現実6-2
私は今日、松田晴美と出かけることになった。半ば強引に彼女が提案すると、前田春樹の反論を勢いでかき消してしまう。私もずっと屋内にこもっていたし、外の空気を吸いたかった。部屋の中で、私は昨日彼女が買ってくれた服に着替える。ノースリーブの黒いワンピースに、長袖の白く透けている服を上から羽織る。ワンピースの丈は膝下まであり、ずいぶん自分が大人びて見える。髪は彼女に梳いてもらい、ムースのようなものをつけて、外に跳ねるようにみせる。さらに明るい茶色の付け髪をアクセントに付けて、まるで自分じゃないように思えるほどだ。
対して晴美は、水色のキャミソールに、私と同じように透けている長袖のカーディガンを羽織る。ただ、彼女のものは白ではなく、かなり薄い水色だ。スリットの入った短い黄色のスカートを穿き、髪をアップで後ろにまとめ、赤い付け髪を同じように付ける。それから目にはエメラルドグリーンのコンタクトをし、それがまたとても似合っている。
二人で出かける挨拶をしにダイニングにいる春樹のところへ行くと、彼は口を開けて言葉を失う。
「じゃあ、行ってくるから」
「お、おおう。馬子にも衣装だな」
「何をー!」
失言と気が付き、彼は口をとっさに押さえる。それから迫ってくる晴美を抑えるしぐさをし、困ったような視線を私に向ける。私に向けられても、私の方が困る。それにどう考えても彼が悪い。
「何を着ても、似合う人には似合うのだな、と」
「それじゃあ、着てるものがダメみたいじゃん」
一度深みにはまるとなかなか抜け出せられないようで、彼も何度も言葉を変えてほめようとしているが、すべて彼女に言い返されてします。少しずつ彼女に押されて後ろに下がっていく様子がおかしかった。私は助け舟を出そうと二人に近づく。
「まあ、いいじゃない」
「ダメよ、甘やかしちゃ。すぐに調子に乗るんだから」
一瞬だけこちらを見ると、彼女は再び彼に文句をつける。
「あー、うん、悪かった。悪かったよ」
彼は新しいほめ言葉を捜すことをやめ、両手を合わせると頭を下げる。心がこもっているように思えなかったが、彼女には十分だったようで、満面の笑顔になる。
「そうそう、最初にそうすればいいのに。それじゃあ、行ってくるから」
そのままの表情で彼女は私の腕をとる。私は勢いに後ろ向きで連れて行かれながら、彼に会釈をする。疲れたように笑った彼の表情が印象的だ。片手を挙げて、行ってらっしゃいと言った彼はその場に座り込んでしまった。
玄関で彼女にサンダルを渡されるとそれを私は履く。真っ白で少しヒールが高く、あまり慣れた履物ではなかったが、一層大人びて感じ私は嬉しくなる。彼女のサンダルはやはり桃色で、かわいらしい花のアクセントが付いている。二人揃ってそのままマンションの外に出ると、柔らかい春の日差しが落ちてくる。
「どこに行きたい?」
彼女はマンションを出てからずっと私の手を握ってくれている。彼女の温もりがそこから伝わってくるし、最初から私は彼女のその暖かさが好きだった。私はどこに行きたいかなんて考えていなかった。どこへでも、彼女が行きたいと言えば行くし、連れて行ってくれるところについてゆくだろう。彼女もそれを分かってくれているようで、私が答えなくても変わらず手を引いてくれる。私と彼女は、マンションの正面を走る広い道路と街路樹で隔たれた歩道を歩いている。日曜日だというのに、多くのトラックが走っているし、歩道には足早にあるくサラリーマンもいる。同じような建物が並び、コンビニやスマホショップの文字が見える。そこをカップルが歩いていたり、大学生風の男が自転車をこいでいたりする。何てことない、普通の、風景だ。
私が周りをきょろきょろと見ていると、ふと晴美が立ち止まる。歩道の途中にひさしとベンチがあり、隣にバスの看板が立っている。今度は私が、どこに行くのか彼女に尋ねる。彼女は私の手を離すと、そのバスの時刻表を見ていて、私の質問には答えてくれない。
「私、お金、持ってないよ」
「そんな心配、しなくて大丈夫だよ」
不安そうに彼女を見た私を、彼女は振り返ると声を出して笑う。彼女は肩から提げている黒いショルダーバックを軽く叩く。
「でも」
「大丈夫」
