※性的な描写があるかもしれない第五話

 日も沈み、空が薄暗くなってきた頃、宿屋の祈里の部屋の扉が突然開いた。


「キリ! ……ここにもいないのかい」

「とりあえずノックしてから部屋に入りましょうか? 最低限の礼儀として」

「師匠なら良いと思うよ?」

「師匠って言葉、万能過ぎませんか」


 アリーヤは呆れたようにファナティークに言った。

 しかし、ファナティークもアリーヤをジト目で見る。


「それを言うなら、キリの部屋の合い鍵を持っているあなたも大概だと思うよ?」

「宿屋の女将に貸してもらっています。合法です」


 アリーヤは鍵を指で回しながら言う。

 彼女はもしも祈里を殺せる機会があればと、念のため合い鍵を持っていたのだ。

 なお女将に鍵を借りる時、「彼の部屋に夜忍び込みたいので」と言ってしまったため、あらぬ誤解を受けている事を彼女は知らない。

 朝起きる度に女将にニヤニヤされているのも、それが原因だと気づいていない。


「あー、キリー、どこにいったんだろう。ギルドにもいなかったのだし」

「……ていうか何で逃げるんですかね」


 アリーヤは口をとがらせて言う。

 ファナティークは首肯しながら、流れるように自然に部屋に入る。


「あ」


 アリーヤが止めようとしたときにはもう遅く、ファナティークは祈里のベッドに腰掛けてリラックスしていた。

 外の薄暗い光が窓から差していて、掛け布団の薄い影がシーツの上にできている。


「ふーん。これがキリがいつも寝ているベッドかい……匂いは、と」

「え、ちょっと?」


 アリーヤが戸惑いの声を上げる中、キリの枕に顔を埋めたファナティークは、何度か息を吸って、言う。


「うん。キリのにおいだね」

「…………何やってるんですか?」


 言ってから、アリーヤは自分の声が思いの外低くなっていることに気づくが、声のトーンは変えなかった


「ちょっとした確認だよ」


 と言いながら、ファナティークはさらにシーツのにおいも確認する。


「やめなさい」


 平坦な声を出しながら、アリーヤはファナティークの首根っこをつかみ、シーツから引っ剥がす。


「うーん。キリの匂いだね」

「そらそうでしょう。あなた馬鹿ですか」

「でも──」


 そこまでいって、ファナティークはアリーヤを向いて言った。


「ちょっと、君の臭いもするんだけど?」

「!?」


 その言葉に、アリーヤは思わず顔を赤くする。

 紛れもなく、アリーヤが祈里に弄られていた時のにおいである。性行為をどこから定義するかははっきりとしないが、本番までは至らなくとも、十分に羞恥的な行為を思い出したアリーヤが赤面したのは当然である。

