帝都の街並みが一望できた。



「 病院? 綾小路先生入院してるの? 精神神経科かなあ。面会謝絶になってないといいのだけど」



 松田に綾小路冬彦が医者や事務員として働いているという発想はないらしい。

 横から控えめに溝口がたしなめた。


「もう遅いですから、面会は難しいかもしれません」



「えー、せっかく来たのに」



 二人の賑やかなやりとりをよそに、明智は坂の上から見える景色に嘆息した。


 なるほど、確かにここに来れば綾小路冬彦に会える。

 九十九先輩、粋なことをしてくれる。それとも佐々木の入れ知恵か、どちらにせよ、さすがだった。




 明智と佐々木が大学一年の秋、この病院に九十九が入院した。

 講義をさぼり、中古で買ったオートバイを乗り回していた長老は、自転車では味わえない疾走感の虜になり、無茶な運転をして自損事故を起こしたのだ。

 もう少しで風になれそうだったらしい。

 右足を骨折する大怪我を負った彼は、一月ほど入院生活を余儀なくされた。

 そのせいで卒業が一年遅れたと本人は力説している。


 当時、九十九と明智はさしたる交流はなかったのだが、何故か佐々木に誘われ、二人で入院中の留年生の見舞いに出向いた。


 顔と評判だけは知っていたけったいな先輩は、話してみると噂以上に変で面白い人だった。

 将来の方向性に迷い、塞ぎがちだったことも忘れ、久しぶりに声を出して笑ったのを記憶している。


 ついつい長話をしてしまい、面会時間ギリギリに追い出され、目に飛び込んで来たのが、茜色の柔らかな夕日に包まれた帝都だった。


 何てことはない日常の風景であったのに、美しさに圧倒された。

 言葉では表し得ぬ、不思議な感情の波が胸の中に湧いて来て、目眩がした。


 傍らにいた佐々木にどうしたと問われ、何でもないと答えようとした時、閃いた。


 ある日突然、吸血鬼になってしまった冴えない大学生が吸血鬼の少女と探偵業を営む物語を。


 下宿に帰り、徹夜で原稿用紙に向かった。


 夕飯も食べず、風呂にも入らず、内から湧き上がった激情のままに書き殴った。

 空腹も疲労も書いている間は感じなかった。


 翌朝、書き終えた原稿を、明智の奇行に呆れて眠ってしまっていた佐々木に押し付けると、そのまま気絶するように眠りに落ちた。


 しかし、目覚めた後、『吸血鬼探偵の事件簿』をいかようにするかでは迷っていた。

 すると、佐々木から経緯を聞いた九十九が退院するなり、目的を秘して下宿に押しかけて来た。

 明智が台所に茶菓子を取りに行っている隙に、先輩は大事に机の引き出しにしまっておいた原稿を読んでしまった。

 絶賛の上、同人誌に寄稿するよう勧められ、すっかり調子に乗った大学一年の明智は、乗せられるままに長老の口利きで、ちょうど紙面の余っていた『本郷青年探偵団』の季刊誌に『吸血探偵の事件簿』を投稿してしまった。


 しばらく経って、冷静に自分の書いた原稿を読み返し、青ざめても後の祭りだった。


 ペンネーム綾小路冬彦と『吸血鬼探偵の事件簿』は明智の苦い青春の想い出としてしかと刻まれることとなった。



 けれども、例え苦かろうと青春はかけがえのないものだ。

 この坂道は青臭く痛々しくも愛すべき青春の権化、作家綾小路冬彦が誕生した場所である。

 謂わば青春のいた場所だった。

 現在でも、こうして街を望めば、青春時代の自分たちの息遣いを感じられる。



「ねえ、溝口君。病院の人に綾小路先生のこと聞いて来てよ」



「え?! 僕がですか?」



「君以外に溝口君はここにはいません」



 涙目で病院の玄関へと向かおうとした哀れな青年を、明智は制止した。



「行かないでいい。ここにはもう綾小路冬彦はいない」



「どういうことですか?」



 松田の詰問調の問いかけに苦笑し、答える。



「九十九さんは、今の綾小路の居場所なんて教えられなかったんだ。綾小路は、一瞬だけ生まれた誰かの青春そのものだ。その誰かの青春は既に終わっている。だから綾小路も消えた。だから、綾小路冬彦なんてもうこの世にはいない。『今』に彼の居場所はない。代わりに九十九さんは、消失する前に、綾小路冬彦が見た景色を教えてくれただけだ」



「何を言っているのか、意味が分かりません」



 松田は冷たく吐き捨てたが、溝口が強く頷いた。



「分かります、僕は」



「え? どういうこと」



「綾小路冬彦は誰かの終わってしまった大事な青春の化身みたいなものです。ほじくり返すのは野暮だからやめろ、そう九十九さんは言いたかったのですね」



 今までにない、しっかりとした物言いだった。おまけにこちらの言わんとすることを代弁してくれている。

 弱々しい印象の青年だが、意外と芯の通ったところがあるのかもしれない。



「そういうことだ。ここで粘っても仕方がない。もう遅いし帰ろう」



 むくれ面の松田に促すと、彼は飽きてきていたのもあったのか、悪態をつきながらも従った。



「何が青春だよ。青春が素晴らしいなんて言う大人は、今を楽しんでいない馬鹿者です。あーあ、疲れたしお腹空いちゃった。帰りましょう、タクシーで」



 佐々木と九十九の連携のおかげで、一先ず上手いこと誤魔化せそうだ。

 明智はほっと胸を撫で下ろした。



 そして、心の中で過去に別れを告げ、小柄な背中の後に続こうとしたところで、背広の裾を後ろから鷲掴みにされ、振り返った。



「待ってください。終わったら、明智さんを好きにして良いのですよね。松田さんが言ってました。僕、すごく頑張ったでしょう?」



 背広を握り締めたまま、溝口は凄惨な笑みを浮かべていた。

 昔、想像した吸血鬼の少女みたいな。

 小動物の如き哀れっぽさは微塵も感じられない、どう猛な目つきはこちらを捉えて離さない。



「え?」



 無情にも、松田の背中はどんどん遠ざかって行く。

 助ける気は皆無のようだ。



 結局、明智は妙な期待をしてくる後輩を説得するため、一人の存在しない女を捏造する羽目に陥った。


 その女は見目麗しく、恋人のことを無条件に愛する、従順でやきもち焼きの東京女子大を出た才媛で、大手出版社で働いている職業婦人である。



 綾小路冬彦時代から、ある面において、自分が殆ど進歩していないことについて、明智に自覚はなかった。

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