現実4
現実4-1
どれだけ眠っていたか分からない。だいぶ長い時間眠っていた気がする。私は体に重圧を感じて、それとともに目を開ける。最初は何が私に覆いかぶさっているのか分からなかったが、そこから這い出るように私が体を動かすと、聞き覚えのある声が聞こえる。
「やっと起きたぁ」
「晴美?」
布団の上から松田晴美が私に乗っかっている。
「もー、あんまり起きてこないから退屈しちゃったじゃん」
耳のすぐ近くで聞こえた声は、怒っているようではなく、むしろ安心しているように思えた。
「ごめん。何時?」
「十二時!」
今日は厚手のシャツにハーフパンツというラフな服装をしている。シャツは薄い黄色で上二つのボタンが外れて肌が見えている。そこに見えている肌は顔や腕とは違い白い色をしていて、私は恥ずかしく感じてしまい目をそらす。
「朝ごはん、用意してあるからこっちおいでよ」
立ち上がり扉を開けると、彼女が私を手招きする。そのしぐさに、安藤さやかを思い出す。もう私があの部屋からいなくなったことはばれているだろう。怒っているだろうか、心配しているだろうか。悪いことをしてしまったとは、思う。私がなかなか起き上がらないのを見ると、晴美はベッドまで戻ってきて、私の手を取った。
「もう、行くよ」
何度握ってもらっても、彼女の手は暖かい。私は頷くと立ち上がり、ベッドから立ち上がろうとする。けれど、立ちくらみがして、私は彼女に倒れ掛かってしまった。驚きながらも、彼女に支えてもらい、何とか倒れることは免れる。
「わぁ、大丈夫?」
「うん、何とか。ちょっと立ちくらみしただけだから」
私よりも小さな彼女に支えられるなんておかしな光景だ。私は額を押さえると、彼女の肩を借りて今度はきちんと立つ。私はごまかすように笑う。
「お腹空いちゃった」
「本当、子供みたいなんだから」
彼女も嬉しそうに微笑むと、私の手を持ったまま、一緒に部屋を出る。廊下は左右に伸びていて、昨日は右から来てすぐここに案内されてので、右に玄関があることしか分からない。正面にも扉があり、その右上の部分には小さな窓がついている。また中央部にプレートが飾られていて、そのプレートには水色の字でTOILETと書かれている。彼女は私の手を握りながら、その廊下を左へ進む。すぐに広い部屋があり、そこがダイニングのようだ。備え付けのキッチンと、大きなテーブルがあり、そのテーブルの上には焼かれた食パンが置かれている。
「コーヒー飲む?」
彼女は私を座らせるとキッチンの前に立つ。私はうんと返事をする。ダイニングは広く、角には見たことないような大きさのテレビと、やはり見たことないオーディオが並んでいる。窓が二面にあり、太陽の光がたくさん入ってくる。キッチンがある側に私たちが入ってきた廊下があり、そこと窓以外の壁には引き戸がついていて、隣の部屋へと繋がっているようだ。彼女がコーヒーカップをテーブルに置くと、私の正面に腰かけ、両肘をつき、両手を顎に当てる。
「どうぞ、つまらないものですが」
「ありがとう」
私は食パンを食べ始める。蜂蜜が塗られているようでとても甘く、コーヒーもかなり甘めに作られている。私がおいしい、と言うと彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「よかった」
今度は両手を上に突き出し、顔も上へ向ける。伸びをしているようで、顔を戻すと、前に乗り出してくる。
「どうしたの?」
「ううん、何でもないよ」
アップで見つめながら食べるというのは、案外恥ずかしいものだ。それに合わせるように私の頬も赤くなっているのだろう、少し熱を感じる。
「今日は、その、制服、着てないね」
「まあ、今日は特別。もう休むって言ってあるし」
ごまかすように聞いたのだけど、彼女の返事が理解できなかった。私が軽く首を捻ると、彼女は説明を続ける。
「春樹にはさ、学校、行ってるって言ってあるんだ。春樹は院でそういったカウンセリング? の勉強もしてるらしくて。それで私を治したいって言ってくれたんだ。相談とか、たくさん乗ってもらったし、いっぱい助けられた。春樹には感謝してる。でも、本当は、学校行けないんだよね」
語りはとてもゆっくりとしたものだが、とても悲しそうだ。
「ごめん」
「ああ、謝らなくていいのに」
苦笑いを浮かべながら彼女が両手を振る。少しだけ、本当に少しだけ晴美のことが分かった気がする。いつもセーラー服を着ていたのは、彼女の中に罪悪感があるからなのだろう、そんな気がする。
「足りない?」
私が食パンを食べ終わると、彼女は立ち上がり食パンの載っている皿をキッチンのシンクへ運んだ。
「うん、満腹」
私は大げさにジェスチャーをし、お腹を叩いてみせた。それを見た彼女は、声を出して笑ってくれた。彼女がそのままシンクで洗い物をしている間、私は椅子に座り待っている。所在無く視線を泳がしていると、テーブルの上に置かれた新聞紙に気が付く。手を伸ばして引き寄せる。そういえば、新聞に手を伸ばすなんてことがあっただろうか。いつも最終面のテレビ欄くらいは見ていたような気がするけれど。一枚めくると、地元の記事がいくつか載っている。大きな文字だけを流し読みする。踏切事故だとか、殺傷事件だとか書いてあるけれど、やはり面白そうな記事は見当たらない。結局そのまま一面まで見たけれど、ただの時間つぶしだ。ふと新聞の欄外に目が行く。そこに書かれた年号に、私は目眩がする。
私は新聞をたたむと横に置き、テーブルにぺたんと伏せる。そのまま顔を右に向けると、大きくため息をつく。三年という月日をあらためて実感する。本当にそんなにも長い時間眠ってしまっていたんだ。
どうして?