 その様子を見て、ファナティークは目を細める。


「やっぱり、キリとはそういう関係なのかい?」

「い、いや、その、あれは」


 少なくともアリーヤは肉体関係どころか、接吻すらしたことはない。

 そういう関係、という言葉は否定したかったが、それを口に出すのが恥ずかしい程には、彼女は純情であった。


 しかしその反応、客観的に見れば、肉体関係を持っていると判断されてもおかしくはない。

 実際、ファナティークはそう判断した。


「ねぇ、アリー。真面目な話なのだけれど」

「…………」


 アリーヤは突然真剣な顔つきになったファナティークに、赤面を残しながら首を傾ける。


「君とキリは、離れた方がいいよ」

「は?」


 思わず唖然としたアリーヤは、すぐに反論する。


「貴方には関係ないことでしょう」


 まずアリーヤが口に出したのは、それだった。

 だが、元々離れることは出来ない。あくまでもアリーヤは祈里の下僕であり、彼よりも強くならなければ、アリーヤが解放されることはない。

 それにそもそも、アリーヤは祈里から離れ、自由になることを渇望している。

 それを考えてから、建前上は「あなたには関係無い」と言うべきだった。だがアリーヤは、まず「あなたには関係無い」と思ってしまった。

 言いながら、アリーヤは自身の思考順序に疑問を持った。


「私はキリの師匠だからね。関係はあるよ」


 また師匠師匠と、とアリーヤはファナティークを睨む。


「私から見ると、君がキリを押さえつけているようにしかみえない。私はね、実は君に怒っているんだよ」

「……どういうことですか」

「キリは魔動具が全く使えない。珍しいことにね。恐らく生まれつきだろう。そして君は腐れ縁って言うじゃないか。幼い頃から互いを知っている可能性が高い」


 眉をひそめるアリーヤを置いて、ファナティークは続ける。


「なにが理由かは分からないけど、二人は冒険者になった。しかし魔動具を使えないキリを戦わせる訳には行かなかったんだろう? それで、君がキリを養い、彼をギルドに抑えつけた」


 突拍子もない話だが、客観的に見ればそう見えるかも知れなかった。

 アリーヤはまさか真実を告げるわけにも行かず、黙ってファナティークの話を聞く。


「結果彼は甘やかされ、今のような惨状になってしまったんじゃないかい? 彼は外聞通りどうしようもない奴じゃないはずだよ。ここ数日一緒に過ごして、演技しているって分かったからね。きっと遊びたかったんだろう? 私に絡んできたのも、ただの遊びだったんじゃないかい?」


 ファナティークはアリーヤの方を向いて、言った。


「その原因は、抑えつけている君にあるだろう。まるで共依存のような、歪んだ関係。いや、歪んでいるのは君かな?」


 アリーヤは声を張り上げて反論したくなった。

 だが、心当たりなどないのに、歪んでいるという言葉が彼女の中にドロリと流れ込んだ。


「彼を嫌われ者にすれば、君以外の人間はほとんどよりつかないだろう。縛って、依存させて、隔離して、病的な物すら感じるよ」


 出鱈目だ。

 少なくとも事実とはかけ離れている。

 しかしそれでも、アリーヤが言葉を飲み込んでしまったのは、何故であろうか。


 突然、ふっとファナティークの表情がゆるむ。


「ま、ただの私の妄想だけれども」

「…………」

「でもとにかく、私がキリの力になりたいってのは、本当なのさ。彼がちゃんと強くなって、独立できるようになるためには、彼と君が離れなくちゃならないよ?」


 そこまで言って、ファナティークの話は一旦区切られた。

 アリーヤは言う。


「あなただって、純粋にキリのためを思っているわけではないでしょう?」

「へ?」

「どちらかというと、出来の良い弟子が欲しかっただけ。キリはあくまで弟子で、対等な人間としては見ていないのでは?」


 アリーヤの言葉を聞き、ファナティークは顎に手を当てて思案する様子を見せた。


「まあ確かに、私が師弟関係に憧れていた、というのは本当だよ。でも、師匠が弟子を弟子として見ることが、悪いことなのかな?」


 ファナティークは自嘲の笑みを浮かべた。


「……ちょっと打算的な部分があるけどね」

「打算?」

「キリが一人前になったら、神官騎士にでもなってくれないかな、とね」

「神官騎士に……?」


 アリーヤは一人それを想像し、すぐに首を振った。


「あり得ませんね。絶対に」

「……まあ、そうだろうね。最初こそ悪い子を叱るつもりだったけど」


 ファナティークは少し言いづらそうに、頬を染める。


「割と素直だし、なかなか可愛いところもあるし」

「…………」


 アリーヤの視線を受けて、ファナティークは慌てて話題を変える。


「でも、神官騎士が増えれば、魔物が減って、人間がより平和になり、ひいては皆の幸せになると思う」

「平和、ですか」

「そうさ。私は人間皆が幸せになって欲しい。それが神様の望む物だと思うからね」

「平和……」

 

