現実3

現実3-1

 私という意識が回復して、一週間が過ぎようとしていた。面白くもない空間と、変化の乏しい夢とがただ繰り返される。あれから、松田晴美と竹内舞子を除く四人は何度もここに足を運んでくれた。恐らく、同じ高校だったから一緒に来ることができたのだろう。時間が合わなくて、と代わりに佐伯美枝が謝ってくれた。

 それでも、一向に私の家族は誰も来てくれなかった。安藤さやかは、神崎教授と言っていた。けれど一週間も経っているというのに誰も来てくれないなんて、きっと私にはもう家族がいないのだろう。繰り返し見る夢が、直接的に暗示してくれているのかもしれない。けれどあれは夢で、現実ではない……そう思いたいだけ? 記憶が戻れば分かるだろうに。

 それで、だから、私はこんなにも寂しい空間で過ごさなければならないのだ。そんなことを考えることが悔しくて、それなのに、それでしか自分を慰めることができないことが悲しかった。

 相変わらず彼女は私を大切に看病してくれた。彼女に聞けば分かるかもしれないが、自分のこと以上に聞いてはいけないような気がした。

「いいよ、別に。仕事だし、ちょっと、驚いただけ」

 何気ない一言が私に影を落としていたのは事実だが、彼女のおかげで私も少しずつ元気を取り戻していた。記憶に関しては進歩なく、はっきりと思い出せることは増えていない。それでも、六人の友達と遊んでいる光景が、何度か私の脳裏を過ぎっていた。懐かしく思えたが、それが本当の私の記憶なのか分からない。私の脳が勝手に見せている幻かもしれない。けれど、それを支えにしたかったから、私はお見舞いに来てくれたときに確かめることはしなかった。

 扉がノックされ、安藤さやかが部屋に入ってくる。初めのころはノックなんてしていなかったけど、私がよく驚いていたから、三日目ごろから彼女はノックしてから入ってくるようにした。おまたせ、と彼女は言い、両手に持ったトレーを棚に置くと、すぐに部屋から出てゆく。

「そうそう、今日は松田晴美ちゃんが来るって」

 顔だけ残して、ウインクをする。これは変わっていない。私は楽しみと答える。それからご飯をいただく。柔らかいご飯とお味噌汁、キャベツの千切りにハンバーグと、お昼のわりに量が結構あるのはいつものことだ。私の食欲はそれ以上で、その結構な量をすぐに食べてしまう。そのせいか、回復も順調なようで、今はこうやって一人でご飯を食べられるようになったし、一昨日には自分で立ち上がることもできるようになっていた。それでもまだ長い間歩いていることはできなかった。けれど、最初の頃を思えば嘘のようだ。もちろんまだ、部屋から出るときは安藤さやかと一緒だったし、私も彼女がいてくれたほうが安心できた。

 私は箸を置くと一度伸びをする。ふと、久しぶりにトレーの横に置かれた花瓶に目がつく。その花瓶には赤い造花が飾られている。元はちゃんとした花だったのかもしれない。私がいつになっても目覚めないから、誰かが造花に変えたのではないだろうか。でも、もし彼女がいつもいてくれたなら、花の手入れもちゃんとしてくれそうだ。彼女の前には別の先生が私を見ていたと言っていた。突然なのか横浜に行ってしまったというが、私はそれ以外のことを知らない。そんなことを考えていると再びノックされ、彼女が入ってくる。

「食べるの、早くなったね」

 顔が小さくなるほど嬉しそうに笑うと、彼女はトレーを手に持った。

「おかげさまで」

「いえいえ、私なんて」

 その表情のまま彼女はすぐに振り返り、足取りも軽く扉へ向かう。そして顔だけをこちらに向けると、もう来てるから呼ぶね、もう一度微笑んだ。

「あーみー!」

 すぐに松田晴美が私に呼びかけながら、そのまま私の近くに来る。椅子が五つあらかじめ用意されていて、ベッドを囲むように置かれている。彼女は私の一番近くの椅子に躊躇することなく腰かける。

「こんにちは」

 私は彼女に微笑みかける。彼女は今日も水色のセーラー服を着ている。山下透の話では、彼女は登校拒否になっていて、今学校に来ていないらしいが、どうして制服を着ているのだろう。

