現実7
現実7-1
目が覚めると、私は見覚えなのない部屋に横たわっていた。室内は幼いころによく嗅いだ薬品の匂いが充満しており、そこが病院であると私に訴えている。次第に視界が落ち着き、カーテンによって仕切られている個室であることも分かってくる。右手はすぐ窓になっていて、そこからは柔らかい光が差し込んでいる。
「起きました」
すぐ近くで声が聞こえる。視線を声がした左に向けると、竹内舞子が口元にコードを伸ばしてそこに向かって話しているところだ。以前見たときよりも髪が伸びていて、全体にウェーブのかかったその毛先は肩にまで達している。
「おはよ、あーみ」
彼女の目は顔の小ささに比べて大きく、一心に私を見つめている。緑色の瞳がここから見ても分かるほど潤んでいて、その瞳に吸い込まれてしまいそうになる。私……私は、何があったのか思い出そうとするが、どうしても断片的なイメージしか残っていない。その断片的な記憶をつなぎ合わせると、私は自分の家に火を放ち、それを外から眺めていた。なんとも矛盾したイメージだ。私が頭を押さえるしぐさをして起き上がろうとするのを彼女が制する。
「まだ寝転んでなきゃだよ、すぐ先生来るから」
「私……」
「あーみ、三日間も眠ってたんだよ」
私は彼女に抗うことができず、再び体を硬いベッドにうずめる。三日間も、と彼女は言うが、その口調は嬉しそうに思えた。三日で目が覚めたのなら、嬉しく思ってくれているのかもしれない。
病室のドアが開き、薄いピンク色をしたナース服を着た看護婦が入ってくる。そのままずかずかと私の近くまで来ると、さっと体温計を取り出す。
「おはよう、よく眠れた?」
少し外れた場所にアクセントがある。彼女は口を横に広げながら、私に体温計をくわえるように促す。それをくわえながらも、状況が理解できず、私の頭の中は混乱している。放火をした私が、なぜここにいるのか。今考えてみると、自分はとんでもないことをしてしまったのだが、それが発覚しているのなら、舞子が座って笑いかけてくれるはずがない。
「前の病院の、安藤看護師、覚えてる?」
カルテに何かを書き込みながら、その看護婦が私を一度見る。安藤さやか。私は疑問を浮かべるように、看護婦を見返した。彼女よりも年上だろうが、まだ二十代に見える。キャップの中に髪をしまっているが、はみ出した数本が、鼻の先まで伸びている。口元は大人しめの色合いの口紅が塗られていて、目に付くほどではない。目元にも薄い青色のアイシャドウが軽く引かれているだけだ。
「彼女、悪く思わないであげてね」
意味が分からなかったが、彼女はよし、と言うと私の口から体温計を取り、またそれをカルテに書き始めてしまったため、私は理由を聞くタイミングがなかった。私は今でも、安藤さやかのことを悪く思っていない。むしろ悪いのは私だ。
「まぁ、ただの疲労だと思うから、しっかり休んどき」
妙なアクセントのままそれだけ言うと、彼女はまた病室から出て行ってしまう。私は舞子を見ると、訳も分からずに微笑んでみせる。彼女もあらためて私を見ると微笑み返す。
「でもよかったね、私心配だったんだから。ううん、私だけじゃないし。美枝も楓も透も、健太だってみんな心配合戦だったんだから」
私は頭を動かすようにして、彼女を見直す。今挙げた名前の中に、前田晴美がない。
「一番心配してたのが健太。ちょうど現場に居合わせたみたいで、彼がいなかったら、あーみ、長いことあの場所に倒れてたかもだよ」
藤沢健太、確か、髪の短いスポーツマンだ。彼女は指を立てて説明をし、感謝しなさいと言わんばかりだ。そうなんだ、と私は相槌を打つ。そういえば彼は、前田春樹の家に来た。一体何の用があったのだろう。そう思い返していると、彼女がぐっと私に迫ってくる。
「それでねぇねぇ、あんたたち、まだ続いてんの? 友達として、そこんとこはっきりさせときたい訳よ」
私は彼女が何を聞きたいのか分からず、眉間にしわを寄せると、疑問いっぱいの目で彼女を見る。
「何が?」
「何がって、何が」
彼女は私の質問をそのまま返すように言い、姿勢を元に戻す。それから、口元に人差し指を当てると、今度はその指をまっすぐ私に向ける。
「もしかして、忘れてる?」
返事をしなかった私に、彼女は大きくため息をつく。そして、もう一度私に顔を近づける。
「あんたたち、付き合ってたはずなんだけど」
私の頬が一気に熱くなる。付き合っていた? て、当時私たちは中学の三年だったはずだ。それに私は、どちらかというと男の子っぽかったし、そういうのに興味なんてなかったような気がするのだが……それに、はずってことは、どういうことだろう。私の頭が、さらに混乱する。
「かわいー。真っ赤になってる」
「わ、私……そ、そんなことより、晴美は?」
私は顔を窓側に向けると話題を変えるように、晴美の事を聞く。けれどその瞬間、笑っていた彼女の声が消える。横目で彼女を見ると、え、と不思議そうな顔をする。私は彼女のその表情に驚き、何、と彼女に聞いた。
「そんなことっての、ちょっとひどいんじゃないかな」
「晴美は? どうしたの」
ごまかすように視線を外した彼女に私はもう一度聞く。彼女は困ったように右手を首の後ろに持っていくと、高いうなり声を漏らす。目を閉じ、何かを考えているようで、私は自分がした質問に不安を覚える。彼女は薄く目を開けると、視線をずらしたまま口を開く。
