現実6-4

 心臓から出発した血液が、全身へと行き渡る。それと同時に、全身へと感情がお送り込まれる。悔しさだろうか、切なさだろうか、それとも怒りだろうか、憎しみかもしれない。一つではない、複雑に絡み合う感情だ。男の声は震えている。驚くほどに震えていて、その外見とは異なり、何とも弱々しい。

「晴美には、悪かったと、思っている」

 つむぎ出す言葉は、途切れ途切れで、けれど真に迫っている。けれど、私にはなぜ彼が松田晴美に対して悪かったと思っているのか、理解できない。全く見当はずれな謝罪だとしか私には思えない。

「どうして?」

 自分が発した声も、驚くほど震えていて、自分のものではないみたいだ。彼の言葉の合間を縫って私に言えたのは、単純すぎる質問だったが、それでも十分に内容を伝えることができたはずだ。男はため息のように息を長く出すと、両手で頭を抱え込み、うめき声を上げる。理由を聞くのは、あまりにも酷かもしれない。

「本当、なの?」

 男の態度に、私の頭は大きく揺さぶられる。言葉こそ少ないが、私が冷静でいられるはずもなく、内容を客観的に判断などできようはずもなく。それでも私の奥にいる私が、目の前の男の存在を許さないと主張する。

「ああ」

 さらに悲痛な声で、男は答える。私は自分の左目から涙が流れているのを感じる。けれど感情はない。ふぅんと、何とも間の抜けた相槌を私はす返す。つまり、私はこの男に犯されたのだ。実の父だというのに。記憶がないにも関わらず、涙が止むことはない。

「すまなかった。許してくれ」

 男は同じような謝罪を繰り返す。私の頭の中を、冷静さと激しさが互いにせめぎあう。正気と、狂気が、順に私の意識を支配する。すぐにでも行動を起こそうという私と、一度じっくり考えようとする私が、一時の間に何度も入れ替わる。涙が止まったとき、私の混乱も自然と止む。

 私に巣食ったのは、狂気だ。

 狂気が、私を支配し、私は、動く。

 すぐにでも、この、瞬間を逃してはならない。

 動け、動け、すぐに、動け。

 


                     白に


      赤

                  広がる

                         広がる

 赤

         赤     広がる            赤

      赤            赤              赤

           赤        赤  広がる   赤

  赤            赤            赤



 私は台所に立っている。見覚えのある台所だ。小学生のときに、晴美と一緒にクッキーをよく作った台所だ。私はシンクに手をかけて立っている。いや、手をかけないと倒れてしまいそうなほど私の体は疲れている。シンクの中には、今私が吐いたのであろう液体と、鳥の文様の施された包丁とが、私をあざ笑うように漂っている。水を流そうとしたときには、新たな吐き気に襲われる。けれど、口から出てくるのは、ひどく汚れた赤い血だけだ。胃の中にもはや何も残っておらず、それでも襲ってくる吐き気は喉を傷つけ、まずい血だけをシンクに吐き捨てる。蛇口からようやく水が流れ、排水溝へ私の血を流してゆく。流れる水は、正面から入ってくる光を反射している。いつの間に傾いたのか、太陽はすでに低い位置にあり、窓から見える空も赤くなっている。

「空が照れて赤くなるんだって」

「晩霞だよ。恥ずかしいから、霞を立ちこめて」

 晴美と交わした会話が遠い昔のようだ。赤くなったのは、処女を犯されたから。あれは鮮血だったんだ。私は再び吐き気に襲われる。私の吐き出す血は、もはや穢れて醜い。

「歩おねーちゃん」

 振り返ると、晴幸が立っている。その顔は涙に濡れてぐしょぐしょだ。彼は私に走りよってきて、泣きながら私の胸を叩く。

「どうして?」

 どんどんと叩かれる。ちょうど私の胸の高さで叩くものだから、私の胸はその度に激しく痙攣する。けれど、私に理由を答えることはできない。何を聞かれているのかさえ、分からない。私は無理やり彼を抱きしめると、それ以上叩けないようにする。それでも、彼の嗚咽は止まない。まるで堰を切ったダムのように、延々と彼は私の胸に顔をうずめて泣き続ける。私の胸も苦しくなってくる。私は一層彼を強く抱きしめる。

「大丈夫だから」

 彼に囁きながら、必死に自分に言い聞かせる。

「大丈夫だから」

 何度も何度もそう囁きながら、私の意識は再び遠のく。

 


                       冷たく

 熱い

            燃えているのは

      何が

                  熱さだけは

          冷たい

   熱い                      熱い   熱い

            熱い          熱い

      ゆっくりと

                              熱い

    熱い         熱い

       燃えている          燃えている



 太陽は完全に沈み、室内に入ってくる光は道路を照らす街灯と隣の家の明かりしかない。わたしは、暗闇の中に立っている。次第に目が慣れてくると、そこが寝室のようだと分かる。中央に置かれたベッドが微かな光に白くそう主張している。そして、そのベッドの上には男が横たわっている。一瞬死んでいるのではないかと思ったが、わずかに動く胸が彼の息づかいを主張している。

 私はゆっくり近づき、その顔を見る。眉間にしわを寄せ、しっかりと目を閉じている。深い眠りに落ちているのだろう。私は足に力を込めることができず、そこに崩れ落ちた。両手でベッドに手を付き、体を支えようとする。私の衝撃に、ベッドが激しく振動する。それに合わせるように男が体を痙攣させ、うわ言をもらす。

「止めてくれ」

 聞き覚えのある声だ。彼は体を震わすと、再び深い眠りに落ちてゆく。止めてくれ。そう叫びたいのは私のほうだ。否、何度も叫んだはずだ。それを聞かなかったのは、この男なのだ。

 もう止めることはできない。準備は整ったのだから。

 私は微笑む。

 右手に何かを持っている感覚があり、あらためてそれを見ると、ライターだ。父の書斎に置かれていて、葉巻に火をつけるためのライター。私はそれを割ると、中の液体を毛布にかける。そして、左手に握られているのはマッチ。これで火を点ければ、少なくともこの布団は燃え上がる。それに、もう少しだけ火の気が強まれば、隣の台所にはガスが充満している。

 準備は整っている。

 私に巣食ったのは狂気だ。

 私はマッチを握り締め、火をつけるために指を動かす。

 それと同時に、私の意識は再び失われる。

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