現実2-3

 部屋に戻ると私は安藤さやかの手を借りてベッドに座りなおす。いつの間にかシーツが変えられていてきれいに整えられていた。彼女が言ったとおり、他にも働いている人がいて、私たちがお風呂に入っている間にシーツを入れ替えたのだろう。彼女は車椅子を部屋の隅に置くと、お昼の用意してくる、と扉から顔だけだしてそういい残した。私は返事をすると大きく伸びをする。とても晴れ晴れとした気分だ。少し汚れたコンクリート作りの白い部屋は、太陽の光を二倍反射して、私を照らしてくれる。そして一層私が着ている白のワンピースを輝かせる。

 服衣はすでに失われていた。

 振り返ると、真っ赤な造花は今まで以上に目立っている。光溢れる中で、その赤い姿を誇っているようで、純白の中にある赤い血液の染みのように見えた。私は手を伸ばし、造花にそっと触れてみる。寂しさや孤独よりも、今はなぜか穢れを感じ、私はすぐに手を引っ込めると前を向き直った。あらためて感じた、恐怖だ。

 私は生まれ出るのが早すぎたのだろうか、それとも遅すぎたのだろうか。この部屋から出ていったことは、自ら胎内という庇護の下から去ってしまったということなのか。それならば、今度は自分の身は自分で守らなければならない。そのためには、分からないことが多すぎる。

 神崎歩。

 結局、私が自信を持って断言できることは、この名前しかない。ショートカットで走り回っていたことや、看護婦に憧れていたことは、おぼろげで自信がない。自分で思い出したというのに。それに、三年もの長い眠りにしてもそうだ。本当に、そんなに眠っていたのか、結局、記憶が戻らなければはっきりしないのだろう。それよりも、どうしてそんなに眠らなければならなかったのか、こちらのほうが大切だ。それは、私が私であるという重大なアイデンティティに繋がる問題であろう。だから、ただ聞いて答えを知ったとしても、私にとって何の解決にもならない。私は、今はまだこの問題を心の奥にしまっておくことにした。

 もう一度大きく伸びをする。短く切った髪が軽い。自然と笑顔になる。頭の中ではすでに恐怖は薄れ、それ以上に今日来てくれるお見舞いが誰なのか気になっていた。

 安藤さやかが扉を開けて、トレーを持って入ってくる。

「どうしたの、にやにやしてるよ」

 私が下を向くと、彼女も笑いながら近づいて来て、棚にトレーを下ろした。私が大げさにばれた、と聞くと、彼女は声を出して笑い出した。

「ひどい!」

「ごめんごめん。なんか、すっかり元気で嘘みたいって思ったの」

 彼女は片手で謝りながら、ウインクをする。何気ない言葉だったけれど、その言葉は私の奥まで入り込んだ。

 彼女に食べさせてもらい食事が終わると、彼女はトレーを持って立ち上がり、すぐ呼ぶね、と言う。

「実はもう来ちゃっててね。お昼が終わったら案内するって言ってあるの。いい?」

 私が頷くのを見送ってから、彼女が部屋の外に出ると、そこで手招きをする。本当に近くに来ているようだ。それからぞろぞろと、五人が入ってきた。それぞれ手に丸い椅子を持っていて、それを私のベッドを囲むように置くと、右の窓側にいる女性が手を上げる。

「えっと、とりあえず自己紹介します。私から、反時計回りで……私は竹内舞子」

「佐伯美枝です」

「榊楓」

 それから左側の奥に移る。

「山下透」

「藤沢健太」

 右側に女の子、左側に男の子だ。みんな松田晴美と同じ高校生のようで、彼女と同じセーラー服を美枝と楓が着ている。舞子は茶色のブレザーの制服で、スカートが一番短く膝まで見えている。透と健太はそっくりの黒の学生服を着ていて、二人とも第二ボタンまで開けている。