 アリーヤはもう一度口の中で呟いてから、とても暗い笑みを浮かべた。


「平和で皆幸せに……? 絶対に無理ですね」

「無理かどうかは分からないさ」

「ふふふ。キリがいる限り、それはないですよ……。皆が幸せになるなら、あなたはキリを殺さないと行けませんよ」


 ファナティークはアリーヤの笑みに闇を感じ、思わず後ずさる。


「……何でだい?」

「それは、キリがあなたの思うよりもずっと……」



「なあ、いつになったら俺の部屋から出ていくんだ?」

「え?」「へ?」


 この場に聞こえるはずのない声が聞こえ、アリーヤとファナティークは呆けた声を出した。


「……おーい?」

「「………」」


 声の主である祈里は、堂々と自分のベッドの上に座っていた。その手には読んでいる途中であろう一冊の本を持っている。

 ベッドは部屋の奥にある。扉から入ってきたなら、気づかないはずがない。


「え? え? キリ? いつからそこにいたんだい?」

「いや、最初から居たぞ」

「居なかっただろう!? さすがに居たら気づくよ!」

「掛け布団の中にくるまっていたからな」

「いやいやいや、気配も無かったし」

「隠密は得意だからな」


 ファナティークと祈里が問答をしている中、アリーヤは真実に気づいていた。

 この人、ずっと影の中で寝ていたな、と。

 実際その通りで、祈里は最初から掛け布団の影に寝転がっていたのだ。


「どこから聞いていたんですか?」

「いやだから、最初から」


 祈里がそう言うと、ファナティークは焦り始めた。


「え、私結構恥ずかしいこと言ってなかったかい?」

「……私も同じく」


 二人して羞恥に頬を染める。

 しかし祈里は興味なさげに言った。


「ほら、帰った帰った。もう夜だ。特に師匠は即刻帰れ」

「……まあ、分かったよ」

「了解です」


 冷たい視線を祈里に投げかけた後、二人はそのまま部屋から出ていった。







 《探知》で二人が十分離れたことを確認する。まあそれでもアリーヤは隣の部屋だが。

 それで、さっきから《探知》で捉えていた人物に声をかけた。


「……もう居なくなったぞ」


 すると、部屋の窓が開き、吹き込む冷たい夜風とともに、一人の女性が中に入ってきた。

 美しい銀髪が風に舞い、月光にきらめく。チラリとエルフ特有の長い耳が見えた。


「ふふふ、気づいていたのね? 人払いしてくれてありがとう」


 入ってきた女性──フルスは、艶めかしく微笑んだ。

 そして俺は、彼女が着ている服を目を細めて見る。


「お前その服……」

「夜這いに来たのよ? 当然じゃない」


 彼女はここぞとばかりに薄い服を着ていた。透けるような、体のラインがくっきりと見える程薄い服だ。

 彼女の巨大な双丘が、薄い服を押し上げて皺をつくっている。

 透けて見える腰はとても細く、抱きしめれば折れてしまいそうだ。スカートに深く入ったスリットから生足が覗く。というか、ギリギリだ。

 シミ一つない白い素肌が夜の暗闇に幻想的に映えている。

 なんとも素晴らしい! 股ぐら・・・がいきり立つ!


 俺が彼女の肢体を観察していると、彼女はそれを感じ取ったのか、自分の体を腕で抱きしめてから、微かに震えた。


「その……冷たい目、いいわね……」

「そうかい」


 冷たく見ているつもりはない。寧ろ情欲にまみれた視線のつもりなのだが。

 フルスは頬を染めて微笑みながら、俺の座っているベッドに近づいてくる。


「精霊魔法で、この部屋の音は外に漏れないようにしたわ。隣の彼女にも聞こえないわよ」

「そりゃ良いな」


 何にせよ、夜の間にわざわざ自分から訪れてくれるとは、都合がいい。

 俺は左目を覆う眼帯を外した。


「……綺麗ね」


 彼女はベッドに乗ると、俺の体にしなだれかかってくる。

 肩紐が片方はずれて、その胸がこぼれていた。


「……君もな」

「あら、素直なのね……」

「据え膳は頂いておく主義なんでな」


 その言葉を聞いたフルスは、細い指で俺の体を愛おしそうに撫でる。筋トレしているからか、俺の体はそこそこ引き締まっている。


「固い……」


 俺は無言で彼女の目を見つめた。

 フルスはそんな俺を見て、顔を徐に近づけてくる。

 互いの息が頬をなでる。

 フルスの熱い吐息が感じられる距離になったところで、俺は彼女の頭の後ろに腕を回した。

 彼女も俺の後ろに手を回してくる。


 お互いがお互いの瞳を見つめ合いながら、睫が当たりそうになった距離で──


──俺は《陣の魔眼》を発動した。


 至近距離。かわせないタイミング。逃げられないように彼女の頭は俺ががっちりホールドしている。


 魔眼にストックされていた「精神干渉魔法」の魔法陣が、フルスの目の前に展開される。


 黄色の光を放つ魔法陣は、フルスの精神を浸食して──


──いかない!?


