現実6-3

 私は、ある家の裏口に連れてこられる。そこがどこの家だったか思い出せなかったが、昔から知っている家だというのは確かだ。裏口であるにもかかわらず、私はこの裏口を何度も利用していた。表に回るより時間がかからないと知っている。

「ここ、あーみの家だよ」

 松田晴美の答えが、私の予想が的中していたことを教えてくれる。私の家。裏口は狭くて一人ずつしか入れない。表に回れば大きな玄関があったはずだ。玄関からは石畳が続いていて、門に続いている。けれど、大きいから表へ回るのが億劫になるのだ。私は、頷くと裏側から家を見つめる。自分の心臓が激しく打っているのが分かる。

「あーみ、辛いかも知んないけど、これは、避けられないこと、だから」

 言葉を区切りながら、ゆっくりと彼女が説明してくれる。もう一度、私は頷き、自らの手を左胸に当てる。

「私が先に行って、いるかどうか確かめて来るから、ちょっと待ってて」

 彼女は言うが早いか、裏口から家に入っていく。私はその光景をただぼぅと見つめている。いるかどうか、それは、父のことだろう。避けられる問題ではない。私が私を取り戻すために、父との問題はしっかりと解決しなければならない。父が一体私に何をしたのか。あまり考えたくないことだが、どうしても私にとって必要なことだ。きっと彼女も、昨日のことはまだ確信が持てないことなのだろう。

 しばらくすると、彼女が戻ってくる。そして大きく息を一つ吐くと、私の肩に手を置き、いるよ、と伝える。肩から彼女の温もりがひしひしと伝わってくる。私を救い出したい。ずっと前に私に言ってくれた彼女の言葉の意味が、ようやく分かった気がする。

 私が意を決し、その家をもう一度見上げたとき、晴美のショルダーバックから明るい音楽が響く。さまざまな音色がお互いに旋律を譲り合い、鳴っている。私は彼女が取り出すまで、それが携帯電話だと気が付かなかた。彼女は携帯のボタンを押し、少しばかりばつが悪そうな顔をこちらに向ける。

「もしもし。何? は?」

 電波が悪いのか、彼女は何度も話の内容を聞きなおしている。

「何で、今忙しいのよ……だから、何で?」

 私は他にすることもなく、盗み聞きするのは悪いと思ったが、耳に入ってくる彼女の声を聞いている。けれど、聞こえているのは彼女の声だけで、まるで内容は分からない。電話の相手が何かを言い、それが納得できないのか、彼女の声には苛立ちが混じっている。

「話は分かるけど、そんなの理由になんないでしょ」

 私はもう一度家を見る。憎々しいほどに眼前に広がり、私を押しつぶそうとするように建っている。負けてしまえば、私は二度と立ち直ることができないだろう。

「はいはいはいはいはいはい」

 そう、負けるわけにはいかない。

「ごめんね、あーみ」

 話が終わった彼女が、携帯電話をショルダーバックにしまいながら、片手を顔のところに立てて謝る。私は彼女を見ることなく、家をまっすぐにらんだまま、首を横に振る。彼女は悪くない。彼女の手が、私のワンピースについているポケットに触れるのを感じる。

「私、急用ができちゃって、家に帰んないといけなくなっちゃったの」

 ポケットに触れたのは、お金を入れるためだった。彼女は、どうする、と私に聞くがどうするも何も、私はもう引き返すことなどできない。今、逃げ出すことはできない。私は彼女を振り返ると、口だけで笑ってみせる。

「分かった。帰り方、分かる?」

 私が頷くのを確認すると、彼女は足早に来た道を戻っていく。彼女の姿が視界から消えた後で、私は裏口からその家の敷地に足を踏み入れた。整えられていない草が長く伸び、わずかに見える土の上を進み、表玄関に回る。大きなつくりの玄関にインターフォンがあり、私はそれを押した。音が響いている間、私は玄関の前に立ちすくむ。玄関には木でできた柱に支えられた雨よけの屋根があり、下には二匹の狛犬のような置物が小さく置かれている。たくさんの装飾が施された玄関の一部分の、中が見えないように曇ったガラスに人影が見えると玄関が開いた。

 玄関を開けたのは、まだ十歳くらいの男の子だ。髪の毛は短く刈られ、白いTシャツには三本の赤い縦ラインの入った黒のハーフパンツを穿いている。TシャツにはGood Boys to Heaven Bad Boys to Hellと、合っているのかよく分からない英語が書かれている。目はまだ幼いためか大きく見開いており、口は驚いたように尖っている。その様子が、少しだけ晴美に見ているように思えた。

「歩ねーちゃん!」

 その男の子は私のことをそう呼んだ。私のことをお姉ちゃんと呼び、この家にいるのだから、当然私の弟だ。記憶を探ると、確かに彼はいる。私が小学生のころに、まだ幼稚園かそれ以下の男の子の記憶。可愛くて仕方なくて、よく彼の相手をしていた。けれど、どうしても自分に弟がいたという記憶がない。それが悔しくて、彼に申し訳ない。

「とにかく、上がって」

 彼に手を引かれ、私は玄関から中に入る。玄関は広く、大きな一つの部屋となっている。前面には二階に続く階段と扉が二つ。左手にも扉が二つ、右手には奥に続いている廊下と、扉が一つある。彼は裸足で出てきたようで、とんと跳ねるように玄関から床にあがった。