答えられない疑問が頭の中に渦巻く。どうして私はそんなに長い間眠っていたのか。私は目を瞑ると、眠る直前のことを思い出せないかと記憶をたどる。
「大丈夫?」
左から肩を回され、右肩に手を当てられる。目を開けて体を上げると晴美が左の席に座っている。今度は彼女の右手が私の左頬を撫でる。彼女の手は今まで洗い物をしていて冷たかったが、それでも私には暖かく感じられた。
「また泣いてたでしょ」
「ううん、大丈夫」
「強がりなくせに泣き虫なんだから、昔から」
彼女は私を抱きしめて、耳元で囁く。
「いいよ、もっと甘えても。私がずっとそばにいてあげるから」
私からも彼女を抱きしめた。体は小さかったけれどとても柔らかくて、それ以上に暖かかった。私はこの暖かさがたまらなく好きだ、そっと私の傷跡に触れてそれを優しく癒してくれるような、どれだけ私が寂しくても、それを包み込んでくれるような、そんな暖かさ。
「ありがとね」
私は、晴美が痛いというまで、ずっと抱きしめていた。
それから私は窓辺に椅子を持ってきて座っていた。窓を通して見える風景はビルの屋上の連なりだ。この部屋もエレベータでかなり高いところまで上がったところにあるため、見える風景は高いものばかりだ。緑は見えなかったが、空の青さははっきりと分かる。空という自然へ、建物が挑んでいる。空を突き刺すように、建物が無尽に伸びている。私はただその風景を見つめている。右ひじを窓枠に当て、手のひらを顎から左頬に当てている。時間がゆっくりと流れているようだ。あーみ、と後ろから晴美が呼びかけてきた。振り返ると彼女がこちらに歩いてきている。
「なんだかそうやってると人形さんみたいだよ」
口もとに手を当てて彼女は笑うしぐさをした。髪先にかかってウェーブのかかった彼女の髪の毛が窓から入り込んでいる光に明るく輝いている。手を戻すと彼女の口はアヒルみたいにとがっている。私にしてみれば、彼女の方が人形に見える。輝いている彼女を見つめていると、私の頬は熱くなる。
「別に照れなくていいのに」
隣まで来ると彼女が私の肩を軽く叩く。人形と呼ばれて照れたのではないけれど、そのまま誤解してくれたほうがいい。私は曖昧に相槌を打つ。
「もうすぐだよ。ここからだとすごくきれいだから」
突然彼女の顔が真剣になり、私の両肩に手を置くと、窓の外を見つめる。その真剣な表情に一瞬見入ってしまうが、私は彼女が見ている窓の外の様子に視線を向けた。何がきれいなのか分からないが、私は黙って外を見続ける。
俄に……私には長く感じられたけど、西の、太陽が沈もうとしている空が赤づく。夕焼けだ。その赤さが、少しずつ広がってくる。神秘的な光景だ。
「空火照りだよ。空が照れて赤くなるんだって」
彼女が囁く。その声が遠くに聞こえるほど、私はその光景に見とれる。青い空を突き刺すビル、そして、赤く染まる空。
「晩霞だよ。恥ずかしいから、霞を立ちこめて」
ほとんど無意識に、私はそう返した。
「そんな悲しそうな声、出さないで」
耳元で彼女の声が、優しく私を包み込む。
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