現実8-2
ああ、そうなんだ。
私は、ただ寂しかったんだ。
ただ、温もりが欲しかったんだ。
……誰でも、よかったんだ……
涙は止まりそうにない。藤沢健太も困ってしまったようで、ただ私が泣き止むのを待ってくれている。私は何度も大丈夫だと言うが、止めどなく溢れてくる涙を、自らの意思で留めることもできず、けれど泣き止まない限り、彼もこの場を離れようがない。私は無理に笑おうと、彼の顔を見る。涙に揺れて、彼の顔が半分ゆがんで、少しだけ面白い。彼の目がじっと私を見ている。驚いているようで、けれども不安そうに。彼の口から、お前と、震えた声が聞こえる。私がどうしたのと首を横に傾けると、彼の左手が私の右目に迫ってくる。そして、優しく私の右ほおに触れる。
「そう、なんだ。そう、だよ、な」
やたらとゆっくり、彼は何かを納得したように言う。私には、彼が何を納得したのか、分かりようもなかったが、それでも彼の温かい手が私の右ほおに触れたとき、彼が驚いた表情をした理由が分かる。
私の右目からは、一滴の涙も流れていない。いつからだろうか。私が目覚めて、果たして何度泣いただろう。けれど、その度に左目からしか涙が流れていない。それに、繰り返し見るあの夢の中でも、思えば泣くときは左目だけだ。どうしてだろう、と、不安が私を襲う。まるで、右目が感情を失ってしまったように、私の心の映さなくなったのは、どうして?
「俺、帰るわ」
健太は立ち上がる。行かないで、という私の叫びは声にならず、けれど、彼の表情も辛そうに見えた。
彼が帰り、それからずっと私はベッドにうずくまっていた。看護婦が来て夕食を食べるように言ったが、とても食べる気になれない。食べたくないものを食べるように言われても無理な話で、看護婦は点滴を私に打った。これで栄養を補っているのだろうが、私にはなんだか体内に異物を入れられているような気分になり、何度も吐きそうになる。
その都度、涙が溢れる。
結局、自分は何もできないし、何も分からない。健太が何を言っていたのかも分からない。私は自分のことさえよく分かっていないというのに、どうやったら他人の気持ちが分かるのだろう。安藤さやかを思い出す。彼女は、私と一緒に乗り越えようと言ってくれた。彼女が何を考えていたのか分からない。松田晴美を思い出す。彼女の考えていることなど、考えてあげる余裕もなく、彼女にあんなことをさせてしまった。全部私が悪いのに、気が付いてあげられる立場にいたというのに。晴美の父を思い出す。彼が自分の父でないことなど、一目見て気が付いたはずなのに、私は自分の記憶のせいにして、気づかなかった。彼が何を考えているのか分からずに、ただ私は後悔する。前田春樹を思い出す。大人のようで、視線も高く、落ち着いているように見えたけれど、何を考えているのか、彼こそさっぱり分からない。
分からない。
私は何も分からない。どうして、私の右目が感情を失っているのか。どうして、左目からは止めどなく涙が溢れているのか。何も分からない。私が壊れてしまったから? 否、壊れてしまったなんて言い訳にすぎない。私は壊れていない。ただ逃げているだけ。
そうだ、私は逃げている。真実から。あらゆる真実から、怖いからと、逃げているだけ。そう気が付くと、涙が止まった。逃げているだけでは、何も解決しない。私は左目に決意を込める。
けれど、右目は空ろのままだった。
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