2 帝大生溝口弘毅
帝大生溝口弘毅と思しき男は、赤門前で帆布の肩がけ鞄を胸の前で抱え、内股気味に立っていた。
学生服は寸法があっておらずぶかぶかで、大学生というより、入学したばかりの中学生のようだった。
始終、きょろきょろと始終落ち着きなく周囲を見回している瓶底眼鏡の奥の大きく丸い瞳には恐怖の色が滲んでおり、にきび跡の目立つ頬は引きつっていた。
意味もなく口を開けたり閉めたりしており、彼が何かに怯えているのは明白だった。
「あいつかな。山本さんが言ってたのは。うーん、かわいいというより苛々する感じだね」
迫り来る肉食獣の影に震える小動物のような男を、遠巻きに認めた松田は不満そうにこぼした。
山本の事前説明では、溝口は猫を被っている時の松田に似ているということだったのだ。
「あんなに怯えて……。山本とどういう関係なんだ、あいつは」
「さあ。過去はお互い詮索しないのがマナーですよ」
昨晩、櫻井から捜査主任の座を奪った山本は、大人数で帝大に乗り込もうとした小泉たちを制止した。
が、ほっとしたのも束の間で、彼は帝大構内での聞き込みは自分が案内役の現役学生を事前に用意しておくので、一人か二人で行くようにとのことであった。
大学はこの春卒業したばかり、友人の少ない明智とはいえ、学内にはまだ知り合い程度の者なら在籍している。
できるなら、迂闊に足を運び、彼らに見つかるような事態は避けたかったが、山本の息のかかった現役学生の案内役の存在が気にかかった。
もし、文芸サークル事情に詳しい者であり、最短距離で綾小路冬彦の正体に通じる道に、ハイエナ共を導いてしまったら……。
佐々木に先回りして貰っても、絶対大丈夫とは言えない。
先に、卒業生だということで、案内役を仰せつかりそうになったことを幸いに、明智は帝大潜入班に立候補し、もう一人手を挙げた松田と二人で母校訪問をする運びとなった。
ちなみに、櫻井と小泉は、山本の指示で同人誌を販売していたボロ市の出店者経由での調査に出かけた。
櫻井が不満を垂れるのではないかと危惧したが、彼は山本の捜査知識に興味を持ったらしく、大人しく従った。
いつでも輪の中心にいないと気が済まない男だと思っていたので、意外だった。
「溝口君かな? こんにちは」
孵化したての雛鳥のような青年に、松田が小走りで駆け寄り、満面の笑顔で声をかけた。
見てくれだけは、自分と同じ小柄で童顔の青年相手に、溝口は気の毒なくらいに震え上がった。
「ひ、ひいっ……」
「『ひい』じゃなくて、溝口君かって聞いてるんだけど」
「ご、ごめんなさい。溝口です。ごめんなさい」
謝るのが癖になっているのだろう。胸に抱えた鞄を更に強く抱きしめ、案内役の青年は、名乗るだけでも、いっぱいいっぱいの有様だった。
母性本能をくすぐりそうな見た目に反し、悪魔のような性格の同期は、自分の背後に立つ明智の方を振り返り、しかめっ面をした。
「会話するだけで難儀なんですけど。めんどくさい。帝大だからって慶應の僕のこと馬鹿にしているのですかね?」
「そんな訳あるか。大体、初対面の貴様の学歴を彼が知っているはずないだろう」
「僕如きの学歴なんてどうでもいいという意味ですか?」
同期随一の気分屋のご機嫌は急速に悪化しつつあった。いっそこのまま「やーめた」と言って帰ってくれればいいのに。
「ちちちちち違いますっ!ごめんなさい。よ、あ、違っ、山本さんのお仲間さんって聞いたから、きっと怖い人達なんだろうって、緊張しちゃって。ああ、怖い人達なんて言ってごめんなさい」
自分のせいで、松田がヘソを曲げたと悟った溝口が、裏返った声で必死に弁解した。
このままでは、あまりに気の毒なので、明智は嫌々口を挟んだ。
「こいつは極度の気分屋なだけだから気にするな。1分後には上機嫌になっている可能性もある。それより、溝口とやら。山本からどんな依頼をされたのか?」
慰めついでに、探りを入れる意図もあり尋ねると、まともに話せそうな相手の登場にほっとした風で、青年は答えた。
「僕は『本郷青年探偵団』という文芸サークルのメンバーや活動実態、それから吸血鬼なんとかっていう小説を書いた綾小路冬彦という人の正体を暴くお手伝いをしろと言われました」
「そうか。君はそのサークルや作家について何か知っているのか?」
「……い、いえ。知りません。僕、サークル活動はしていないので……ごめんなさい」
「いや、別に構わない。ありがとう」
むしろ無知でいてくれた方が助かる。役に立つ助っ人なんて、願い下げなのだ。
これは適当に構内をうろついて、お茶を濁し、足がつく前にさっさと調査終了させようと算段を始めていると、学生服を着た腕がすっと伸び、控えめに明智の背広の裾を摘んだ。
気弱な青年の突飛な行動に、目を剥いた。
どういうつもりだ、このガキは。
困惑する明智を溝口がもじもじと身をくねらせながら、頬を朱に染め、上目遣いで見上げてきた。
「あなたは優しい方ですね。安心しました。お名前は何と仰るのですか? 僕なんか全然役に立てないかもしれないけど、あなたのためなら頑張ります」
潤んだ大きな瞳が、じっと訴えかけるようにこちらを見つめていた。
『溝口と松田は似ている』という山本の評はある意味正しかった。
だが、松田は同性相手に色目は使わない。一見、些細な違いに思えるかもしれないが、重大な違いだ。
俄かに処理できぬ出来事に、思考停止しかけた明智を引き戻したのは、あざとさでも無番地随一の男の珍しく冷めきった平板な声だった。
「溝口君、あざといね、君。その眼鏡は後でいくらでも好きなようにしていいから、さっさと中、案内しろよ、ボケナス」
再び怯えた小動物状態になった溝口に二人が連れて行かれたのは、懐かしき母校の構内ではなく一軒の純喫茶だった。
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