現実9
現実9-1
翌朝検診のために担当の医師がやってくると、予定通りそのまま退院できると言われた。その時には父も来ており、医師に挨拶をする。私はベッドから起き上がり、大きく伸びをした。もう目眩も襲ってこない。
「それじゃあ、行くぞ」
医師との会話を終えた父が、私に振り返る。私ははいと頷くと、入り口側に立っている父の元へ急ぐ。父はドアを開け、私を通してくれる。外はせわしなさそうに働いている看護婦と、ゆったりと歩く入院患者が溢れていて、病院特有の薬のにおいが鼻腔をくすぐる。それはとても懐かしい匂いだ。
私は父の左側を、父の歩く早さに合わせて歩く。父は昨日とは違い、かなりラフな格好をしていた。薄めのワイシャツに、下は安そうな黒の綿パンだ。ワイシャツの袖から見える父の手は大きく、私は自然とその手を握る。父は一瞬驚いた表情を見せたが、それからまたすぐに前を向き歩き続ける。エレベータで一階に降り、エントランスに近づくと、父は右手で入り口を指す。
「車、止めてあるから、入り口出たところで待っててくれ。回す」
繋いだ手を離すと、父は入り口右手に見えていた駐車場の案内表示に従うように、右手側へ歩いてゆく。エントランスは広く、椅子がたくさん置かれていて、同様に患者と思われる人たちもたくさんいる。少し高い位置に置かれたテレビの前には元気そうな子供たちが何かをしゃべりながら陣取っていて、また、受付のカウンターには、老年の女性が何度も同じことを聞いている。
そんな風景を、私は幼いころ見ていた。私が幼稚園に上がったころだろうか、病弱だったから、いつも父に連れられて、それでいつも父の左側に並んで手を繋いで歩いていた。その時も、父は寡黙だったが、それが同じで嬉しかった。そして何よりも、父の手はとても温かく、無条件に安心できる。
私は一通りロビーを見渡してから入り口を出る。外は気持ちがいい快晴で、前を見るとすでに父の車がある。黒のカローラ、型は古いが、父のお気に入りだ。私に気が付いた父が、助手席のドアを開けてくれる。私が駆け寄ると、急いで、とさらに私を急かす。車の後方には、タクシーが数台続いている。私が助手席に乗り込むと、父が車を走らせる。
「とりあず、家に向かうから」
父はそれだけしか言葉を発せず、会話らしいものはない。けれど、それでも私は幸せだ。助手席から前を見ていると、街が流れてゆく。それほど都会でもなく、高くないビルが続き、歩道と車道を隔てる街路樹が延々と続いている。おそらくあの病院を抜け出したころにこの道を通っていたならば、桜が満開であっただろう。
目の前にはバスが走っている。きのみちようちえんと緑色で描かれたそのバスは、全体が淡いクリーム色をしている。後部の窓からは揺れている幼い頭だけが見えていた。右を向けば父が左手でハンドルを握っている。右手は開けられた窓に半ばかけ、タバコがその手にある。私が子供のころ父はタバコを吸わなかった。否、吸わないようにしていた。もちろん子供の近くで吸わないというだけで、どうしても吸いたくなったら外で吸うようにしていたようだけど。父は私のことをもう子供としてみていないのだろう。私が父に聞こえるように、くさいよ、と言う。父は最初何を言われたのか分からなかったようだが、気が付くとタバコを左手に持ち替えて灰皿に押し付ける。
「悪い悪い」
それから首をくるりと回すと、また右手を窓にかける。
「ストレス、溜まってるの?」
私の質問に、父は違うと答える。けれど、溜まっていないはずがない。ずっと一人で、それも外国で研究していたのだから。それに自分の娘が失踪し、帰ってきたら、病院に収容されているなんて知って。父として、不安や焦燥がないはずがない。それでも、そんな弱さを隠そうとする父がかわいらしく思える。
「後どれくらいかかるの?」
「んー、十五分くらいかな。そんなに遠くない」
「変わった?」
父は、ああ、と答える。父も帰国して家に寄っているだろうが、長らく使っていなかったことは間違いない。
「懐かしいね」
「そう、だな」
私が感慨を口にしたとき、一瞬父の目が遠くなったように思える。もちろん運転中だからすぐに集中を戻したが、私はその一瞬を見逃さなかった。私はどうしたのだろう、と思ったが、理由が分からない。
