現実5-2
チャイムが響く。そのとき私は、前田春樹に頼んで掃除機を借りて自分の部屋の掃除をしていた。別に汚れていたわけでもないけれど、ただ何もしないでいるのに耐えられなかったから。
「ただいまー」
私が掃除機を切ると、松田晴美の元気な声が響く。私が部屋から出て玄関を見ると、春樹が彼女を出迎えたところだ。
「何だよ、それ」
彼が彼女の肩にかかっている大きな袋を指す。それにはただ笑って答えると、彼女は私に近づいてくる。
「あーみ、ちょっと来て」
私に声をかけると、そのままダイニングまで歩いていく。彼女の左肩には普段使っている鞄があり、右肩にはどこかの店の黄色い大きな袋がある。私は彼女をダイニングまで追う。彼女は鞄を床に投げると、袋をテーブルの上に置く。それから中を広げながら、嬉しそうに笑った。
「ほら、見て見て。あーみ用にって買ってきたんだから」
洋服の山だ。何着もあり、彼女はそのうちの一枚を広げて見せる。濃い桃色をした小さなTシャツで、黄色いファンシーな文字でLucy Girl!と書かれている。その服を私に合わせながら続ける。
「絶対あーみに似合うって思ったんだよね、これ」
「悪いよ」
「気に入らない?」
「いや、そうじゃなくて」
申し訳ないと苦笑いを浮かべるけれど、反面その服が気に入ってしまい困る。彼女は私の様子を意に介することなく、他の服やスカート、パンツをそれぞれ私に合わせる。
「まだまだあるよー」
「全部私のなの?」
「そだよー」
満面の笑みでそう答えられ、私は嬉しくなる。
「あーみ、何気に朝からずっとパジャマでしょ」
私が唯一持っていたワンピースは今日洗濯されていたし、実際私は朝からこのパジャマを着ている。すると彼女が手の裏を口元に当てて、声を小さくして春樹に聞こえないようにし離しかけてくる。
「そのパジャマで春樹の前に出たら、あいつ驚かなかった?」
「何で?」
「だって、そのパジャマ、前まで私が着てたんだもん」
そのまま彼女は彼の前を通りトイレへ入った。そういえば、彼が今日初めて私を見たとき驚いた表情をした。その理由がようやく理解できる。聞こえていたのか、私が彼女の姿を追うように振り返ったとき、彼は視線を外し、頭をかきながら口を鳴らす。
晴美は戻ってくるとすぐに服を袋に入れて、私を連れて部屋に入る。それから袋を床に置くと扉に戻り、鍵を閉める。この部屋には鍵が付いている。私は必要を感じないから使っていないけれど、元は彼女の部屋だった。彼女には必要なのだろう。振り返った彼女と目が合う。私が不思議そうな表情をしていたのが通じたのか、男子禁制なのよ、と首を傾ける。そのままベッドまで行くとそこに座る。私は部屋の真ん中に所在無く立つ。その時の彼女の表情はとても悲しそうに見えた。
「ごめん」
私はつい呟く。彼女の耳に聞こえたのだろう、顔を上げた彼女に悲しそうな表情はすでにない。
「何であーみが謝るの?」
私はベッドの彼女の隣に座る。
「ここ、元々晴美の部屋だったんでしょ。取っちゃったみたいで」
「春樹から聞いたな」
「うん。でも、聞かなくても分かるよ」
「あーみ気にするだろうから、そーゆーこと言わないほうがいいって言ったのに」
「だから、ごめん」
「いいのいいの。あーみがそんなこと気にしちゃいけないんだな。それにさ、私も本当はそうしなきゃって思ってたし。うん、いいきっかけなんだよ。恋人で同棲してるっていっても、私、春樹と、さ、まだ何もしてないんだよ」
体を正面を向けたまま、顔だけをこちらにむけて彼女は唇に右の人差し指を当てる。彼女の方が背が低いから、私は斜め下から見つめあげられる格好になる。
「実は、キスもあーみとのが先だったりするし」
さらに内緒だよ、と言われて、私は恥ずかしくなる。頬が熱くなり、きっと赤くなっているのだろう。彼女も言って照れたのか、正面を向きなおす。それから一度頷くと、小さな声で呟く。
「昨日、ごめんね」
しばらく沈黙が続く。それだけ彼女の様子は真剣なものだった。
「何で、晴美が謝るの?」
「だって、あーみ、迷惑だったでしょ」
小さな声は震えている。横から表情を覗うと、とじられた瞳からは涙が溢れている。私は気が付かなかった振りをし、隣から彼女にもたれかかり体重をかける。
「迷惑だって思ったら、悲鳴あげてるよ」
そしてそのまま頭を彼女の肩に傾けて、彼女の頬に耳が触れるくらいまで近づけた。彼女の息づかいが私の髪を通して感じられる。
「もしかして、晴美、私の機嫌にって服買ってきたとか」
「ばれた?」
私が冗談を言うと、彼女もそれに答える。少しだけ空気が和らぐ。小さな声で、彼女がありがとうと、囁く。私も劣らないくらい小さな声でただ、うん、と答える。そのまま私はしばらく彼女にもたれる。