「あーみぃ」

 私以上に嬉しそうな笑みを浮かべ、彼女は私を抱きしめる。以前ほどの痛みはなかったが、彼女の温もりが私に伝わってくる。私は右手で体を支えると、左手を彼女の背中から右肩に回して、痛いよ、と小さな声を出す。なぜか、彼女が泣いているような気がした。彼女は動かなかったが、しばらくして体を離す。

「うん、ごめん」

 俯いていたせいで瞳は見えなかったが、涙で潤んでいるようにも見えた。けれど、次に顔を上げた彼女は目を瞑るようにして笑っていた。

「よかった。思ったよりずっと元気そう」

「もう歩けるんだよ」

「ほんと!」

「少し、くらいなら、ね」

 もう一度目を開けたとき、彼女の目は輝いていた。泣いていたように思えたのは、私の気のせいだったのかもしれない。だから、私は彼女に直接聞いてみることにした。

「ねえ、学校、行ってないの?」

 彼女は軽く視線を外すと、口をアヒルのようにして、うーと呻く。それが、茶色に輝いてウェーブのかかった髪と合わさって、とても可愛く見える。それから、少し気まずそうに、けれど明るい調子で答える。

「聞いちゃった?」

「うん、お見舞い来てくれたときに」

「そっかぁ」

 一瞬遠い目をしてから、彼女が相槌を打つ。

「そうだ。夏にさ、みんなで出かけようって、約束したんだ。晴美も、一緒に、どう?」

 けれど、彼女は今まで見せたことがないほど悲しそうな表情をした。その瞳に、私は吸い込まれそうになる。彼女は小さく、夏か、と呟いてから続ける。

「なら、聞いたと思うけど、私、家出もしてるから。都合、つけられたらいいけど」

 気まずい沈黙が流れる。重苦しい雰囲気に、私はどうして彼女がセーラー服を着ているのか聞くタイミングを逃してしまった。その沈黙を破るように、彼女が立ち上がる。

「ごめんね、なんか、お見舞いに来たつもりだったんだけど。今日は、帰るね」

 彼女が作る笑顔が疲れてみる。けれどゆっくりと私に近づくと、最初と同じように私を抱きしめる。そのままゆっくりと胸のポケットから何かを取り出すと、私の手の中に押し込める。そして小さな声で囁く。

「それ、読んで」

 彼女は大きく息を吸い込むと体を離し、ははは、と冷めた笑いと一緒に、帰ってしまった。私は何てことをしてしまったのだろうと後悔する。きっと彼女にとって触れられたくないことだったのだろう。軽率だった。私は首を振り、手に渡された紙を広げる。少し折れてしまったが、手紙のようだ。手紙に細かな、かわいらしい文字が並んでいる。

 私はその手紙に目を通すと、棚の上の花瓶の隣に置く。窓側に足を下ろすと、すでに窓から差し込んでくる光は少し赤くなっている。手紙の内容は、とても簡単に説明することができないもので、それを考えているうちにかなりの時間が経ってしまっていたようだ。

 私は立ち上がるとそのまま窓辺まで歩いた。ゆっくりとではあったが、足は軽い。そして右手を窓に当てる。ひんやりと冷たさが肌を通して伝わってくる。それは表面だけに留まらず、私の内部へと浸透してくる。まるで夢とは正反対で、体がびくんと跳ねる。私は左手をとっさに額に当てた。額は温かく、左手から伝わる熱が同じように内部へと入り込む。冷たさと暖かさが、ちょうど胸の辺りでぶつかる。その温度差が互いに譲ろうとせず、私を構成する真ん中で争う。私はその葛藤に身を任せる。

 再び長い時間が経ったようで、ふと気が付くと辺りは暗くなっており、私の左目からは涙がこぼれていた。けれど、暖かい涙だ。私は手を動かし、胸の前で組み合わせる。窓の外には桜の木がその幹を誇るように立っている。太陽の代わりに空にある月に照らされて、桜は恐ろしいほど美しく見えた。いつの間にか私の心は桜の木の下にいる。そこから空を見上げ、桜の間から暖かい藍色が透き通っているのに気が付く。その桜の外には輝くほど明るく月があり私を照らしている。

 月影という言葉を、ふと思い出す。確か中学に入って古典の習ったときに出てきた言葉で、素敵な意味だったからいつの間にか覚えていた。月の光、月の形、月の光に映し出されたものの姿。けれど、今この場所に立って初めてその言葉の意味が理解できたような気がする。言葉だけでは足りない、感じることで、物の本質が理解できる。

 私の心は、すでに外にあった。そして、それが答えなのだ。

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