「母さんは?」
変わりに私は何気なく聞く。けれど、父は私のその質問に答えない。私はただ、母が元気なのかをただ聞きたかっただけなのに。先ほどと何も変わっていないはずなのに、寡黙な父の沈黙が、私を苦しめる。私の中に、恐怖がよみがえる。松田晴美の家が燃えているときに感じた恐怖、安藤さやかがいた病院で漠然と感じた恐怖。そして、ずっと記憶の中に封印してきた恐怖。
ああ、そうか。私は何かをずっと封印してきたんだ。忘れようとして。忘れようとして、眠ってしまったんだ。父を見ると、顔が強ばって震えている。
「父さん?」
「あ、ああ。何でもない」
何でもないはずがない。
「どうしたの?」
「いや、何でもない。何でもないから。もうすぐ家に着くからな、そうしたら色々と話そう」
父は再び黙る。耐えがたい沈黙だ。同じ沈黙だというのに、さっきからまだ十分ほどしか経っていないというのに、なぜこんなにも違うのだろう。それに同調するように、車の中がぐるぐると回り始める。
目眩だ。
ここは真っ白な空間ではないから、こんなにもぐるぐる回ると、ぐるぐると、回り、気持ち悪く、ぐるぐると、私の日常がひっくり返ってしまう。私は何とか目眩と戦うために、助手席のシートに深くもたれかかる。フロントガラスが回転しながら、前の風景がぐるぐると回る。連なる車が万華鏡のように。ビルの姿が少なくなり、緑が増え、ぐるぐると回りながら、それでも少しずつ、落ち着いてくる。
家を近くに感じる。けれど同時に、私が涙とともに封印してしまった記憶の一部が、ほんの少しだけ解けてくる。泣くことを忘れてしまったのは、何かを見てしまったからだ。私の右目が感情を失うほどのものを。
家が近づくにつれ、私の右目が震えだす。目眩が治まったというのに、私の恐怖は治まらない。見覚えがある風景だと、感傷に浸ることもできない。
けれど、車のスピードがゆっくりになり、家のすぐ近くに来たとき、すでに他の車が家の前に止まっているのに気が付く。明らかに警察の車だ。父が不安ながら、パトカーの後ろに車を止めると、パトカーからスーツ姿の男が二人降りてくる。運転席側の扉をノックする。父が窓を開けると、警察官が手帳を見せる。
「神崎教授と、娘さんの神崎歩さんですね」
手帳を見せた男が、私を指差し父に同意を求める。父は頷く。警察が私だけを見て言う。
「署までご同行お願いしたのですが」
父が私を見る。想定はしていたことだ。私は父に、目で大丈夫だからと言うと、車を降り、パトカーに乗りなおす。父はまるで何が起きているのか理解できていないようで、私に何の声もかけてくれなかった。しばらくして、男が戻ってくる。一人が運転席に、もう一人が後ろの、私の隣に座る。
「それでは参りましょうか、歩さん」
車が動き出し、私の隣の男が腕を組みながら、私を見る。
「私の名前は、松崎啓二といいます。どうぞ、よろしく」
私が何も答えなかったので、彼は残念そうに一度だけ首を振る。
「それで、まあ、一応あらかじめ説明をしておきたいのですが、大体お分かりでしょう。松田晴美さん、ご存知ですよね。彼女は何かと強情でしてね、自分でやったと主張しているわけです。んが、どうもそうではないようなのですよ。火の手は二箇所から上がっていました。一箇所は彼女が居た二階から。もう一箇所は一階の父の書斎。もちろん不可能ではありませんが、彼女の精神状態から、どうも不自然だ。」
そこで一息入れると、彼はタバコを取り出し、吸ってもよいかと私に聞く。私はどうぞとだけ答える。
「事実が彼女の証言と食い違っているわけです。彼女は精神鑑定にかかるでしょう。非常に不安定だ。極限の状況において、あの精神状態で……いえ、そもそも、心が不安定であろうとなかろうと、彼女には自ら死ななければならない理由がない」
彼はタバコの煙を長く噴きだす。
「それで、あなたはあの時あの場所にいた。もちろん、あなたが外に居たことは確実ですし、あなたが加担したのではないことは明らかです。ですが、あの場所にいたのですから何かを知っていないかと思ったわけです」
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