「晴美は、元気、だよ。ただ、今は会えないだろうけど」
晴美に何か起きたのだろうか。確か彼女は、私と別れて前田春樹の家に戻ったはずだ。その途中で、何か起きたのか。と、自分で考えて笑ってしまう。何かとは、何だ? 結局考えても分かるはずもないので、私は舞子に、どうして会えないのかを聞いてみる。彼女はさっきまでの明るい調子はなく、小さな声で頷く。そして、分かったと言うと、意を決したように、私の視線とまっすぐ合わせる。グリーンの瞳が一層潤み、今にも涙が落ちてしまいそうだ。
「言うよ。今、晴美は警察で取調べを受けてる。多分、精神鑑定とか、やるみたい。といっても、私も詳しいことまでは分かんないけど」
「どうして?」
「晴美、自首したんだよ、私がやったって」
「何を」
「放火。責任能力があったのか、調べるみたい。もちろん未成年だから、いきなり刑務所ってことはないだろうけど」
彼女もよく分かっていないというのが本音のようだ。ニュースや新聞も未成年による事件であったためか、詳しい経過を報道していない。十六歳少女、放火。といった、簡単なテロップと同じような説明文しか知る手段もないし、噂が一人歩きしているかもしれないと、彼女が順に説明してくれる。
けれど、私の疑問はまったく別のところにある。どうして、彼女が放火の犯人なのか。私の断片的な記憶では、台所にガスを充満させ、父の部屋でマッチを使って火を点けたのは私だ。私が何か思い違いをしているのか、彼女が私を庇ってくれているのか、頭の中がぐるぐると回り出す。
ああ、この感覚を思い出すのは辛い。目覚めて最初に起き上がったときと同じ目眩だ。脳に不順物質を入れられているようで、考える意思を奪われる。私が額に手を持っていき、何とか落ち着こうとしていると、病室に別の見舞い客が入ってきた。
前田春樹だ。彼は私が横になっていた一番奥のベッドまで来ると、私を見下ろすように立つ。その表情は恐ろしいくらいにやつれていて、ひと目で疲れているのが分かるほどだ。彼は、舞子に目配せをし、すまないが、と断る。彼女もその意図を理解したのか、はい、と返事をすると席を外す。
「また、ね」
彼女は、無理に明るい調子で、私にそう言ってくれた。私の目眩がようやく治まってきたころ、彼は先ほどまで彼女が座っていた椅子に腰かける。短いのに関わらず、彼の髪はひどく乱れている。眼鏡の奥には、死んだようにうつろな瞳が、ぼんやりと浮かんでいる。服も、スーツのようだがしわが集まり、もしかしたら数日変えていないのかもしれない。否、それどころか私が眠っていた三日間、彼は一睡もしていないのではないか、とさえ思えるほどだ。
沈黙が怖かった私は、あの、と彼に目を向ける。その声にびっくりするように、彼は肩を震わせる。
「何で、晴美?」
彼は大きく息を吐き出すと、それから首を横に振る。そして、小さくすまなかったと声に出した。私がまるで理解できないと彼を見つめていると、懐のポケットから彼は紙切れを取り出した。私はそれを受け取る。どうやら新聞の切り抜きのようだ。
「君が、我が家に来て翌々日の朝刊だ」
思い出してみると、私は一日目の朝刊しか見た記憶がない。それから二日目以降は、新聞なんてどこにもなかった。もともと新聞を読む習慣もなかったから、なくても気にならなかったけれど。彼は、隠していたと、正直に言う。私は新聞記事に目を通す。
十八歳少女失踪。
……K市にある第二市立病院別館C棟において、少女(18)が忽然と姿を消した。翌朝シーツを変えに病室に入った看護師が少女がいなくなっていることに気が付き警察に連絡を入れた。現場は一階であり、窓が開いていたこと、また争った形跡がないことなどから、警察は失踪事件として捜査を進めている。しかし、関係者の話によると、少女の病気はまだ治っておらず、一人で遠くまで行けるはずがないということもあり、第三者が事件に関与している可能性もある……
この少女というのは、私のことなのだろう。そして、第三者は松田晴美のことだ。警察が私のことを捜していたなんて、考えもしなかった。
「君には、すべてを知ってもらわなければならない」
私と彼の間に、重い空気がある。それは、彼がこれから話そうとしている内容を、あらかじめ予兆しているかのような、ずっしりとしたものだ。私の本能は、あまりいい話ではないと悟っている。けれど、彼はゆっくりとした調子で、話し始める。
「まず、放火のことだが、君は何も心配する必要がない」
「どうして?」
間髪をいれず、私は彼の目を睨む。彼の目は、まだ空虚を泳いでいて、ふらふらと震えている。
「晴美が、火を放ったからだ」
「嘘」
「君がそう思ったとしても、それが事実だ」
膝に手を付き、彼はがっくりと頭をもたげる。そう思ったとしても、という彼の表現が、私に真実を教えてくれている。家に火を放ったのが晴美だというのは嘘だというのに、犯人は晴美だと彼は言っているのだ。私の疑問に答えるように、彼は続ける。
「君には放火をする動機がない」
私は彼から視線を外すと、窓をみて口を締める。私には動機がある。
「君が晴美からどう聞いたのか分からないが」
私には動機があると、心の中で叫ぶ。
「君が晴美の家を燃やさなければならない理由がない」
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