「歩ねーちゃん来たよー」

 奥に向かって叫びながら、彼はふわふわの緑色をしたスリッパを用意してくれる。私は彼の好意を受けて、サンダルからスリッパに履き替えた。あらためて部屋を見ると、やけに高い天井からぶら下がっているのはシャンデリアだし、左手の壁には、扉と扉の間に絵が飾られている。美術の教科書に載っていた絵と同じだ。暗い闇の中で、何十人もの兵士が立っていて、これから戦争が始まるのか、光の当てられた彼らの表情はどれも神妙だ。

「こっち来て」

 彼は右手側にあった扉の前に立っている。私は名残惜しくその絵から目を離すと、彼の近くへ移動する。彼が扉を開けて、さらに中に案内してくれる。奥と右手二面を大きな窓に囲まれ、太陽の光が溢れんばかりに入り込んでいる。私とちょうど対角線上の角には、一メートルくらいの高さの台と、その上に花瓶が飾られ、色とりどりの花が生けられている。

「ちょっと、そこのソファーで待っててね」

 彼は言うが早いか扉を閉めて、足音を響かせる。ソファーは部屋の中央に置かれたガラスの瀬の低いテーブルの周りに二つ向かい合うように置かれている。こげ茶色をしていて、クッションが晴美の部屋にあったベッドよりも柔らかそうに見える。私は入って右手の、窓側にあるソファーに腰かけた。そこから正面には黒く艶やかなピアノが置かれていて、その上には古くはあるが手入れの行き届いている人形が数十体座っている。座って左手の、入ってきた扉側には大きな本棚が置かれていて、「昭和史」「戦争と平和」「源氏物語」など、かなり厚い本がたくさん並んでいる。さらにその本棚の隣の窓の近くにゴルフのセットが置かれていて、それで取ったのであろうトロフィーや賞状が本棚の上や、部屋の壁面のいたるところに、場所が足りないと言わんばかりに並べられている。

 けれど、どれだけそれらを眺めていても、私の記憶はよみがえりそうにない。私の父がゴルフをしていたという記憶もない。どれも見覚えがあるようで、ないような、自分でも確かだと言えない、微妙な感じがする。緊張が私を支配しているせいかもしれない。私の精神はすでに疲れてしまっている。

 結局、父との対話なくして答えを得られようがない。もしかしたら家の中で何かを思い出せるかもしれないと思っていた私の考えは、あまりに早く崩れ去ってしまった。いや、早く崩れてしまった方がむしろよかった。私は自らの気持ちを落ち着けようと大きく息を吸う。それから左胸に右手を当て、早鐘の鼓動が落ち着くよう祈る。

 そうして、二、三分待つと、左前にあった扉が開いた。背の高い男が入ってくる。身長は百八十を越えているだろう。体格もそれに見合って大きくがっしりしている。地味な深緑色の半そでのシャツから、筋肉がしっかりと付いた腕が伸び、少し見えた手の甲にはかなりの毛が生えている。顔からは先ほどの少年の面影を見ることが出来る。もちろん、少年に比べ堀が深いし、口ひげも立派に生えている。一目見て、厳しい人だと感じる。

 私はとっさに立ち上がると、彼の顔を睨む。

「まあ、座りなさい」

 それを制するように手を前に伸ばす。彼の声は低く、けれど震えている。私は失礼しますと断り、まるで他人行儀に、再びソファーに腰を下ろす。彼を見ても、父の記憶がよみがえることはない。そもそも、私に父との思い出など少なかったような気がする。いつも家を空けていて、年に数回しか帰ってこなかったような。そんなおぼろげな記憶が一瞬頭を掠めるが、目の前の彼に、自分の父親の面影を見ることは、まるでできない。悔しい。彼が私の向かいのソファーに腰を下ろすと、失礼します、と女性の声がし、再び扉が開けられた。トレーにティーセットを持った女性がお辞儀をする。目の前の男よりも若く、おそらくまだ四十に達していないだろう。きれいに整えられた黒髪が後ろに束ねられ、全身に黒い服をまとい、エプロンをしている。住み込みのメイドだろうか。けれど、彼女の後ろに先ほどの少年が隠れるように立っていて、時々こちらの様子を覗っている。どことなく、その少年に似ている顔をしていて、おそらく、この女性が彼の母親であり……つまり、私の母。彼女はテーブルにティーセットを置くと、私と彼の前にそれぞれ紅茶を注いだ。

「晴幸を連れて行っておいてくれ」

 彼はそう女性に告げると、彼女は一言、はいと返事をし、駄々をこねている少年を連れて部屋を出る。そして、扉が閉まり、私と父は二人きりとなる。




 ……。

 長い沈黙が続く。

 それは、そのまま二人の間に流れている気まずい雰囲気そのものだ。私はそれをごまかすように、先ほど注がれた紅茶のカップに手を持つ。彼も、それに合わせるように、カップを手に持ち、口をつける。味は分からない。それでも、温かい液体が私の喉を通じて体内へと入り込んでくる。そして胃に到達すると、まるでタイミングを計っていたかのように、彼は口を開く。

「用件は、だいたい、想像がついている」

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