現実8
現実8-1
まだ辺りは暗い。夜なのか朝なのかさえもわからない。けれど、意識は目覚めた瞬間からはっきりしている。頭の中がすっきりと、まるで何もなくなってしまったみたいだ。私は上半身を起こす。目眩がしたが、それも長く続かない。窓から外を見ると、暗い影の中、動く鳥の姿がある。私は鳥かごに囚われた罪人のようだ。私は左手を出すと、力強く握り締める。むなしい温かさだけが私の体内を駆け巡る。
すべてがむなしい。
安藤さやかを思い出す。いつも最後に一言残してゆく看護婦。最後の最後に私を留めてくれ、私を助け出そうとしてくれた。
松田晴美を思い出す。いつも温かさをくれた友達。私を助けたいと言いながら、ずっと助けて欲しかったのは彼女だ。
憎しみはない。ただ、心に穴が開いてしまったようで、漠然とそこに恐怖が居座っている。感情が死んでいるにもかかわらず、恐怖だけは感じるようだ。
朝日が昇ろうとしているのか、窓から少しだけ光が差し込んでくる。それにつられるようにして窓を見ると、鳥の姿がさっきよりもはっきりと見える。両の翼をもって自由に大空を羽ばたく。地上の束縛から逃れるように、空高くに舞い上がる。自由など、私にはない。最初私に嵌められていた手枷はすぐに取ってもらえたのに、そんな物理的な束縛よりも、私の心は、重しの付いた鎖で縛られている。私はうなだれるようにため息をつく。結局、私は自分が三年もの眠りを必要とした理由が分からない。晴美に教えてもらったことは、晴美のことだった。
私は立ち上がる。足に何の力も入らないのに、それでも無理に立ち上がる。そして一歩ずつ歩き、私の手はノブにかかる。けれど、私はそこに崩れ落ちる。
意味がない。
私は再びベッドに戻り、そこに座る。すっかり朝になり、看護婦が来て驚いたようだが、どうでもいい。彼女は私の体温を計ると、カルテに何かを書き込み、順調ね、と言う。
「これなら、すぐにでも退院できるよ」
彼女もいなくなり、私は再び頭をもたげる。退院して、私はどこに行けばいいのか。私に居場所などない。私は、何もすることもなく、ほとんど働かないのに、頭は勝手に物思いを続けている。何を思っても、晴美のことが頭をかすめ、逆に中学時代の記憶はまるでよみがえらない。
ドアがノックされる。私がそちらに視線を送ると、看護婦に付き添われるようにして、中年の男性が入ってくる。見覚えがあるようで、懐かしい顔だ。看護婦は一礼すると部屋から出ていく。背は百七十くらいだろうか、体の線は細く、スーツを着込んでいる。顔は四角く、同様に四角い眼鏡をかけている。髭はなく、口元には微笑んだときにできるしわがしっかりと刻まれている。その笑みを、私は見たことがある。幼いころに、毎日のように見ていた。彼は少し目を泳がせた後で、まっすぐ私を向きベッドに歩いてくる。
父だ。
私の直感がそう答えを出す。彼はベッドの隣の椅子に座るまで、何度も口を開き、言葉を発しようとしていた。しかし、結局それは音になることなく、一言も発せずにいた。私は彼の目を見る。真っ黒で、その瞳の奥にははっきりと私自身が映っている。髪は短く、負けん気の強い私だ。
「すまな、かった」
彼はようやくそれだけを搾り出す。その声は、私の記憶よりもずっと弱々しい。もっと芯があり、ゆったりとした特徴の父の記憶がよみがえり、私に違和感を覚えさせる。
「それだけ?」
もう一度彼の目を見ると、その瞳はひどく震えている。
「遅くなってしまって、すまな、かった」
私が口を閉ざし黙っていると、彼は怒る様子もなく、遅くなった理由を語り始める。彼は今オランダに住んでいるとのことだ。研究の都合で、五年前に移った。当初は家族でオランダに移住するつもりだったが、まだ中学に上がったばかりの私を、友達と引き裂いて連れて行くのを止め、しばらくは単身でオランダに渡ったという。日本に帰ってくるのは年に一回か二回。そのため、私の中の彼の記憶は若いままなのかもしれない。彼はもちろん、私が眠ってしまったことも知っていたし、日本に戻ってきたときは必ずお見舞いに来ていた。彼が、あの造花を置いていったと教えてくれた。
枯れることのない、真っ赤な造花。元気になって欲しいという願いを込めて。その話を聞いたとき、私はあの部屋を思い出す。真っ白な部屋にただあったあの赤い点は、埃をかぶって汚れていた。
それで、彼の元に私が目覚めたというメールが届いたとき、彼は大きなプロジェクトを進行しているところだった。責任者ということもあり、すぐにでも飛んで帰ってきたいのをこらえて、必要な引継ぎをしてから戻ることに決めた。私が病院から失踪した話を聞いたのは、ようやく引継ぎのめどが立ったときだ。すぐにでも帰るべきだったと後悔したが、時間は戻らない。とにかく引き継ぎを終え、急いで日本に戻ってきた。空港に着くと、その足で病院に来た。私がここに入院していると連絡があったからだ。
そこまで彼の話は休むことなく続けられた。間を入れないことで、彼は自分の過ちを清算しているかのように思えた。それは、こうして無事な私の姿を見たことで、うまくいっているように見えるかもしれない。
もちろん、私は全然無事ではない。
「とにかく、無事でよかった」
彼は一息入れてから言う。何を見て、彼はそう感じているのだろう。私は悲しくなる。
「それに、松田さんとこの火事に巻き込まれそうになったそうじゃないか。一歩間違えれば……」