彼女はそこにあったベンチに腰かける。それから足を伸ばすと、指を組んで上に上げ、思いっきり伸びをする。私もそれにならうようにベンチに座る。そのタイミングを待っていたように、いい天気だね、と彼女は空を見上げる。私も空を見る。吸い込まれるような青だ。きっと地平線の見える草原で寝そべって、この空を見上げたなら、空を飛んでいるような錯覚を得られるんじゃないかと、ふとそんな気持ちが過ぎる。ひさしが少し邪魔をしているけれど、それでも広い青が広がっている。
バスが来たことを彼女に言われ、私は我に返る。並んでバスに乗り込むと、中はほとんど空いている。私たちと同じバス停から乗り込んでくる人もいなかったし、それ以前から乗っていた人も数えられるほどしかいない。
「二人分です」
晴美が言いながら小銭を機械に入れる。心地よい音が響き、お金が落ちる。運転手がそれを横目に見ると、口元に伸びたマイクを手に当てる。私たちは一番後部の席へと進む。途中、ヘッドフォンをして、音楽を聴いている私たちと同い年くらいの高校生の男の子と、全身黒い服を着てサングラスをかけている女性が座っているだけだ。私が奥の窓側に、彼女が手前の席に座ると、ゆっくりとバスが動き出す。
「発車しまぁす」
少し遅れて、運転手の声が絶妙なアクセントで響く。私が口元に手を当てて笑うと、彼女もそれに気が付く。
「今の、ちょっと遅すぎるよね」
彼女が小さな声で私に耳打ちをする。それから表情を崩す。エメラルドグリーンに輝く瞳が小さくなり、彼女の瞳に写っていた自分の姿が消える。そういえば、安藤さやかの瞳を見たとき、私はそこに映った自分に違和感があった。今彼女の瞳に映った自分はどうだろう。確かに格好は大人びているし、私の記憶の中にある自分よりも歳が高かったけれど、それほど違和感はなかった。私は、彼女といることでさらなる安堵感が得られるだろうと確信する。
「どうしたの、あーみ?」
彼女の目を見てぼぅっとしてしまった私を、彼女が覗き込んでくる。じっとその瞳を見ていたことが恥ずかしく思ったのか、私は頬に熱を感じる。私はごまかすように窓からの景色に目を移すと、そこに見えている空を指差す。
「あ、うん、とね。本当に、いい天気だなって」
それ以上深く聞かないように配慮してくれたのか、彼女は軽く相槌を打つ。けれど、その相槌がどことなく寂しく感じてしまったのは、気のせいだろうか。彼女は時々、とても悲しそうな表情をする。隠し切れない寂しさ、悲しさ、辛さが、彼女の意思に反するように、顔に表れる。きっと、春樹の前で気丈に振舞っているけれど、まだ登校拒否が治っていない彼女にとって、それは耐えられないほどの苦痛なのかもしれない。私は、彼女にねえ、と声をかける。
「何?」
「……ううん、何でもない」
登校拒否になった理由を聞こうかと思ったが、今は止めることにした。せっかく今日は二人で出かけるのだから、そんなことで水を差したくない。彼女は両手で私の腕を掴み、私を揺すぶる。
「もう、何よぅ、気になじゃない」
「どこで、知り合ったのかなって」
私は晴美と春樹がどこで知り合ったのか、興味がなかったわけではない質問を変わりにする。彼女は私が驚くくらいびっくりした表情をしてから、口をアヒルのように尖らせる。
「ええぇ、そんなこと、知りたいの? ほら、前に話したでしょ、少し」
彼女は顔を前に向けると、恥ずかしそうに顔を赤く染める。
「春樹、大学の院でカウンセリングの勉強してるって。私、さ、高校行かなくなって、でも家には居たくなかったから、いっつも街にいたんだ」
たまたま街で声を掛けてきた人の知り合いが、春樹だったとのことで、登校拒否の話をしたら、彼を紹介されたらしい。それがきっかけで彼と頻繁に会うようになり、いつの間にか彼に心を許している自分がいたそうで。要するに、ナンパされたってことだけど、彼女の可愛さを考えると、それは日常的なのかもしれない。話をしている間の彼女は本当に嬉しそうだ。一緒に住むようになったのは、彼女がどうしても家に帰りたくないということも理由だったし、彼が医者の息子であり、お金に余裕があったのも理由だった。私は彼女の話を相槌を打ちながら聞く。話し終わるまで、彼女はずっと頬を赤らめていて、きっと私も話を聞きながら赤くなっていただろう。
