現実9-2
警察署の、取調室のようなところで、私はどうすべきか考えていた。私が把握している状況は、断片的でしかない。それを話すべきか、どうか。松崎啓二は、心配しないでください、と切り出す。
「先ほども言いましたが、私はあなたを疑っているわけではありません。どんな些細なことでもいいですから、事実を知りたいのです」
彼の目は真剣そのものだ。けれど、もし本当に私を疑っていないのならば、なぜ警察署まで同行する必要があるのだろう。あのまま家に帰って、そこで話せばそれで終わるのではないだろうか。私の疑問を感じたのか、彼は付け足す。
「ただ、私たちが不安に思いましたのは、またあなたがどこかへ行ってしまうのではないか、ということでしたので。それで申し訳ないとは思いましたが、こうして一緒に来ていただいたわけです」
「話をするだけでしたら、別に家でも」
「確かにそうです。ですが、私が聞きたいのはあなたの意見です。おそらく家では、あなたはあなたの言葉を話せなかったのではないでしょうか」
その言葉が私に突き刺さる。そうかもしれない。もしあのまま家に帰っていたとしたら、私は父の前で結局何も言えないのではないだろうか。そして、またただ逃げ出してしまうだけ。私は俯くと、体の力を抜く。
取調室は無機質で、どことなく病室を連想させる。これで赤い造花でも置かれていれば、勘違いしてもおかしくない。ただ、そこまで広くないけれど。ほんの三畳ほどの小さな部屋で、テーブルに向かい合って彼と対峙している。窓はなく、入り口の扉は開けられたままだ。
「松田晴美の恋人の証言も同様なものでありましたが、恋人の証言だけでは足りない」
彼は続ける。
「それに、彼の口ぶりは、あなたを庇っているように感じました」
前田春樹が、私を庇う理由はない。けれど、彼ならばそうするかもしれない。
「それでは、教えてください。私に、三年前何があったのかを」
目を見開き、彼は見るからに驚いている。それから手元の資料に目を落とす。
「もしかして、何か知っているのではないですか?」
「神崎歩さん。以前いらした病院の話では、あなたはいわゆるPTSD、つまり心的外傷後ストレス障害でして、簡単に言うと、トラウマです。それも、非常に大きな傷のようで、そのせいで、あなたはある部分の記憶を失っているようなのです」
時々資料を見ながら、けれど彼の目は真剣に私をまっすぐと見ている。
「その記憶を消すために、あなたは三年間の眠りを必要としたのではないか、とあります」
「安藤さやか、ですか?」
彼は顔を上げると頷く。それから資料を机に置くと、残念そうに続ける。
「ただ、その失われた記憶が何なのか、それは私には分かりません。何を消してしまったのか分かりませんし、何を覚えているのかも、私には分かりません」
「それでは彼女を呼んでください」
私はひるまずに彼を睨むように見る。彼は押し黙り、私を長い間見つめてからため息をつく。
「彼女を呼べば……いえ、それで記憶が戻れば、あなたが知っていることを話してくださいますか?」
記憶が戻れば……否、記憶が戻ったら、私は何も話せなくなるかもしれない。自分の記憶を消してしまうほどの出来事、そして眠り。記憶が戻れば、再び私は眠ってしまうかもしれないし、端的に、壊れてしまうかもしれない。あの断片の中で、私が狂ってしまったように。私は口を開き、先にお話します、と言う。
「ですが、それが事実なのかどうか私にも分かりません。とにかく私の記憶の中にある、あの日の出来事、いえ、病院を抜け出してから私がどこで何をしていたのかを、お話します」
彼は驚きつつも、大きく頭を下げる。それから私の許可を得て、テープレコーダーを回す。
病院を抜け出して前田春樹の家に行ったこと。
晴美から私が父に犯されたと聞かされたこと。
それが、私のことではなく晴美自身のことだったこと。
それを知らずに私は、自分の家だと思い込んで晴美の家に行ったこと。
そして、晴美の父とした会話。
台所に立っていたこと。
晴美の父の寝室に立っていたこと。
火を点けようとしたこと。
それを家の外から眺めていたこと。
矛盾がありながらも、とにかく私は自分が知っていることを順に話す。自分で話しながら、思い出すように、時間をかけてゆっくりと。けれど、私の心は軽くなる。不思議なものだ。彼は一度も邪魔することなく、私の話を聞く。録音しているが、時折メモを走らせる。私の話が終わって、それでもしばらくは、彼は動かない。何かを考えているようだ。私は、彼の次の動きをただ待つ。やがて彼が立ち上がり、私も立つよう促す。
「明日、安藤さやかを連れてくる」
手帳を胸ポケットにしまいながら、彼は私を案内する。明日ということは、今日は帰れないということだ。反抗したところで意味はない。それなりの待遇を期待していたわけではないが、案内された部屋は、先ほどの取調室より少し広い程度の、窮屈な空間だ。私自身に束縛はないが、外から鍵を掛けられ、窓にも鉄格子が見えている。
これから、彼は私の証言の検証をするのだろうか。その結果、私は暗い牢獄で過ごすことになるのだろうか、それとも少年院というところに送られるのかもしれない。そんなことを考えながら、それでも不思議と軽くなった心が嬉しい。もう逃げないと誓い、こうして実践できたからだろうか。
私はベッドに横になると、見えていないがそのずっと先にある空を想像する。星が輝き、月が出ているだろうか。月影に照らされて、木が不思議な光をまとっているのだろうか。夜が明けるころには、朝もやに世界が白く染まるのだろうか。思考が止まることなく未来を想像する。夏には海に行こう。竹内舞子、佐伯美枝、榊楓、山下透、藤沢健太。五人と私とでした約束。実現できれば最高だろう。そこに晴美もいたら、それこそ夢のようだ。
夏が終わり、秋になり、世界が赤く色づくのだろう。夕方には薄く霧がかかり、そうすると目に見えるすべてがふんわりと柔らかくなる。赤いフィルターで覆ったように。
赤く、赤く。
空を突き刺すビルと、赤く染まる空。
何の赤?
真っ白な病室に一転だけある真っ赤な造花。
何の赤?
赤は私の心にいつも影を落とす。一体何の赤なのだろう。処女を汚された赤ではなかった。それも、明日には分かるのだろう。次第に私は、眠りの世界へと落ちてゆく。
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