現実6

現実6-1

 一睡もできないまま朝を迎える。途中何度も意識が途絶えたが、その度に脳裏を恐怖が襲い、私を眠りから引き上げる。私は、私に抱きつくように眠っている松田晴美の腕から逃れるとベッドから起き上がった。窓から漏れる光がとても眩しい。

 私が部屋を出てダイニングへ行くと、前田春樹はもう起きていた。

「おはよう」

 彼の声を耳に受けながら、私には返事ができなかった。何も言わないまま椅子に座ると、彼も何も言わずにコーヒーを運んでくれる。コーヒーカップを手に持つと口に運ぶ。熱さも何も感じない。けれど、苦さだけが舌を刺す。

「今パンが焼けるから、ちょっと待ってて」

 カップをテーブルに置くと、左目から涙が溢れる。悔しい。悔し涙だ。頬を伝わる涙がテーブルに落ちる。彼はどうぞ、とトーストを私の前に置くと、隣に座る。

「なんてか、俺、何もできないけどさ」

 困ったように話しかけてくれる。それだけでも私は嬉しい。返事も何も出来ないけれど、話しかけてくれる間は、現実を忘れていられる。

「一回、思いっきり泣いてみたら、どう? 誰にも遠慮しないで、全部吐き捨てて」

 その言葉が、私の心の奥に到達し、私の中にある恐怖に攻撃をしてくれる。私は両肘をテーブルに突くと、顔をその間にうずめる。そして嗚咽を繰り返す。

 それから一時間程経ち、晴美が起きてきたとき、私は窓の外をずっと見ていた。涙は枯れてしまったのか、もう流れていない。おはよう、という彼女の声は遠慮しているのかとても小さい。私は彼女がテーブルにつくのを確認すると、正面に回る。椅子に腰かけると、まっすぐ彼女を見る。顔を下に向けていて表情が見えない。広がったウェーブが頭を覆っている。彼女は大きめなパジャマから左手の人差し指と中指だけをだして頬をかくと、ようやく顔をあげる。壊れそうなほど弱々しい視線だ。

「あの」

「何?」

「ごめん」

 再び彼女が視線を落とす。考えてみれば、彼女は何も悪くない。それに、多分こういうことって、教える側の方が辛いのだと思う。確かに、私も眠れないほど辛かったけど、実際覚えていないことだし、どう考えても彼女は悪くない。むしろ感謝しなければならない。

「晴美が謝ることじゃないよ」

「だって、あーみ、かわいそうなんだもん」

 彼女の呟きに合わせるように、春樹がテーブルにトーストを運ぶ。そして彼女の頭を軽く叩く。

「てか、まずお前が明るい顔しろよ。そうしないと、笑ってくれないぞ」

 そのままキッチンに戻ってゆき、今度はトレーにコーヒーカップを三つ持ってくる。彼女の隣に座るとカップをそれぞれに前に置く。

「うん、そだよね」

 まだうつむいたままだったけど、彼女は声のトーンを上げて答える。私もそうしてくれた方が助かる。それから一層明るい調子で、彼は彼女の頭を叩く。

「ほら、見てやって、こいつの頭。爆発しすぎでしょ」

 私は握った手を口元に当てると、目を細めるようにして笑う。頭を叩かれた彼女は横を向くと彼をにらみが得る。

「ひどいよー。しょうがないでしょ。寝起きなんだから、私もいっそベリーショートにしようかしら」

 お返しのように、彼女も彼を叩く。すごく微笑ましい光景だ。しばらくそんなやりとりが続いた後で、彼女は立ち上がると笑顔で私を見る。

「ごめんね、もう謝らない」

 それを聞いて私は声を出して笑う。彼女はどうして笑われたのか分かっていないようで、きょとんとしている。それを彼が説明する。

「お前、一言目が謝ってんじゃん」

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