「じゃあ、玉の輿だ」
「たまたまよ」
ちょっと意地悪く言った言葉に、彼女は怒る様子もなくそう答える。たまたま。彼がお金持ちだったのは偶然ということだろう。そうだろう。好きになる人が金持ちかどうかなんて関係ないし、好きになった人がたまたまお金持ちだったって、それをすぐそう返せるなんて、きっと彼女は私なんかより数倍恋愛の経験が多いのだろう。ううん、そもそも、私は恋愛をしたことがあるのだろうか。私が眠りに落ちたのは中学の三年のときだし、そんな記憶は残念ながらない。小学生のころから私は男の子と一緒に遊ぶことも多かったけれど、それは普通の友達で、異性として意識したとは思えない。いつもショートカットで、負けん気が強くて、それでいて泣き虫で。そんな子よりも、きっと男の子たちは、女の子らしい子を異性として意識していただろう。今、彼女と一緒に居て彼女のことは好きだけど、それとは全然違う感情なのだろう。
「どうしたの?」
私が俯いてしまったのに気が付いたのか、彼女が心配そうに私の顔を見る。
「うらやましいなって」
「そんなことないよ。あーみだって、可愛いんだし」
エメラルドグリーンの目が、私を優しく包み込む。彼女には何でもお見通しのようだ。その彼女が、私の手を持って立ち上がる。
「着いたよ」
停留所にバスが止まり、私は彼女に促されるようにバスを降りる。かなり郊外にまで来たのか、大通りに面したところには所々ビルが立っているが、一本道を入ると、一軒家が並んでいる。その光景に、どこか、見覚えがある。
「覚えてる?」
「うん、何となく」
私が周りを気にしながら歩いているので、歩みはゆっくりとしたものだ。彼女はそのペースに合わせてくれ、強く私の手を握ってくれている。私は彼女の手の温かさを感じながら、必死にこれがどこの光景なのか思い出そうとする。車一台がやっと通れるほどの路地をしばらく歩くと、公園に行き着く。大きい公園で、周りには何本もの木が植えられており、背の高いネットもついている。他にも、緑とピンクに塗られた滑り台や、オレンジ色のブランコ、薄青色の鉄棒、赤色のシーソー。遠目からだけれど、確かに見覚えがある。彼女に手を引かれ公園に足を踏み入れると、すぐ近くに公衆便所がある。よごれた白色に、エンジ色の屋根を持っていて、壁にはたくさんの落書きがある。それ以上に目を惹いたのは、その隣に備え付けられている水飲み場だ。ペンギンの形をした水道で、頭から水を飲めるようになっている。お腹にも蛇口があり、手も洗える。私はこれを使ったことがある。
日曜日ということで、公園にはたくさんの子供が遊んでいる。まだ春とはいえ、太陽がしっかり照っているので、走り回ると熱くなるのだろう。何人もの子供が、そのペンギンから水を飲んでいる。子供によっては、そのまま口をつけてしまっているし、私もそうしていた。
「ここ、よく遊びに来たんだよ」
公園の隅を、子供たちを避けるように私たちは歩く。公園の中央は、しっかり土が踏み固められているが、ここは子供たちがあまり通らないのか、雑草が伸びている。隅にあったベンチの側にはシロツメクサがたくさんあった。よく四葉のクローバーを探したものだ。男の子たちとサッカーや野球をして、けれど最初に私が疲れてしまって、この黄色いベンチに座りながら、四葉のクローバーを探していた。私がそれを見つけて男の子たちに見せても、喜んでくれる子はいなかった。だから一層私はボーイッシュになったのかもしれない。
「うん。覚えている、気がする」
その答えに満足したのか、彼女は嬉しそうに微笑むと、先ほどの入り口とはちょうど反対にある別の入り口から公園を出る。私もそれに続き公園から出ると、遠くで誰かの叫び声が聞こえる。
否、それは耳に聞こえる叫び声ではない。心の奥底で、私に向かって私が叫んだものだ。けれど、遠すぎてそのときには何を叫んでいるのか分からなかった。私の中の記憶が、完全によみがえろうとしているのかもしれない。
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