 効きにくいとかではない。初めての、完全な失敗ファンブル

 馬鹿な! なぜ催眠が彼女に効かない!?


「なっ────」


 俺が声を上げようとしたところで、フルスの唇が俺の口を覆った。

 開いていた俺の唇の間から、彼女の舌が唾液を伴って侵入してくる。


「んむっ……」「ん……ちゅ……」


 俺とフルスの舌が触れ合う。粘液を伴った粘膜接触で、舌の触感だけでは境が分からなくなる。

 既に口内の唾液が、誰の物なのかは分からない。

 脳内麻薬が滲み出て理性をしびれさせるのと同時に、俺は胃の底からせり上げるような吐き気を感じていた。


 そのまま舌と舌は溶け合い、俺の意識は底の底へと沈んでいった。








 目を開ける。

 白い光が飛び込んできた。眩しさに思わず再び瞼を閉じ、ゆっくりと見ながら視界を回復させる。


「………ここは?」


 見知らぬ光景だった。

 一面に草が生えているが、その一つ一つが光っている。蛍光のような人工的な光ではない。太陽光を蓄えて、そのまま解き放った様な、神秘的な光景。そのまばゆさ故、色が緑なのかはっきりしない。

 天上からこれまた幻想的な光が降りている。青空ではない、一面真っ白な空だが、曇りというわけでもない。空が全て太陽に覆い尽くされた……と言えば過剰だが、そう幻視させるほどの光景たった。


 周りを観察しても、ここがどこだという確信も、当たりもつけられない。

 俺がフルスに唇を塞がれて、そのまま意識が闇に落ちた、という所までは覚えている。

 え、まさか誘拐ですか?

 ていうか俺今全裸なんですけど。ドユコト?


『ご機嫌いかが?』


 いつの間にか、目の前に銀髪の美人がいた。なお一糸纏わぬ肢体を惜しげもなく見せている。


「……誰だ?」


 銀髪で巨乳の美人。恐らくはフルスだろう。しかし、顔が何となく違う。さっきも十分美人だったのだが、今俺の目の前にいる女性は、さらに人間味が無くなるくらいに神秘的な美しさをもっていた。


『失礼ね。といっても、この姿で会うのは初めてかしら?』

「フルス、でいいのか?」

『んー、正確には、フルスに憑いていた精霊って所かしら』


 ああ。精霊憑きってステータスにあったな。


『私はシルフ。風の最上位精霊よ』


──「鑑定」



シルフ

精霊 風の最上位階

HP 23/23

MP 9653/13700

STR 9

VIT 12

DEX 9821

AGI 7835

INT 10291


加護

『主神の令』『神託(大)』


称号

 精霊の巫女



 どうやら本当に精霊らしい。

 すごく偏ったステータスだ。吹けば飛びそうである。風だけに。


「で? その精霊様が俺に何の用で?」

『あら、さっきも言ったじゃない。夜這いだって』


 これは夜這いの範疇では収まらないだろう。

 大体、目の前のこいつが精霊だってのは理解したが、ここがどこなのかは全く見当がつかん。


『仮の姿でまぐわうのも有りだけど、やっぱり最初は本当の姿で臨むのが礼儀って物でしょう?』

「いや性交に関する礼儀とか知ったこっちゃ無いが」

『細かいことは気にしないの。それで、私が真の姿を現すために、貴方を私の精神世界に招いた訳』


 精神世界?


