現実10-2

 私は見ていた。

 二階で内職をしていた母が、突然下に駆け下りてきた。足音が交差していた。私は父がよく寝ているベッドに座り、そこからテレビを見ていた。突然の物音に、私は顔を上げた。すぐに母が駆け込んできて、テレビを消す。半ば無理やり私の体を持ち上げると、押入れに投げられる。細身の母のどこにそんな力があるのか分からなかった。私が何、と叫ぼうとしたのを塞ぐように、母の平手が頬を打つ。

「あなたはいなかった」

 睨み付けるよう母は私を見て、そして押入れを締めた。私はそれまで、母に平手であれ、叩かれたことなどなかった。何も理解できず、押入れの暗闇の中で、私は呆然としていた。肌にまとわり付く長い髪がうっとうしかった。

 足音が遠ざかると、部屋の戸が激しく開けられる音がする。

「逃げることないだろう?」

 それまで聞いたことがないトーンの声だ。興奮しているようで、それでいて落ち着いた調子だ。

「こんなことして、許されると思ってるの?」

「まあ必要なもんはもうもらったし、これで俺も安泰だったんだけどな」

 私は押入れの戸を、指を使って破った。ほとんど無意識にそうしていた。丸い光が、その穴から差し込んでくる。

「だけど、見られたのは予定外だ。あんたら今日出かけるはずだったんじゃなかったのかねぇ、残念だ」

 私が穴に右目を当てたとき、鈍い衝撃音が響く。母の背中越しに、男の狂った、けれど冷静な顔が見える。若い男だ、サングラスをしていて、服は厚い。その手には鳥がいる。

 再び、衝撃。

 もう一度。

 もう一度。

 その衝撃のたびに、鳥が飛び回る。

 真っ赤な血に染まった包丁とそこに刻まれた鳥の文様。

 声にならない叫びが出た。喉が痛い。怖い。男が興味を他に移して他のところを見たとき、倒れた母の下には真っ赤な海ができていた。

 私の右目は、その光景を見ていた。

 男がいなくなり、きな臭い匂いが立ち込めるまで、私は動けなかった。血だらけの母を背負い、私が家を出たときには、もう家は炎に包まれていた。振り返ると、眼前で起きているというのに、まるで現実感がない。全身に母の血を感じ、母の温かさを感じて。



  ・



「お前、可愛くなったよな。やっぱ、髪は長いほうが似合うな」

 考えてもいなかったことを言われた。納得したように頷いている藤沢健太。子供っぽさが残っているのは声の高さだけじゃない。身長も私の方が高い。小学生のころから学区が同じで、よく一緒に登校していた。そのころは、私も髪を短くしていたし、公園で野球やサッカーを一緒に遊んでいた。生理が始まり、中学に入る少し前から、私はもっと女の子っぽくなろうとした。

 それは、幼馴染の榊楓に貸してもらった小説の影響かもしれない。そこに出てくるヒロインに、私はいつの間にか憧れていた。それで、桜がその役目を終えるころには、私の髪は肩を越えていた。そんなときに、健太と学校から一緒に帰っていた途中で言われた。はぁ、と、私は疑問のまなざしで彼を見る。私の方が背が高いから、見下ろされる感じになり彼は一瞬ひるむ。

「んだよ、ほめ言葉だろ」

 ばつが悪そうに彼がそう付け足す。

 私がどれだけ髪を伸ばしても、私から見える世界は何も変わらない。目の前の彼だって、小学生のころから何も変わっていない。ただ、学生服に身を包んでいるというだけで。

 女の子のほうが先に成長期が来るからかもしれない。クラスで女の子同士で集まると、決まって恋愛の話が出た。小学生のころは、誰々君が好き、で止まっていたのに、中学に入ったら付き合うどうのと話が発展していたし、人によってはキスがどうのと噂する子もいた。

「あーみはいいねぇ」

 私が集まるグループは、私と竹内舞子、佐伯美枝、それに榊楓と松田晴美の五人だった。その中で美枝はよく私を指して口を尖らせていた。それは、私と健太が付き合っていると思ってのことらしかたが、私自身そんなつもりはなかった。

