2-6
みたび医師の前に戻った宣子は、この事態をどう説明すべきなのか躊躇った。
——父親に乱暴されたあの夜以来、一年以上生理が止まっていたのだ。万が一を恐れて検査薬をひそかに試したが、結果は陰性だったし、何か月経っても妊娠の徴候は表れなかった。
原因には触れず、長いあいだ生理がなかったことだけを話した。
「止まった原因に心当たりは?」
「……あります」
「言えないようなこと?」
医師になら打ち明けても構わない。しかし近くにいるはずの弥絵に聞かせてはまずいと思った。
「精神的なものだと、思います。辛いこと……です」
彼女はうなだれた。
下腹部はまだ痛むし、最低の気分だ。
自分がみじめだった。
「うん。じゃあきっと、心と肉体が健全さを取り戻した証拠だと思うよ」
芝医師はそう言ってカルテに万年筆を走らせた。
深みのある、低い、優しい声だった。
宣子は一瞬、息を止めた。すぐに、声を上げて泣く。
嬉しいのか哀しいのか、自分でもよく判らなかった。
目の前の老医師に、全てをぶちまけてしまいたくなった。
相変わらず腹の中は鈍く痛む。内部に誰かが居て下腹部の内壁を攻撃されているようだった。身体には熱があるのに、皮膚だけが冷えてゆくような気持ちの悪い感覚を伴っている。ああ、そういえば、生理痛ってこんな感覚だったかもしれない。吐きそう。気持ち悪い。死にたい。
「ああ……ごめんなさい。倒れそうです」
「すこし
片隅に置かれた患者用のベッドに案内された。保健室のベッドを思い出させるような、スチール製のパイプベッドだった。
見た目頑丈で硬そうな印象だったが、横たわってみると布団がふかふかで、ほっとした。
あまりにも具合が悪すぎ、目を閉じても眠れないように思われた。しかし飲んだアスピリンが効いたのか、しばらくすると眠りに落ちた。
——目が覚めたときには、身体はだいぶ楽になっていた。
どれほどの時間が経ったのかは判らないが、宣子が目を覚ましたとき、芝医師は相変わらずそこに居た。ここは住居も兼ねているのだから当然なのだろうが、なぜか、ひどくほっとした。
机に向かっていた芝医師が、起きてきた宣子に気づく。
「具合はどう?」
「楽になりました」
外は暗くなっていた。泊まってもいいと言われ、すこし心が動いた。しかし自宅で身体を洗いたい欲求が強く、かろうじて辞退した。
芝医師は電話をかけて一志を呼び出した。彼の無免許運転は、公認どころか重宝されているようだ。
「すみません、ご迷惑をおかけして。一志くんにも悪いです……」
「いや、ここから歩くのは難儀だろう。私が送ってもいいんだが、留守の間になにが起こるか判らないのでね」
言いながら医師は、さっき手渡した生理用品と同じものを紙袋に入れ、宣子に持たせた。
「痛みが続くようならまた言うようにね」
「はい……」
しばらくして、外でクラクションが鳴らされた。一志が到着したようだ。
宣子はおずおずと訊ねた。
「あの。用事がなくても、また来ても、いいですか」
「もちろん、いいよ。いつか、話したくなったら話しなさい」
医師は宣子の頭に、ぽんと手のひらを乗せた。
「吐き出すといい。楽になるから」
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