「精神世界 とは で検索」

『何言ってるの……。精神世界ってのは、一人一人が持つもう一つの次元の世界と言ったところかしら』


 うん。意味分からん。


「十文字以内で簡単に説明してくれ」

『夢のようなものよ』

「なるほど」


 つまり、この世界は俺とシルフの夢をつなぎ合わせた様な物なのか。いや、寧ろシルフの夢に俺の夢が食われた感じだが。


『これで理解されても困るのだけど』


 精霊さんが何か言ってるが知らん。


『とにかく、これで誰にもじゃまされることなく、いつまでも楽しむことが出来るわ。快感も現実とは比べものにならないはずよ?』

「いや、すまん。全く頂くつもりはないんだが?」

『あら。据え膳は頂いておく主義なんじゃなかったの?』

「道ばたに落ちている明らかに毒と分かる膳に手をつける趣味はないね」


 あら残念。とシルフは微笑んだ後、指をパチンと鳴らした。


『でもあなたに選択権は無いわよ?』

「ガッ!?」


 シルフの指の軽やかな音が神秘的な空間に響いた瞬間、俺の体が全身釘付けにされたように動かなくなった。

 魔眼のチートを得た世界の、……マ○オブラザーズのどちらかにかけられた「拘束の魔眼」の効果と似ているが……それよりも圧倒的に強力な支配力を受けていた。


『ここはあなたの夢ではなく、私の精神世界。貴方の体くらい、いくらでも操れるのよ』


 シルフの細い指がツイっと動くのに付随して、俺の体が勝手に動く──いや、操られる。


「……逆レイプってのはあまり好きじゃないんだが」

『大丈夫よ。狂うくらい気持ちよくなるだけだから』


 シルフは俺に近づきながら、妖しい笑みを口に浮かべた。







 主神は巫女、『神託』の加護を持つ者に命令を下すことが出来る。これはあくまで神の助言であり、直接的関与とは見なされない。

 主神は神という存在にもっとも近い精霊の、その最上位階であり『神託』の加護を持つシルフに白羽の矢を立てた。

 神託の内容は、高富士 祈里を殺すか、支配下に置くこと。

 精霊は魔法の根元たる存在であるが、彼が八つの世界因子を持っていることから、単純に戦い殺すことは予測不可能な事態を巻き起こす可能性があった。

 精霊は精神体である。肉体を持って生まれた人間では、精神面において精霊に勝てる道理はない。

 そのためシルフは、祈里を自身の精神世界に招き入れ、そこで契約によって完全に精神を支配してしまえば任務を遂行できると考えた。

 ではいかにして精神世界に招き入れるか。

 シルフは精霊に対して強力な繋がりを得る加護を持っていたエルフに憑き、操ることで祈里に接触する事に成功する。

 祈里は躊躇うことなく女体を舐めるように見る。また風の精霊に命令して観察すると、性欲が強いことは明らかだった。

 ならば簡単だ。ハニートラップが最も有効である。


 事は順調に進んだ。その結果、シルフは祈里を自身の精神世界で封じ込める事に成功したのである。


(まさかあちらも同じ考えだとは思わなかったけど)


 祈里が魔眼を使ってシルフの精神を支配しようとしたことに、彼女は素直に驚いた。この他に祈里が手札を持っていたならば、シルフは単純な戦闘ならば苦戦、或いは負けていた可能性が高い。

