4-2

 「じゃあ、一晩だけ家で寝ればいいわ。わたしは庭で寝るから」

 そう言ってから、庭だって無理だと思った。すぐ近くにこの男がいるなんて、我慢ができない。

 「いい加減にしないか」

 男は苛立った様子で怒鳴った。

 「おまえは俺の娘なんだぞ!」

 父親らしいことなど、してもらった記憶はない。

 それどころか数年のあいだ、極限まで苦しめられた。

 この男から逃げて、こんなに遠い森の奥深くへきたというのに。

 「なんで追い掛けてくるのよ……やめてよ……」

 宣子は足をもつれさせながら部屋の中へと後退した。

 この男からすこしでも遠ざかりたい。どこかへ隠れてしまいたい。

 無意識に、玄関からいちばん遠い台所へ入った。

 まな板の上に、包丁が置いてあった。さっき、野菜を刻んだ包丁だった。

 宣子は青ざめた顔で包丁を手に取った。

 ——どちらかが死ななければ終わらないのだろうか。

 父親が台所に顔を出した。

 彼は宣子の手の包丁に一瞬驚いた様子を見せた。しかしすぐに、馬鹿にした風に鼻を鳴らした。恐れることもなく、まっすぐに近づいてくる。

 宣子の細い手首が叩かれ、包丁は容易くなぎはらわれた。

 「正気か?」

 嘲笑うような言葉。

 宣子は、血が出そうなほどに唇をきつく噛んだ。

 素早く床の上の包丁を拾う。

 「何度やっても、同じことだぞ」

 「同じじゃないわ」

 宣子は切っ先を自分に向けた。

 「わたしが死ねば終わるんでしょ!?」

 衝動的に袖をまくると、左腕を切りつけた。

 極度の興奮のためか、痛みは感じなかった。

 鮮血が飛び散り、白いワンピースを赤く染めた。宣子は肩で息をした。

 「……あんた」

 唐突に、一志の声が聞こえた。

 父親が後ろを振り返る。台所の戸口に彼の姿が見えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る