「でもよかったぁ。目ぇ、開けてくれて」

 自己紹介が終わりそれぞれが椅子に座ると、足側の一番遠くにいる楓が最初に口を開けた。彼女はかなり度の強そうなめがねをしていて、優等生の雰囲気が漂っている。黒髪もストレートで長く、前髪を左右にしっかり分けてピンで留め、目にかからないようにしている。少しぽっちゃりとした体系で、膨らんでいる頬はピンクというよりも赤く、それ以上に細い目が印象的で、少しでも笑うと見えなくなるくらいだ。手にはハンカチが握られていて、それほど暑くないと思うのだけど、時々額の汗を拭っている。

「でも、覚えてないって言われたときはショックだったけどね」

 舞子が苦笑いを浮かべる。髪の長さは今の私と同じくらいだけど、彼女は輝く茶色に染めていて、ウェーブが全体にかかっている。顔は小さいが、目は誰よりも大きくくっきりとしていて、カラーコンタクトをしているのか、瞳は緑色だ。肌もほどよく焼けていて、それ以上に見た目に気を使っているようで、頬や目先、眉、唇には化粧がされている。

「そんなこと言っちゃ悪いよ」

 舞子の肩を叩きながら、美枝が返す。一番小柄で、隣の楓の半分ほどしかない。最初一人だけ中学生かな、なんて思ったが、それは失礼だと思い、口には出さない。けれど、一番懐かしさを彼女から感じることができる。おかっぱを少し伸ばしたくらいの髪の長さで、シャギーを入れて内に巻いている。前歯がいつも出ていて、いつも笑っているように見えた。

「いいよいいよ、本当のことだし」

 私は女の子を観察しながら答える。

「あーみは変わってないね」

「そう?」

「うん。昔のまんま。ちょっと痩せたけど」

「いいよねぇ。私も痩せたいわぁ」

 楓が言うと、みんなが笑う。

「何よ!」

「ごめんごめん」

「今の最高」

「私だってダイエット色々と挑戦してるんですからね。きっと夏にはナイスバデイよ」

 それからりんごダイエットやバナナダイエットなどと、食べ物で挑戦したダイエットの経験を延々と語り続ける。

「でもねぇ。途中で投げ出してリバウンドが激しいったら」

「だからさ、それがいけないんじゃない?」

「何よ、それって」

「食べ物のダイエットばっかり」

「もっと健康的な、ジョギングとか運動で痩せようって思ったほうがいいんじゃない?」

「それができればねぇ」

 そんな明るい会話を私は楽しく聞いていた。左手奥に座っている透は、冗談を言い合っている女の子の会話を追っていて、一緒に笑っている。少し色を抜いた長髪が気になるのか、何度も髪を書き上げている。眉は抜いてしまったのか、やたらとかきれいに形の整った眉が描かれている。誰よりも肌の色が濃く、サーファーとかボーダーだと紹介されると納得してしまうだろう。笑うと白い歯が見えてとてもさわやかだ。

 それから手前に座っている健太に視線を移すと、ちょうど彼もこちらを見ていた。目が合ってしまい、照れたのかすぐに視線を外したけれど、その瞬間微笑むように少し細めた目は、とても優しく懐かしく感じた。隣の透とは対照的に短い髪をつんつんに立てていて、肌も透ほどではないが焼けている。彼もスポーツをやっているのだろう。外見にはあまり興味がないのか、眉や唇を整えている様子はなく、それが返って不自然に見えた。

「聞いてる、あーみ?」

 舞子が私を覗き込み聞いてくる。

「あー、やっぱり聞いてないでしょ」

「ごめん、何だった?」

「しょうがないよ、まだ起きたところなんだから」

「いいよ、もう」

 すねたように横を向いた舞子だったけれど、怒っているわけではなく、すぐに別の話題を三人で始める。私はただ微笑むと、もう一度全体を見渡す。最後、健太のところに視線がいくと、真っ黒な瞳とまた目が合い、彼が話しかけてくる。