 内心の焦りを押し殺し、余裕の笑みを浮かべながら、シルフは祈里に近づいていく。


 祈里の体は、あられもない姿になっていた。まるで磔にされて、足を開かされたような状態。

 そんな姿を晒している当人は、射殺さんとするような目でシルフを見ている。


 シルフはゼロ距離まで近づくと、その二つの柔らかい実を祈里の胸板に押し当て、右手で彼の頬をなでる。


「くっ」


 祈里から呻き声が聞こえる。

 その視線、荒い息、喉から漏れる声、左手から伝わる熱さが、シルフを興奮させる。


 精神世界の中で、接触している状態だと、シルフは祈里の中に奔流する感情を感じ取ることが出来た。

 その一つ一つを楽しんでいると、ふと気になるものがあった。


『……あら? あなた、性交を嫌っているの?』

「っ!」


 祈里の体がピクリと跳ねる。

 シルフにとってそれは意外であった。性欲を隠そうともしない祈里が、性交自体に嫌悪感を抱いているとは。


『こっちはこんなに素直なのにねぇ。本能に忠実になればいいのに』

「……理性も本能もねぇよ」

『何が怖いのかしら? 気持ちよくなることが? 繋がることが? 子供が出来ることが? 汚いことが?』


 祈里の言葉を無視し、シルフは告げる。


『大丈夫よ。性交とは子孫を作る儀式。神だって宗教だって否定していないわ。気持ちよくなるだけだし』


 シルフは祈里の耳元で、優しく話しかける。

 そしてそのままシルフは情事を続行する。


『さあ、一緒になりましょう?』


 祈里とシルフが繋がる一歩手前で、祈里は無機質な声色で呟いた。




────「支配」




『…………え?』


 シルフは動きを止めた。


 それまでの興奮と快感を忘れ、目の前の光景に目を見開く。


 視線の先にあるのは、祈里の体──いや、祈里の体だったもの、と形容すべきだろうか。

 そもそも精神世界に肉体など存在しない。全ては夢で、あるのは二人の精神のみである。


 では目の前の光景は、いったい何なのか。シルフが精神体であり、かつ精霊の最上位階であっても、その答えは判別つかなかった。


 それまでシルフのなすがままにされていた祈里が、ゆらりとその拘束から解放され、立ち上がる。


 彼の体は揺れていた。


 彼の体は固体とは形容しがたかった。


 彼の体は不定形で、まるで黒い水が人の形をとっているようであった。


 彼の体は真っ黒だった。

 腕も、足も、腹も胸も肩も背中も首も、顔も。

 何もかもが、すべての光を吸収せんとするような、深い闇のような黒色で染め尽くされていた。


『な、なんなのよ……あなた』


 形容し難き未知、その圧倒的な異様さ、威圧感を前にして、シルフは尻餅をついた状態で震えるしかなかった。


 怪奇は終わらない。


 真っ黒な体の足元が、まとう空気が、徐々に何かに変わっていく。


 微風に揺れる美しい草は、みるみる内に枯れ、呪いに侵されたように真っ黒な残骸となる。


 澄み切っていた空気は淀み、黒い霧が辺りを包む。


 差し込んでいた光は消え、白い空は闇雲に浸食されていく。


『わたしの世界がぁ! わたしがぁ! なに? なんなのよあなた! なんでこんな! いやぁぁぁぁぁああああ!!』


 シルフは眼前の黒に恐怖するばかりで、もう自分が何を喋っているのか、分かってはいない。

 黒が神秘の世界を浸食する。

 闇が広がり、覆い尽くす。


 もう美しい世界など無い。

 全ての空は黒い雲に覆い尽くされ、草原は枯れ、闇の霧が辺りを包み込む。

 地獄と見間違うような、世界の終わりとも形容すべき世界が広がるのみであった。


 真っ黒な世界の中で、シルフは呆然と座り込んでいた。

 そんな彼女に近づいてくる、絶望の足音。

 一歩一歩枯れ草を踏みしめ、黒い霧を纏いながら、真っ黒な姿が現れる。


『いや……いや……こないで……』


 シルフは泣きながら嘆願するが、黒い体はそれを無視し、シルフの頭を掴んだ。


──俺を支配しようとしたんだ。なら、お前も支配される覚悟があるはず──


 祈里の声がシルフの頭に響く。


『まさか……あなた、私の世界を支配したの……? いや、その前に、あなたはあなた自身を支配したって言うの!? そんな!? 自分の魂すら掌握するなんて! もはや神の』

──黙れ──


 黒い何かが、シルフを浸食していった。






 コンコン、と軽くノックがあった後に、扉が開かれる。


「イノリ、今日買った銃についてなんですが………………………………………………………ぇ?」


 呆然とするアリーヤが見たのは、裸同然の女性が祈里の体にベッドの上で覆い被さり、熱い口づけを交わしている光景だった。


「…………イ、イノリ?」


 アリーヤの二度目の呟きは、夜の闇に消えていった。


 

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