「違うの!」
私は彼を遮るようににらみつける。今彼は何と言っただろう、胸が苦しくなり、吐き気を感じる。私は何度も、違うの、と叫び続ける。止めようと思っても止められない。ただ叫ぶ。驚いた父は、私を宥めようとあたふたする。
「本当に違うの」
もう感情なんて死んだと思っていたのに、どうしてこんなにも心が乱れるのだろう。それでも、私が落ち着いてくると、父がそっと背中を叩いてくれる。
「大丈夫だから、話してごらん」
その言葉が、私の中にゆっくりと落ちる。子供のころから何度も何度も聞かされた言葉だ。私が熱を出したときも、病院に行ったときも、泣いて帰ってきたときも、心配ないと言外に含んで私を迎えてくれる。父はその道のプロだ。私なの、と私は言う。父の目は、何を言っているのか分からないようだが私は溢れてくる言葉を止めることができない。
「私なの。晴美の家に火を点けたのも、そこで起きたことは全部」
父は黙り、私を見る。それは、理解できないというより、信じられないという表情だ。そうだろう。信じられるはずがないことを、私は言っているのだから。
「どういうことだ?」
「何でもない、忘れて」
私は隠れるように寝転がり、布団を被った。しばらくそうしていると、父の立ち上がる音が聞こえる。布団を被っていても聞こえる声で、明日、と続ける。
「迎えに来る。一緒に帰ろう」
震えた声が消え、父は病室を後にする。どうして私はあんなことを告白してしまったのだろうと思うが、最後の父の言葉は温かかった。私の、帰る場所がある。それだけで、嬉しい。いつの間にか左目から涙が溢れている。
涙が収まり、布団から顔を出すと、すでに窓の外は赤く染まっている。私が外の夕焼けを見ていると、病室がノックされる。どうぞ、と返事をすると、藤沢健太が、気まずそうに入ってくる。彼は椅子まで来ると腰かけ、視線をせわしなく動かしている。多分、私の視線も同じだろう。彼を直視できない。竹内舞子に、彼と付き合っていたと聞いてしまい、私の胸はきつつきのように鳴っている。
「元気、そうだな」
ぶっきらぼうな言葉を彼は放つ。そういえば、前の病院にお見舞いに来てくれたときも、彼は同じような言葉を掛けてくれた。私は頷き、ありがとう、と答える。
「退院、すぐできるそうだな」
「うん」
「よかったな」
それで会話が終わってしまう。気まずいけれど、だからと言って、私から話すことが見つからない。それに、私が眠りに落ちたのは中学三年のことで、それ以前の記憶は、ボーイッシュで負けん気が強く、男の子たちと遊んでいた記憶しかないわけで。その中でも、彼と仲がよかったのはなんとなく覚えているけれど、彼と恋愛をしたなんて、とても大切なのだろうけれど、申し訳ないが覚えていない。
「覚えてないんだって?」
私の心の中にちょうど応じるように、彼が頭を掻きながら聞いてくる。けれど、それが何を指しているのか、私には分からない。
「うん、何も」
「そっか」
少しがっかりしたように見える。けれどそれは一瞬で、すぐに笑顔を戻すと彼は続ける。
「俺、お前が病院からいなくなってすぐにさ、晴美んとこ行ったんだぜ。なのにさ、あんとき晴美と彼氏にはお前のことなんて知らないって言われたんだ。実際嘘付いてるように見えなかったし、まさにそんとき、お前あそこに居たんだよな」
私は顔を上げる。あの日、私だけ晴美の部屋に残されて、一体何を話していたのだろう。
けれど、彼は続けて、晴美を救ってやれなかった、と言う。私はその言葉に面食らう。救う……そういえば、私はみんなに救われてきたのに、私は一体何をしてきたのだろう。ずっと伏せていて、結局はみんなに迷惑をかけて。
「あいつ、あんときにはさ、もう決心してたんだよな」
晴美は、多分私を連れ出すとき、否、もっと前から決めていたのだと思う。彼氏をもだまして自分の家を燃やすことを、葛藤もなしにできるはずがない。どうして、私は気づくことできなかったのだろう。彼女からの助けて欲しいというメッセージは、何度もあったというのに。何度も彼女は謝って、壊れてしまいそうなほど弱くて。私が、一番悪いんだ。
「俺が晴美の実家に着いたときには、もう家は燃えていて」
彼は、家の前に今にも倒れそうな私を発見したらしい。私を支えて、周りの人にお願いして、私を病院に送って、それから彼は燃えている家の中に入っていった。二階の窓から晴美の立っている姿が見えたからだと彼は言う。普通できない。とにかく、彼はそこで彼女を叩いて無理やり連れ出した。おそらく晴美はそこで死ぬ気だったのだろう。放っておけないと言ったときの彼の瞳はきれいで、純粋に惹きつけられる。多分、私と違うから、私と正反対だから惹かれるんだと思う。そう思うと、私が彼を好きになった理由分かるような気がした。
「て、何そんなに見てるんだよ」
ついじぃっと見つめてしまい、彼が視線を外す。私はごめん、と謝る。私は俯く。自分が何と小さくて、弱々しいのか。彼の前にいると、余計に際立ってしまう。いつの間にか左目から一滴、涙がこぼれる。彼も気が付いたようで、ポケットからハンカチを取り出した。私はありがとうと言って、ハンカチを受け取った。そのとき、晴美とは比べられないほどの温かさが、私の中に染み込んできた。
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