現実7-2
私の頭が一瞬真っ白になる。前田春樹は今、なんと言った?
「晴美、の?」
私の驚いた言葉を受けると、彼は再び大きくため息をつき、首を横に振る。
「やはり、それさえも分かっていなかったんだね」
「だってあれは私の」
「晴美の、実家なんだよ」
私の言葉を遮って彼が断言する。
「そして、晴美には自分の家を放火するに足る、動機がある」
私は耳をふさぎ、首を何度も振る。頭が想定していなかった事実に、ぐらぐらと揺れる。聞いてはいけない。全てを聞いてしまえば、私は壊れてしまう。そんな、恐ろしい、けれども懐かしい恐怖に襲われる。
私が落ち着くまで、彼はそれ以上話を進めない。私は彼にお願いし、上半身を起こしてもらい、壁にもたれる格好になった。そして、聞くのは怖いけれど、聞かなければならない話を聞く心の準備をする。彼は、今日は帰ろうか、と提案したが、先延ばしにしてはいけないことだと、分かっている。彼は私の覚悟を感じてくれたのか、唇を結び、今度はしっかりと私の目を見る。
「前、ちょっと話したよね。晴美、昔いろいろあったって」
晴美から聞いた話と重なるように、彼は自分がカウンセリングをしていたことを話す。私は、彼女から聞いたその理由をはさむ。
「確か、晴美、登校拒否、してたんですよね」
「ああ、知っていたんだ」
「はい。それに、登校拒否、まだ治ってないって」
「……気づいていたよ」
寂しそうに彼は続ける。考えてみれば、彼はカウンセリングを専門に勉強をしているのだから、彼女が嘘を付いていることぐらいすぐに見抜けるのだろう。知っていながら、気が付いていない振りをしていたのだろう。
「元は友人の紹介だったんだけど、彼女がね、偶然、俺が院で勉強していたことを知っていたのか、声をかけてきてね」
彼の瞳が遠くを見る。それでも、彼女と一緒に居られたことを嬉しく思っているような、そんな遠い瞳だ。私は、晴美が部屋に来て一緒に眠ったことを思い出す。普通の様子ではなかった。私は彼女の温かさに優しさを見ていたが、それは寂しさや悲しさの裏返しだったのかもしれない。彼女は何度も謝っていた。弱くて、崩れてしまいそうで、それでも気丈に振舞って。そんな緊張の糸が切れてしまったときの姿を見せたくなかったから、私に助けを求めにきたのだろう。
「それで、何で登校拒否になったのか、それが晴美の心に根付いている問題なんだ」
彼の瞳が再び現実に戻る。
「晴美は嫌気がさしてしまったんだ。全てに、生きることに、学校に……家族に」
一つ一つの単語を噛みしめるように、彼は続ける。彼の話はとても難しく、一言一言、慎重に言葉を選んでいる。どうすれば、私が衝撃を受けないか。どうすれば、私が傷つかないか。どうすれば、晴美が傷つかないか。そんな配慮が随所に感じられる。
私は途中反論することなく、彼の話に頷く。その姿が彼にどう映っているのか分からない。けれども、私の中では全く違う意味があった。彼の話は難しいけれど、私からすると単純なことだ。彼の話は、そっくり私のことだ。晴美が、私にしてくれた話そのものだ。つまり、父に襲われたのは晴美。処女を失ったのは彼女。
「晴美には、悪かったと、思っている」
「どうして?」
「本当なの?」
「ああ」
父だと思っていた男との会話は、まさにその通りだ。その彼を殺したいほど憎んでいたのは、彼女だ。果たして、何度彼女に謝られただろう。考えてみると、彼女はとんでもない嘘をついたものだ。私の記憶がないことを利用して。
だとしたら、どうして彼女は最後に罪を被ったのか……そんな疑問は、頭の奥底に沈んでしまい、浮かんでこなかった。彼の言葉も、すでに頭まで届かない。何かをしゃべっているのは分かる。耳が聞いているのも分かる。けれど、ブレーカーが落ちてしまったように、私には何の情報も与えてくれない。ただ、うんと、体だけが反応し相槌を打つ。どれほどの時間が経ったのか分からない。彼が俯いて息を吐き出すのが見えた。それから席を立つと、私の頭に軽く手を乗せる。そして何かを呟き、部屋を後にする。
私の感情は死んでしまった。
予想したとおり、壊れてしまったのかもしれない。心の中心に、松田晴美という名を強く刻み付けて。
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