 二年生になったある日の学校帰り、彼に誘われて懐かしい公園に来た。俺さぁと、彼は最初明後日を見ながら言い、それから振り返ると私をまっすぐ見る。真剣な瞳だ。

「お前のこと、好きなんだぜ」

 二言目までに間があったのは、緊張していたからだろう。私はすぐに答えることができなかった。

「俺と付き合わないか?」

 さらに間を空けるように彼が言った。私は、困ったように目を閉じた。けれど、案外嫌じゃない。というよりも、嬉しがっている自分がいる。私は、いいよ、とだけ答えた。



  ・



 忘れてはならない二つの記憶が交互によみがえり、交錯している。答えることが出来た私、何も言えなかった私。反抗期で、母の言うことに全て反抗していた。中学生になったことで、大人になったと思っていた。付き合い始めて、一年ほど経ったときの悲劇。別に何もなかった。一緒に学校に行ったり、帰ったり。それまでと同じだったけど、何倍も嬉しかった。

 燃えている家を見ていた。意識が朦朧としていて、私が私じゃないような気がして、現実感が全然なくて、動かない右目を無視するように、左目からは涙が溢れて。

 私の部屋は二階。そこを見ると、まだ火の手が上っていないのか、日常が見えた気がした。私がそこにいて、座って本を読んでいた。

 私の様子が変わったことに気が付いたのか、竹内舞子に呼び出された。私は正直に、付き合っていると答えた。もしかしたら彼女も藤沢健太のことが好きだったのかもしれない。けれど、彼女はおめでとうと言ってくれた。それから、私は秘密ね、と付け足した。隠す必要ないのだけど、彼女は頷いてくれた。

 火事だと気が付いた周囲が騒ぎ始める。消防車を呼び、人が集まる。かなり近くでその火事を見ていた私の存在はなかなか周囲に認識されなかった。血に染まり、火に同化していたのかもしれない。私は母を背負ったまま動くことができず、誰かに無理やり連れていかれるまで、その場に私は立ちすくんでいた。そして、意識が途絶える。忘れてしまおうとして。

 三年生になった学校の帰り道、初めて手を繋いだ。照れていたのは彼だ。私も少し恥ずかしかったけど、繋いだ手から彼のぬくもりが伝わってきて、それに甘えていた。その日は金曜日で、明日デートをする約束をした。約束したけれど、すぐに別れるのは寂しくて、公園のベンチに二人で座った。小学生がサッカーボールを追って走り回っている。少し前には私もそこにいたのにと、私は笑った。彼はもっと笑った。その笑顔を見てるだけで嬉しくなる。

 その記憶が、なくなることはなかった。忘れてはいけないからと、夜眠るたびに夢の中で繰り返される。

 燃え盛る家。

 泣いている自分。

 それなのに、右目は何も感じていない。

 あれは、晴美の家でのことだけじゃなくて、私の家での記憶でもあったんだ。



  ・



 体中に温もりを感じながら、私の意識は次第に現実に引き戻される。強い重圧を全身に感じながら、その理由が分からない。うつろな視線を動かしてゆくと、心配そうな表情をしている安藤さやかと、腕を組んだ松崎啓二が目に入る。私と視線が合うと、二人とも大きく頷く。それから、私は三人目の気配を、もっと近くにいる人を感じる。正面から、私を抱きしめてくれている。

「お、お目覚めかな?」

 藤沢健太の声だ。ぐっと体を引き離すと、正面に彼の顔が来る。重圧が失われ、温もりが薄らぐ。私は、あれ、と小さな声で呟く。今まで見ていた彼よりもずっと大人びている。声も低いし、顔も付き合い始めたころと違い幼くない。

「いや何度もね、歩さん、あなたが彼のことを呼んだんですよ。上の空でしたが。それで、無理を言って来て頂きました」

 私はもう一度健太を引き寄せると、強く抱きしめる。一瞬驚いた彼は、けれど、同様に抱きしめ返してくれる。温かさが再び得られる。

「大丈夫」

 私は啓二を見上げならが、二度、そう呟く。私が笑顔をつくったので、彼は満足そうに頷く。さやかは目に涙を浮かべながら、目頭をこする。

 そのまましばらく誰も動かなかったが、さやかが帰ることになる。また会おうね、と彼女は部屋を出た。その様子が懐かしくて私は笑った。私は健太と二人並んでベッドに座りなおしていたけれど、その彼も、立ち上がる。

「俺もそろそろ帰らないとな」

 それに合わせるように、啓二も立ち上がる。

「それでは彼を送ってまいりますので」

 そう言い、二人は部屋を出る。私は一人取り残される形になったが、寂しさはなかった。部屋自体に温もりが充満しているようで、取り乱すこともない。私は固いベッドに寝転ぶ。思った以上に疲れているようで、目を瞑るとすぐに睡魔が襲ってきた。私は、その睡魔に抗おうとせず、身を任せる。そうしてすぐに、私は眠りに落ちた。


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