チャイムが鳴る。突然だったので、私は驚いて体勢を戻す。彼女も驚いたようで、同時に顔を上げる。
「誰か来たのかな」
「そうみたいね」
「いいの?」
「春樹が出るよ」
彼女はそのまま後ろに倒れる。ばふっと柔らかい振動がベッドを伝わる。私も彼女の真似をして後ろに倒れる。危ない、と彼女の声が聞こえたときにはもう遅く、私は壁に後頭部を強くぶつけた。あまりの痛さに一瞬頭が停止してしまったようだ。
「どじー。あーみは私より背が高いんだから、分かるじゃない」
彼女が笑っている。私はしばらくベッドで小さく丸まり、頭をさする。私の手の上に彼女の手が添えられ、優しく撫でてくれる。彼女の手は暖かく、私はそれだけで痛みを忘れてしまう。その温もりは不思議なものだ。いつも私は彼女に救われている。彼女の手の温もり、肌の温もり、全身の温かさが私を癒してくれる。私は、その癒しにただ身を任せるだけでいい。遠くで、廊下を歩く足音が聞こえる。二人分の足音がダイニングへ向かっている。
松田晴美が前田春樹に呼ばれ部屋から出て行ってしまい、私は一人部屋に残されることになった。私はベッドに座りなおし、自分のことを考えてみる。神崎歩。私が私であることを定義してくれるものは名前しかない。いや、よく考えてみると目が覚めてからこの名前で呼ばれたことがあっただろうか。回数だけ考えるならば、圧倒的にあーみと呼ばれた数の方が多い。結局私を形作っているものはどれも曖昧なものでしかない。
安藤さやかのことを思い出す。それからあの、真っ白で窮屈な部屋。私は胎内から抜け出して、ここに来た。安心感のあった空間から、安心感のある場所へ移動しただけ。今の私には晴美の暖かさしかないのかもしれない。それは、悲しい。けれど、そう考えたおかげで昨日の出来事が理解できる気がする。私を包み込む全てを脱ぎ捨てて、生まれたての赤子と同じ格好になったとき、私は一人だったら、きっとその恐怖からその場に倒れてしまうだろう。けれど、同じように裸になった晴美と抱き合っていれば、恐怖よりも安らぎがある。だから……そこまで考えて私は、頭を振る。あの時私は、そんなことを考えていただろうか。ほとんど意識なく、ただ彼女に身を任せていただけ。その時々の自分の感情や相手の感情に溺れて。
やはりこのベッドは深く考えるには柔らかすぎる。あの時も、あまり深く考えなかった。私は一息つくと後ろに倒れる。今度は頭を打たないように、意識して小さめに。柔らかいベッドが私を受け止める。この部屋には、ベッド側にだけ窓がある。といっても、今その窓から太陽は見えない。おそらくこの時間なら太陽は、ダイニング側の空から沈み始めているだろう。私はそのまま目を瞑り、考えることを止める。そうして、どのくらいの間その格好で過ごしただろうか。廊下を通る足音が聞こえ、それから玄関が開けられ、人が出ていく。私が起き上がると、晴美が扉を開けて私を手招きしているところだ。私は立ち上がると彼女の元へ歩いた。
キッチンでは春樹が夕食の準備を始め、私と晴美はダイニングのテーブルについた。彼女が私を呼びに来たときの様子が変に感じた私は、正面の椅子に座ると、すぐにどうしたの、と聞いた。彼女は私から視線を外す。
「どうも、してないよ」
「今の、誰だったの?」
「健太。藤沢」
私は驚いて彼女の目を見ようとする。けれど、まだ外れたままだ。もし本当に藤沢健太だとしたら、どうして私に会わせてくれないのだろう。キッチンから、春樹が声を出す。
「知ってるの?」
「はい。以前、お見舞いに来てくれましたから」
「そうか、そうだよな」
「本当なんだ。どうして呼んでくれなかったの?」
視線を合わせないまま、彼女はうつむく。その顔は震えているように見える。
「あーみには、全部知ってもらいたいから」
「何を?」
「まだ、早すぎるから」
「俺から言おうか?」
もう一度彼はキッチンから、今度は彼女に向かって声を出す。
「いい。私が、ちゃんと言うから」
私には晴美が言っていることが全然理解できなかった。彼女は立ち上がると、私の後ろに回り肩に手をかける。
「今夜、全部話すから。それまで待って」
そのまま彼女は奥の寝室へと消えてしまう。私はその場に残され、そのまま椅子に座っている。ごめんね、と彼が声を掛けてくれる。
「晴美も、あれでちゃんとしてるから」
私はいいえ、と答えるとダイニングの窓から外を見つめる。太陽が沈んでゆく。ビルの峰が空に突き刺さり、ゆっくりと朱に染まってゆく。
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