現実10

現実10-1

 朝食も食べ終わり、私が窮屈ながらくつろぎ始めたころに、松崎啓二が安藤さやかを連れて狭い部屋に入ってくる。

「お久しぶり」

 彼女の声がとても懐かしい。けれど、どことなくその声に張りがないように感じ、元気、と聞いたのは私からだ。彼女は笑顔をつくり頷く。相変わらず化粧は薄く、ほおが軽く赤らんでいるせいか、幼く見える。今日は普段着のようで、薄く青色の入った服にカーディガンを羽織っている。手にはヴィトンだろうか、ブランドものの鞄を持っている。

 彼女は部屋に置かれてあった椅子に腰かけ、私はベッドに座る。啓二が席を外そうか、と言ったが、彼にも居てもらうことにした。おそらくここで交わされる会話は筒抜けなのだろうけれど、それでも二人だけよりは彼には居て欲しいと感じたからだ。

「そちらこそ、元気そうで」

 笑うと顔が小さくなり、えくぼもできる。それが本当に懐かしい。まだ一ヶ月も経っていないのに、それでもかなり昔のことのように感じる。会話が止まる。私も遠慮し、彼女も遠慮しているように思える。何から話せばいいのか、迷っているのだろう。彼女は少し俯き、唇を噛みしめているようだ。それから上目遣いで私を見ながら、彼女は私ね、と口を開く。

「覚えているか分からないけど、ずっとあなたの担当してたわけじゃないの」

 私は覚えていると頷く。確か、前の担当が横浜かどこかに行くことになって、彼女が代わりに来たと。

「うん。それで、私はあなたが目覚めた日からあなたの担当になったんだけど。それって偶然じゃないの」

 彼女は一度視線を落としてから、もう一度私を見る。私はよく理解できず、首を捻る。

「うまく説明できないな。あなたがあの日目覚めることは、前日から分かってたことなの」

 それは不思議ではない。あの日の彼女の対応は自然なものだったし、あわてた様子もなかった。あらかじめ決められていたように、いろいろと準備がなされていたし、松田晴美がその日に見舞いに来たことも、私が目覚めると分かっていたとしか思えない。

「私があなたの担当になったのは、その前日。あなたは、あの日の前日にも、一度目を覚ましてるの」

 私は彼女の目を見る。その目は、まっすぐ私を見ていて、そこに驚いた表情の私が映っている。あの日が、私が目覚めた日じゃないなんてことを、今まで考えたこともなかった。

「覚えて、いない」

 私がかすれながらそう言うのを、彼女は頷いて答える。まるで覚えていなことが当然であるかのように。

「前日に目を覚ましたとき、あなたは全てを覚えていたわ。それで、あなたは……発狂したの」

 安藤さやかの目が潤んでいる。私はあの日、手枷をはめられていたことを思い出す。

「前任の医師は、あなたが無事に目覚めたことを喜んだわ。でも、目覚めたあなたの状況を見て、心を痛めた。あなたは暴れながら、ずっと左目から涙を流し続けていたの。それで彼は、あなたの記憶を消してしまうことにした。もちろん、そんなことは普通の医療じゃない。注射であなたを無理やり落ち着かせて、それから催眠状態にした」

 いわゆる催眠術で、私の記憶を消したのだと彼女は説明する。それから彼は、医師としての行為を逸脱したことを悔いながら、病院を去ったのだという。彼が安藤さやかに引き継いだ内容に、私を真っ白な部屋に移すこと、送られてきた造花を飾ること、暴れてもいいように、ベッドと私を縛りつけておくこと、そして、その日がなかったかのように何事もなく普通に接することが書かれていた。彼女が代わりの担当になったのは、女性のほうがよいだろうと彼が判断したからだと、彼女は言う。

「つまりね、あなたが聞きたがっていることって、あなたにとって心を狂わせてしまうほど、消してしまいたい記憶なの」

 私は考える。

 一緒に乗り越えようと言われたこと。助け出したいと言われたこと。私が催眠術によって失った記憶、封印してしまった記憶、思い出さないほうがいい記憶……私の右目が見ていた記憶。けれど、どれも私にとって大切な記憶。逃げたくない。

 それに、確かにその記憶もなくなっているけれど、それ以外の記憶もなくなってしまっている。私が中学に上がってからの二年以上の記憶がきれいに抜けている。藤沢健太との記憶。絶対に大切なもの。絶対逃げてはいけない。

「それでも、私の記憶なの」

 私は揺らぐことなくそう答える。彼女は分かったわ、と答え、それから持ってきていたかばんから小さなファイルを取り出す。

「ここに書かれている。私は催眠術を使えないけれど、多分これを読めば、あなたは思い出すと思う」

 私はファイルを受け取る。なんの飾りもない青いファイルだ。私が彼女の表情を覗うと、彼女はどうぞ、と目で合図をする。私はファイルを開く。中は新聞や週刊誌だろうか、記事の切り抜きだ。スクラップされている新聞記事を読む。いくつかの繰り返される単語が、私の目に入る。


      居直り強盗

    惨殺                   放火

           強盗

   父不在

                                母

  包丁

                 火事

   犯人逃亡             殺人

      娘(15)                  意識不明

 母死亡                      留守

       死

                             娘不明

       病院収容

                 昏睡

    放火                   火事

           母  殺人

 病院                             犯人不明


 同様の文句と同様の記事。神崎家放火事件あるいは強盗殺人、そんな題目が続いている。私の右目が痛みを訴える。右半身が震え、体全身が燃えるように熱い。右目が光を感じ、わなわなと震え、ゆっくりと、ゆっくりと。

 私の右目から涙が一粒落ちる。

 記憶が溢れる。


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