4-3
「だめだ、弥絵。こっち来るな」
奥に居るであろう弥絵に、一志は大きな声で呼び掛けた。
宣子は青ざめた顔で包丁を取り落とした。
……狂態を、見られた。
なぜだろうか、父親の顔を見つけた最悪の時よりも、むしろ今のほうが精神的な打撃は大きい気がした。
猫撫で声で、男が一志をなだめようとする。
「村の子かい? 俺は宣子の父親だよ」
ぞっとする。
「違う! 違う! 違うっ!」
激しく首を振って宣子は叫んだ。両手で長い髪を掻きむしる。
涙で滲む視界の中、怯えたように口を押さえている弥絵が見えた。
来るなって一志くんに言われたのに、来ちゃったんだ、仕方がない子。
荒れ狂う気持ちとは別に、他人事のようにそんなことを思う。
「診療所行くぞ。早く来い」
一志が低い声で呼び掛け、父親を厳しい視線で睨みつけた。男は大きく舌打ちをした。
「宣子が勝手にやったんだ、俺じゃない。こいつは狂ってる」
狂人に狂人と言われるなんて。情けなくて涙が出る。
「宣子」
一志が彼女の名を呼んだ。
うつろだった意識が浮上したのは、少なからず驚いたからだ。
彼に名前を呼ばれたのは、はじめてだった。
それでも呆然と動けずにいる宣子のもとに、一志は歩み寄る。床に転がる包丁を拾い、迷うように辺りを見渡した後、ステンレスの流しに音を立てて放り込んだ。
憮然とした面持ちの父親を無視し、宣子の背中を軽く押す。
「車で来たから、早く行こう。見てるこっちが痛い」
「……あ……」
宣子は呪縛から放たれたように一歩を踏み出した。
そのまま振り返らずに一志の横を歩き、玄関へ向かう。
「宣ちゃん、大丈夫?」
狭い廊下の途中に弥絵が居て、心配そうに訊ねた。
我に還ってみると、血の固まりかけた傷口はひりひりして痛む。縦に数十センチ、ぱっくりと裂けていた。
弥絵を怯えさせたくなくて、宣子は唇の両端を上げ、笑顔らしきものをなんとかつくった。
「大丈夫よ。ごめんね……」
三人は一志の車で診療所へ向かった。
後ろの座席でシートにもたれ、宣子は放心していた。
流れ出る血よりも大切なものを失ったような気がした。
なによりもこの兄妹に醜態を晒したことがたまらなく恥ずかしく、意外なほど悲しかった。
皮膚は派手に切れていたが、深い傷には至らなかった。
その夜は上条家に泊めてもらった。
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