現実2-2
安藤さやかが部屋の掃除をしている間、私は所在無くベッドの上で体操座りをして、頭を膝の間に入れてぼーっと考えていた。彼女は昨日と同じような白い服を着ていて、今は頭に三角巾を被っている。ほうきとしりとり、それから水の入ったバケツと雑巾とで、もくもくと掃除をしている。
「いいよ、別に。仕事だし」
何気なく言った彼女の言葉だったが、それがなんと味気ないものか、こうやって目の前で掃除をしてもらっていると、あらためて実感させられる。結局、私のことをこうやって面倒見てくれるのは、それが彼女の仕事だからだ。彼女の陽気な鼻歌が、冷たい部屋の中に静かに響く。私は顔を上げると、不思議と彼女の姿を追っていた。そういえば、私は幼いころ、看護師になりたいと憧れていた、そんな気がする。あまり健康とはいえなかった当時の私は、よく母親に連れられて病院に来ていて、そこで働く彼女たちに恐怖と同時に感謝の気持ちを抱いていた。懐かしい、忘れていた思い出だ。安藤さやかが看護師なのか分からないが、どことなく私の抱いているイメージと違うような気がした。あれからかなりの時が経って、病院にもあまり通わなくなり、だからこそ、当時のイメージが私の中に深く根付いているのだろう。
彼女は部屋の隅に四つんばいになり、角を雑巾で磨いている。彼女の姿はひどく健気に見え、この仕事が本当に好きなのだろう。何とも味気がなかった。ふぅと息を吹き、上半身を起こして額の汗を拭った彼女は、こちらを向くと満面の笑みを見せる。
「終わり」
すぐに立ち上がると、バケツに雑巾を入れてほうきとちりとりを持った。
「ちょっと待っててね。今から車椅子持ってくるから」
そう言い残して部屋から出てゆく。お風呂に入りたいと思ったのは、彼女の香水の香りを嗅いだからだ。それまではあまり気にならなかったけど、自分が惨めに思えてきて、さらに窓の外の風景を見たことも重なり、きれいになりたいと思ったのだろう。けれど、上辺だけの美しさ以上に、水が私の中にたまっている何かを流し去ってくれるのではないかと期待したからでもあった。
「お待たせ」
やけに楽しそうな口調で、安藤さやかが車椅子を押して室内に入ってくる。そのままベッドの隣に車椅子をつける。
「立てるかな?」
彼女に支えられるようにして、私はベッドから足を下ろした。それから車椅子に腰を下ろす。ありがとう、と私はまだ支えてくれている彼女に言う。鼻に香水がかすめる。不思議な、夏の海を思わせるような香り。遠い遠い、はるかなる生命をその中に感じる、そんな香りだ。よし、行くぞ、と後ろに回った彼女が言う。私が乗った車椅子は動き出し、そして、初めてこの部屋から外へ出ることができた。
途中の廊下はつまらないものだ。つくりは私の部屋と大差なかったし、他の部屋への扉が二つ、三つあっただけだ。私の部屋の前には「神崎歩」というプレートが付いていて、それだけが、私が私であるというアイデンティティのような気がして、不思議と私の気分は高揚してきた。もちろんそれは、お風呂に入れるから気持ちが高ぶっていたせいでもあった。
ただどうしてか分からなかったのだが、私がお風呂場に着くまで、誰とも会わなかった。他の部屋にはプレートがついていなかったので、患者は私だけなのかもしれない。安藤さやかのようにここで働いている人が他にいるだろうと思っていたから、それは余計に気味が悪く思えた。私は途中で、誰もいないの、と安藤さやかに聞いてみた。
「うーん、いないこともないよ。今は、少ないかも」
曖昧にしか答えてもらえなかったが、深く追求する前に私たちはお風呂場に着いてしまった。彼女は扉を閉めると、浴槽がある側の戸を開ける。中から暖かそうな蒸気が溢れてくる。それから当然のように彼女は自分が着ている服を脱ぎ始める。
私は白色をした、何の飾りもない白い服を着せられていたので、そんなに脱ぐのに苦労しないだろうと思っていたが、それでも一人では脱ぐことができそうにない。
「しょうがないなぁ」
安藤さやかに手伝ってもらい、全部の服を脱ぐ。彼女も女性だし、気にしないようにしていたが、さすがに手伝ってもらうと気恥ずかしい感じがする。それから彼女に支えられて立ち上がると、私はそのときになって初めて、目の前にあった鏡に気がついた。私の口から、驚きの声が飛び出す。そこに映っていたのは、私ではなかった。いや、どことなく自分の面影はあるのだが、何かが違うように感じる。けれど、私にはうまくそれが説明できない。鏡に映った私はぼさぼさの髪をしていて、目もうつろで、怖いくらいに痩せていた。それ以上に自分の目を惹いたのは自分の胸だ。すべての栄養がそこに回ってしまったようで、やけに膨らんで見えた。私はまだ胸なんて全然なかったのに。どうして今まで気がつかなかったのだろう。