「何か、思ったより元気そうで安心した」

「ありがと」

「なんてか、よかった。うん、よかった。いろいろ考えてたけど、よく分かんねーや、悪い」

 健太の首を透の腕が捕らえる。そして、余った手で、健太の頭を叩きながらにやりと笑う。

「こいつよ、大変だったんだぜ、中学んときさ」

「うるさいなっ」

 幸せな時間だ。取り留めのない会話だったし、私自身覚えていないことばかりだったけど、不思議と懐かしさを感じることができた。

 舞子が何かを思いついたように手を打つ。私が彼女を見ると緑の瞳が少し揺れる。

「夏までには戻って来れるでしょ? そしたらさ、みんなで海行こ、海」

 私はいつここから出られるのか分からなかったから、あいまいに首を動かす。

「それでバーベキューしたりしてさ」

「また食べることを!」

「いいでしょ」

「ついでに花火だろうな」

 健太も腕を組み話題に入ってくる。透も楽しそうに頷く。

「そしたらよ、俺の華麗なボードさばきが見れるぜ。俺に惚れるなよ」

「それはないね」

 透は美枝を指差したが、すぐさま否定される。みんなの心はすでに夏に向かっている。

 私は、私の心配はどこへ向かうのだろう。心に足枷をされていて、みんなのところまで一緒に行けない。鎖を繋がれた犬のように、私が自由でいける範囲のなんと狭いことか。もしも記憶が戻ったのならば、私もみんなと一緒に楽しく夏を迎えることができるのか。そう考えているとうと松田晴美の顔が浮かんでいた。私が彼女の名をつい呟くと、舞子以外みんなその名を聞いて驚いた表情をする。

「彼女、お見舞いに来たの?」

 晴美と同じ制服を着た美枝が、私を驚いたまま見つめる。

「うん。昨日、お見舞いに」

「へぇ、意外」

「どうして?」

「ちょっと、ね」

「てか、あいつさ。去年の途中からあんまし学校来なくなってさ、登校拒否」

「それで、そのまま家出」

「私に相談もなし」

 彼女は制服を着ていた。どうしてだろう、私には分からない。

 話題はまたすぐに取り留めのないものに移っていったが、私はそこにいるだけで幸せだった。何もない部屋だったのに、人が集まるだけでこんなに変わるものなのか。けれど、それも一時間ほどして、安藤さやかが入ってきて、そろそろ、とみんなを帰らせてしまった。私も疲れてきたところで、ちょうどよかったけれど、みんなが帰ってしまうと、この部屋の寂しさ、冷たさを強く感じることになった。

 私は寝転び、天井を見つめた。耳の奥では、まだみんなの会話が続いている。みんな今年三年になったところだと言っていた。私と同じ中学に通っていて、当時は松田晴美を含めた七人でよく一緒に遊んでいたらしい。だけど、晴美の話をみんな避けているような気がした。ただ竹内舞子だけは学校が違うようで、彼女もその理由が分かっていないようだった。晴美は高校一年の途中から学校に来なくなり、そのまま家出をしてしまった、ということだ。彼女に何があったのか、どうして昨日は制服を着ていたのか。それは今どれだけ考えたところで分かるものではない。

「私が、必ずここからあーみを救い出してあげる」

 どうして彼女はそんなことを言ったのか? 実際救い出して欲しいのは彼女のほうかもしれない。よく分からない。それから、私はこれからのことを考えてみる。私はどこへ帰るのだろう。友達はお見舞いに来てくれたけれど、誰よりも先に来てくれなければならない家族は、まだ誰も来てくれていない。恐怖だ。きっと、私には帰る場所なんてないんだ。こうやって私が眠ってしまったから、私は捨てられてしまったのだ。

 左目か涙が流れる。

 寂しさよりも悔しさが大きい。もう分からないことだらけだ。考えても答えは見えてこないし、考えれば考えるほど自分が惨めになり、疲れる。私は目を瞑ると、疲れに身を任せる。何とも心地より浮遊感がそこから得られる。浮いているようで、留まっているようで、ゆらゆらと揺れている。しばらくその波に揺られていると、私はそのまま眠りに落ちていった。

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