安藤さやかに連れられて浴室に移り、そこに置かれていた小さな椅子に腰掛ける。呆然としていて、久しぶりに浴びるシャワーやシャンプー、石鹸の香りも、よく分からなかった。彼女のなすがままに体を洗われ、頭を洗われた。気が付くとすでに私は浴槽に浸かっていた。隣を見ると、彼女は鼻歌を歌いながら自分の体を洗っている。
私は思ったよりも長く眠っていたのかもしれない。ずっと、ずっと、あのベッドで目覚めることなく。暖かいお湯が、ようやく私の内部にまで浸透してきた。
ゆっくりと、ゆっくりと。
その暖かさが、私の奥の凍った心を溶かしてゆく。そして同時に心も侵食し、やがて私から不安を取り除いてしまった。
「ねえ、私って、いつからここにいるの?」
「知りたい?」
ちょうどシャワーを浴びて体を流していた安藤さやかは、少しだけ驚いた表情をしてこちらを向いた。もし私が私を知ってしまったら、私は私でなくなってしまうかもしれない。そうしたら、もう服衣に帰ることができないかもしれない。そんな不安がなくなってしまっていた私は、それ以上に自分のことを知りたいと思った。だから私は、うんと頷く。シャワーを止めると、彼女は私の入っている浴槽の隣に座った。白かった肌が熱にほんのりと色づいていて、やけに艶やかに見えた。
「私もね、神崎教授の娘さんということを前の先生から引き継いだところで、実はあんまり詳しいことはまだ分かってないんだけどね」
それから少し間を空けて、彼女は私の前に三本指を立てた。
「三……年?」
安藤さやかは細い瞳を少し揺らすと、視線をあげる。私はしばらく何も言えず、ただ湯船に映る自分を見つめる。
「さ、上がろっか。長いことお風呂に入ってるとのぼせて危ないかもしれないし」
私は頷き、彼女に支えられるようにして立ち上がった。
浴室の隣にある脱衣所で、私は悪戦苦闘しながら安藤さやかに服を着せてもらった。先ほどまで着ていた服とは違い、同じ白色をしていたがかわいいワンピースだ。薄い布でできていて、腰の辺りに同じ生地でできた紐がベルトのように付いている。それを締めれば腰が締まって見栄えがいいかもしれないが、あえてベルトはせず前に垂らしておいた。体を締め付けないようにという彼女の考えなのだろう。スカートの丈は長く、車椅子に座ると膝がちょうど隠れるくらいの長さがあった。上の左胸にはワンポイントとして、英語でRoasted Bargainと書かれている。鏡に映った自分を見て、一層自分じゃないように思えた。
「そんなに自分の顔がおかしいの?」
安藤さやかに笑われたが、おかしいと思って顔がにやけたのではない。
「髪の毛、切りたい」
「ええっ、きれいなのに」
真っ黒な髪の先はシャワーを浴びたせいでまだ濡れていて、彼女に櫛で梳かしてもらいまっすぐストレートに伸びている。鏡に映る自分は、女性のようできれいだったけれど、私は普段長髪にしていなかったはずだ。
「じゃあはさみを持ってくるから、ちょっと待っててね」
相変わらずあわただしく彼女は出ていく。私は一人残されると、もう一度鏡を見た。車椅子に座って、じっと私を見つめている。そこに映った私は、本当にどこか別の世界のお嬢様のようで、自分らしさのかけらも感じさせてくれない。
三年という月日を、眠って過ごした。
実感のわかない事実は、目の前の女性が、自分の中のイメージより大人に見えたせいで、遠くの世界のできごとのように、まるで私に落ちてこない。しばらくすると安藤さやかが戻ってきて、どんな髪型にするか聞いてきた。私が考えているうちに彼女はてきぱきと透明な合羽のようなものを私に被せる。
「短くしてください。耳にかかるくらいで」
「そんなに切っちゃうの?」
「お願いします」
彼女は私の髪にはさみを入れた。痛みもなく、髪の塊が落ちる。なぜか髪とともに、私の失われた三年も捨て去ってしまうような気がして、私の心は軽くなってゆく。
「そうそう、今日またお見舞いが来るよ。前からの友達だって。それに今度は男の子も来るってさ」
相槌を打ちながら、鏡に映った私はとても楽しそうに見えた。実際楽しいのかもしれない。友達がお見舞いに来ると言われても、誰が来てくれるのか見当もつかない。いくつか思い出せる顔もあるけれど、それが誰かも分からない。どうにか思い出そうと試みるのだけれど、まるで鍵でも掛かっているように思い出せそうもない。外からのきっかけがあれば、不意に思い出すこともあるかもしれないけれど。
「終わったよ」
両肩に手を置かれ、安藤さやかが横から覗き込むように私を見る。我に返るように鏡を見ると、やけに懐かしい顔が映っていた。
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